第19話 英雄は、橋を焼かない
夜明け前に、本隊が砦を出た。
千二百の兵が、松明を消して、東の街道へ下っていった。ヴェイル隊長は、最後に馬の上から、橋の東の袂に並んだ義勇兵を見た。
「丘の線に着いたら、狼煙を上げる。狼煙を見たら、橋を焼け」
それだけ言って、隊長は本隊のあとを追った。
橋の東の袂には、油の樽を積んだ荷車が三台、置いてあった。
二年半前と同じだった。
「まだ西に、誰か残ってるか」
グレンが、ダグに訊いた。
「西の見張りの隊が、六十」とダグは言った。「昨日の夕方に、引き揚げの伝令が行った。国境の丘からなら、昼までにはここに着く」
「狼煙は」
「本隊の足なら、昼前だな」
グレンは、何も言わなかった。
*
俺の持ち場は、鴉が丘だった。
自分で決めた持ち場だった。
丘の上に、英雄の旗を一本と、色の違う旗を十二本立てた。義勇兵の女房たちが、冬のあいだに縫ったものだ。トマと、脚の悪い年寄りの義勇兵が六人、俺と一緒に丘に残った。
『鴉の口のグレン』第一巻で、英雄は旗の位置を変えて、二千の敵を迷わせる。
俺は、写してきた指揮官の記録から、その段取りを借りて書いた。本物の戦で使われたことがあるのかどうか、知らなかった。
今日、使う。
「西の国の兵は、伝記を読んでますか」とトマが訊いた。
「読んでなくても、旗は見える」
旗が多ければ、兵が多いと思う。旗が動けば、兵が動いたと思う。紙の上で考えたことだった。紙の上でしか、考えたことがなかった。
日が昇ると、川の西の丘から、西の国の兵が下りてきた。
槍の穂先が、朝日で光った。数えるのを、途中でやめた。
*
最初の押し出しは、橋に来た。
橋の上は、四人並ぶのがやっとの幅だった。西の国の兵が、盾を並べて、橋を渡ってきた。橋の東の袂で、義勇兵が荷車を二台、横倒しにして、その陰から槍を突き出した。
丘の上からは、全部見えた。
グレンは、横倒しの荷車の上に立っていた。
剣は持っていなかった。ダグに教わったとおり、前ではなく、後ろを見ていた。義勇兵たちの顔を。グレンの顔が動かないから、義勇兵たちは退かなかった。
矢が、グレンの足元の荷車に何本も立った。グレンは、一歩も動かなかった。
「旗を、北へ二本」
俺が言うと、年寄りたちが旗を抜いて、丘の北の端へ走った。
橋の西で、敵の後詰めの列が、少し止まった。丘の北で動いた旗のほうを、見ていた。
一刻。橋は、もった。
*
二刻目に、下流から、鬨の声が聞こえた。
浅瀬だった。
柳の曲がりの先で、西の国の兵が、川に入り始めていた。三百か、四百か。浅瀬の場所を、知っていたのだ。去年の夏の斥候が、持ち帰ったのだろう。葦辺の年寄りは、言わなかったのに。
浅瀬の東の岸に、ブラントがいた。
麦野村の九人と、布告で集まった百二十人と、本隊が残した五十。
ブラントは、岸のいちばん前に立っていた。白い頭が、遠くからでも見えた。
浅瀬を渡ってきた敵は、腰まで水に浸かっていた。足が遅い。岸に上がる瞬間が、いちばん弱い。ブラントは、そこを突かせた。リクが、ベンの横で、槍を突いていた。
「旗を、南へ四本。浅瀬のほうへ」
俺は叫んだ。
旗が動いた。浅瀬を渡りかけていた敵の列が、丘の南の旗を見て、乱れた。岸の上に、まだ兵がいると思ったのだ。
それでも、敵は押してきた。
浅瀬の岸で、人が倒れるのが見えた。誰が倒れたのか、丘の上からは分からなかった。
*
昼前に、東の空に、狼煙が上がった。
一本の灰色の煙が、まっすぐに立った。
本隊が、丘の線に着いたのだ。
橋を焼け、の合図だった。
俺は、西を見た。
国境の丘から下りてくる街道に、土埃が立っていた。小さな列だった。六十人。西の見張りの隊が、こっちへ走ってくる。西の国の兵の脇を、大きく回りこみながら。
橋まで、まだ半里あった。
「トマ」
トマは、もう走り出していた。
俺も、丘を駆け下りた。
橋の袂に着いたとき、ダグが、松明を持った義勇兵の腕を押さえていた。
「狼煙だ。焼けって合図だ」と義勇兵が叫んでいた。
「まだだ」
荷車の上から、グレンが言った。
グレンは、西を見ていた。土埃を。
「西の見張りの隊が、来る。最後の一人が渡るまで、焼かない」
「隊長殿の命令だぞ」
「知ってる」
グレンは、荷車から下りなかった。
「二年半前、この橋の袂で、焼くなと言った十人長がいた。そいつの声は、届かなかった」
グレンは、松明を持った義勇兵を見た。
「俺の声は、届くか」
義勇兵は、松明を下ろした。
*
見張りの隊は、橋の西の袂で、敵の押し出しの脇腹にぶつかった。
橋の上の敵が、後ろを振り向いた。その隙に、義勇兵が荷車を押し出して、橋の真ん中まで敵を押し返した。グレンが、荷車の上で、何か叫んでいた。何を叫んでいたのかは、聞こえなかった。義勇兵たちが、それに応えて叫び返した。
見張りの隊が、一人、また一人、橋を渡ってきた。
矢が飛んできた。俺は、荷車の陰で、渡ってくる兵の数を数えた。
五十二。五十三。
五十八人目が、肩を射抜かれて、橋の上で倒れた。
グレンが、荷車から飛び降りた。
剣の使えない男が、盾も持たずに、橋の上を走った。倒れた兵の脇に膝をついて、腕を自分の首に回させて、立ち上がった。
矢が、グレンの右の腿に立った。
グレンの膝が落ちた。
あと二十六枚、と、一年前の中庭で、俺は言った。
今は、数えなかった。数える前に、ダグが橋の上へ走っていた。脚を引きずりながら。ダグがグレンの反対の腕をつかんで、二人で、倒れた兵を引きずってきた。
五十九。六十。
最後の一人が、東の袂に転がりこんだ。
「焼け」
グレンが、地面に座りこんだまま言った。
油の樽が転がされて、松明が投げられた。
橋が、燃えた。
冬のあいだに渡したばかりの木の床が、炎に包まれて、石の脚の上で崩れ落ちた。橋の上にいた敵の兵が、西の袂へ逃げていった。
*
日が傾くころ、浅瀬の鬨の声が、止んだ。
西の国の兵は、浅瀬から退いていった。岸の上に、まだ兵がいた。丘の上に、まだ旗があった。橋は燃え落ちて、渡れなかった。
その夜のうちに、西の国の兵は、国境の丘の向こうへ引いていった。
退いただけだ、とダグは言った。春が終わる前に、また来る。
俺は、浅瀬へ行った。
岸に、布をかけられた体が並んでいた。十七あった。
ブラントが、その横に立っていた。鎧の肩が、血で黒くなっていた。自分の血ではない、とブラントは言った。
リクが、一つの布の横に座りこんでいた。
ベンだった。
「最後まで、岸から下がらなかった」とブラントが言った。
俺は、帳面を出した。城の伝記係は、戦の死者の名前を書きとめることになっている。
「名前を」
リクが、顔を上げた。
「ベンじゃない」
リクは言った。
「麦野村の、寺の脇の石に彫ってある。上から七番目の名前だ」
俺は、その名前を知っていた。石の前で、一度見ていた。
帳面に、書いた。
名簿で、二年半前に一度死んだ男の名前を。今日、本当に死んだ男の名前を。
字が、少し震えた。
兄貴なら、下手だと言っただろう。
(第19話 了)




