第20話 写本屋は、最終巻を書く
城に戻ると、広場に台が組まれていた。
十日後に、戦勝の祝宴を開く。領主様の布告だった。城下の広場で、英雄と、浅瀬を守った者たちを讃える。酒は城が出す。
祝宴の翌日に、第二巻が写字生に回る。
それも、布告に書いてあった。
『英雄グレンの第二巻、灰川の戦をもって成る。祝宴の日に、その一章を広場にて読み上げさせる』
一章、と書いてあった。どの章かは、書いてなかった。
俺は、知っていた。
日付の入っていない頁。副官の名前を変える章だ。祝宴の広場で、英雄の目の前で、詩人が読み上げる。第一巻の副官の名前は、写しの誤りだった。本当の副官は、ヴェイル家の三男ロラン殿だった、と。
英雄が生きて帰ってきたので、領主様は、終わり方を変えたのだ。英雄を殺せなかったなら、英雄の前で名前を変える。英雄が黙っていれば、英雄がそれを認めたことになる。
*
グレンは、右の腿に布を巻いて、杖をついて歩いていた。矢は骨を外れていた。
城の部屋で、グレンは窓の外の台を見ていた。
「祝宴で、言う」
俺が部屋に入るなり、グレンは言った。
「何を」
「副官の名前だ」
グレンは、窓から目を離さなかった。
「伝記の英雄は、副官の汚名をいつか必ず晴らすと誓った。俺は、その誓いを、酒場で何度も読み上げられた。叙任の広間でも、牧草地でも、俺はその英雄の顔をして立ってた」
「お前が誓ったんじゃない。俺が書いたんだ」
「客は、そんなことは知らない」
グレンは、杖に体重を預けた。
「舞台の上で言わされた約束も、約束だ。俺は一度も、副官の名前を口にしなかった。守れない約束になるからだ。だが今は、守れる」
「守れない」
俺は言った。
「お前が祝宴で兄貴の名前を言えば、領主様は書庫の紙を出す。鴉の口の戦なんかどこにもない、グレンという騎士はどの名簿にもいない。英雄は偽物になる。偽物の口から出た兄貴の名前は、偽物と一緒に捨てられる」
「なら、どうする」
グレンが、ようやく俺を見た。
「黙って、名前が変わるのを聞いてろってのか。広場の真ん中で」
俺は、答えなかった。
答えは、もう決めてあった。
*
その晩、俺は城を出て、町の店へ帰った。
紙を買いに行く、と門番に言った。今度は嘘ではなかった。
店の戸を開けると、帳場に灯りがついていた。
親父が、写字台の前に座っていた。咳をしながら、注文の祈祷書を写していた。この一年で、また痩せていた。
「帰ったのか」
「少し、写すものがある」
親父は、何も訊かなかった。
俺は、写字台の端に紙を広げた。
最終巻は、短くていい。一晩で書ける。二年前、英雄を一人作るのに、ひと月かかった。英雄を消すのに、ひと月はいらない。
一行目を、書いた。
『英雄グレンと、鴉の口の戦は、この私が作った』
それから、書いた。
鴉の口の戦は、どこでも起きていない。三百の兵も、二千の敵も、旗の策も、副官への密命も、全部、写本屋が写してきた戦記から借りて組み立てた作り話だ。英雄を名乗る男は、この私が雇って、英雄の顔をさせた。騎士の試しの段取りも、広間の台詞も、遺品の買い取りの触れも、私が書いた。
書いているうちに、手が止まらなくなった。
嘘を全部並べると、思ったより長かった。
次の頁に、書いた。
『ここから先は、私が書いたものではない。あなたがたが見たものだ』
葦辺の村の、夜の浅瀬。英雄が四度渡って、最後に子どもを抱えて、肩に矢を受けたこと。灰川の橋の袂で、狼煙が上がっても橋を焼かず、西の見張りの隊の六十人を、最後の一人まで渡したこと。倒れた兵を担いで、腿に矢を受けたこと。
それを見た者の名前を書いた。葦辺の者。義勇兵。西の見張りの隊の六十人。
それから、最後の頁に、書いた。
『副官オルドについて、私は何も書かない』
筆が、止まった。
二年前、副官の欄に兄貴の名前を書いた。兄貴を守るために。
その一行が、兄貴が自分で決めたことを、他人の命令にした。名前のなかった恩人に、名前をつけもした。どちらも、俺の嘘がしたことだった。
『十人長オルドが、二年半前の秋の夜、何をしたのか。私の言葉は、もう信じなくていい。その夜を見た者に訊け。灰川の西、葦辺村の渡し守マルタ。殿の隊、二の隊のダグ。そして、この春、浅瀬で戦った麦野村の者たち』
麦野村の名前を書くとき、筆が重かった。
布告は、浅瀬で戦った者の、過去の不在と名簿の誤りを問わない。印は、領主様のものだ。
それでも、名前を書けば、九人は――今は八人は、もう隠れられない。
俺は、それを書いた。
隠れるかどうかは、八人が決める。俺が決めることじゃない。
*
明け方、店の戸を叩く音がした。
開けると、ブラントが立っていた。供は連れていなかった。
「城にいないと聞いた」
ブラントは、写字台の上の紙の束を見た。何も訊かなかった。
「一つ、頼みがあって来ました」と俺は言った。
俺のほうが、ブラントを呼んでいたのだ。昨夜のうちに、城の厩番に言伝を頼んでおいた。
「英雄は、あなたに約束しました。本当の白河を、版元に書かせると」
「断った」
「知っています。浅瀬のことを、紙にするな、と」
俺は、最後の頁の、余白を見せた。
「名前は書きません。数だけ、書かせてください。白河は八百だった。浅瀬には、三人いた。それだけ」
ブラントは、長いこと余白を見ていた。
「三十人には、ならないか」
「この本を読んだ者は、もう私の書いた数を信じません。三は三のままです」
ブラントの口の端が、少しだけ動いた。
笑ったのかどうか、分からなかった。
「……数だけなら、書け」
*
三十部、写した。
親父が、半分を写した。咳をしながら、一字も間違えなかった。
最後の一冊を綴じたとき、親父が、俺の書いた最初の頁を見ていた。
「オルドの字は」と親父は言った。「お前より、下手だった」
「知ってる」
「それでも、あいつはお前の字を、下手だと言ってたな」
親父は、それきり何も言わなかった。
昼前に、北と南へ発つ隊商に、十五部ずつ預けた。宿場ごとの吟遊詩人に、一部ずつ渡してくれと頼んだ。礼金は前払いにした。
二年前と、同じやり方だった。
一部だけ、手元に残した。祝宴の日に、広場で使う。
*
城に戻ると、グレンが中庭で待っていた。杖をついて。
「店に帰ってたな」
「紙を買いに」
「顔に、紙のことしか書いてない」
俺は、グレンの前で立ち止まった。
「祝宴で、兄貴の名前を言うな」
グレンの顔が、固くなった。
「誓いを、破れってのか」
「誓いを書いたのは、俺だ」
俺は言った。
「知らない男の口に兄貴を預けるつもりはない。一年前、そう思って、俺は知らない男を雇った。雇って、その口に兄貴を預けた。始めたのは、俺の嘘だ」
中庭の敷石が、足の下にあった。四十二枚。
「だから、終わらせるのも、俺がやる」
グレンは、長いこと俺を見ていた。俺の顔を読んでいた。何が書いてあるのか、俺には分からなかった。
「……なら、俺は祝宴で何を言えばいい」
「何も言うな」
俺は言った。
「生きていろ」
グレンは、何か言いかけた。
それから、杖を持ち直して、俺に背を向けた。
「台本が、短すぎる」
それだけ言って、グレンは回廊のほうへ歩いていった。
祝宴まで、あと三日だった。
(第20話 了)




