第18話 英雄は、逃げる金を渡される
冬のあいだ、第二巻は一頁も進まなかった。
正確には、進ませなかった。
麦野村から戻った翌月、領主様は、第二巻を春の戦のあとに出すと決めた。最後の章は、春の戦で締める。英雄が灰川で何をしたかを書いて、それから写字生に回す。名前を変える章は、もう書いてある。日付の入っていない頁のまま、領主様の机の引き出しに入っている。
俺は、ひと月の猶予が、冬の終わりまで延びたのだと思っていた。
春の戦の軍議の席で、それが違うと分かった。
*
西の国の兵は、雪が解けるのと一緒に、灰川の西に集まってきた。斥候の数えたところでは、四千。こっちは、ヴェイル隊長の本隊が千二百と、英雄の義勇兵が四百。
広間の卓に、灰川の地図が広げてあった。
冬のあいだに、焼けた橋の石の脚に、新しく木の床が渡されていた。春に兵を西へ送るためだった。その橋が、今度は敵の道になる。
「本隊は、砦を捨てて、城の手前の丘の線まで下がる」
ヴェイル隊長が言った。穏やかな声だった。
「下がるあいだ、橋の東の袂を守る殿が要る。本隊が渡り終えたら、橋を焼く」
隊長は、地図の上の橋に、指を置いた。
「殿は、英雄殿の義勇兵に」
広間の家臣たちが、うなずいた。英雄に殿を任せる。名誉な役目だ。伝記の英雄なら、喜んで受ける役目だ。
俺は、地図を見ていた。
橋の東の袂。
二年半前、兄貴が守っていた場所だった。
本隊が下がれば、四百の義勇兵は、橋の東の袂に残る。敵は橋を押してくる。それだけではない。下流の浅瀬を知っていれば、浅瀬からも渡ってくる。渡ってきた敵は、橋の袂の殿の背中に回る。
殿は、囲まれる。
「浅瀬は」とブラントが言った。
「浅瀬には、本隊から五十を置く」
「五十では、半刻ももたない」
「半刻もてば、本隊は丘の線に着く」
ヴェイル隊長は、ブラントを見なかった。
領主様が、口を開いた。
「英雄殿は、伝記のとおり、最後まで退かぬだろう」
領主様は、俺を見た。
「版元。第二巻の最後の章は、殿の英雄で締めよ」
広間の誰も、その言葉の意味に気づかなかった。
俺は、気づいた。
殿で死んだ英雄は、もう何も言わない。副官の名前が誰に変わろうと、口を開かない。英雄は伝記の中で死んで、本物の英雄になる。生きて口を開く英雄より、ずっと使いやすい。
領主様は、最初から、第二巻の終わり方を決めていたのだ。
*
その晩、俺は領主様の私室を訪ねた。
ミーレが戸を開けた。今度は、ミーレも中に入って、戸の脇に立った。
「兵が、足りません」と俺は言った。
領主様は、書き物机から顔を上げなかった。
「知っている」
「国じゅうに、名簿から消えた兵がいます。戦のあと村へ帰って、戻らなかった者。持ち場を離れて、捕まらなかった者。罰が怖くて、名前を変えて暮らしている者」
領主様の筆が、止まった。
「浅瀬と橋で戦った者には、過去の不在を問わない。そう布告を出してください。槍を持てる男が、百は増えます。金はかかりません」
領主様は、筆を置いた。
「九人のためか」
麦野村のことは、コルムを通して、とうに耳に入っていたのだ。
「九人と、その百人のためです」
領主様は、俺の顔をしばらく見ていた。それから、ミーレに言った。
「書け」
ミーレが、書き物机の脇の小机に紙を広げた。
「文言は、私が申し上げてよろしいですか」と俺は言った。「布告の写しは、私の店の仕事でした」
領主様は、手で促した。
俺は、ゆっくり言った。ミーレの筆が、それを追った。
『この春、灰川の浅瀬または橋にて、領主の旗の下に戦いし者は、過ぐる戦における持ち場の不在、ならびに名簿の誤りを、一切問わず』
ミーレの筆が、最後の一行で、一瞬だけ止まった。それから、書き終えた。
領主様は、紙を取り上げて読んだ。
「名簿の誤り、か」
領主様の口の端が、わずかに上がった。俺は、この人が笑うのを初めて見た。
「名簿で死んだ者も、戦えば生き返る、というわけだな」
「兵は、一人でも多いほうがいいはずです」
「そうだ」
領主様は、印を押した。
「お前は、本当に布告を書くのがうまい」
*
翌日、俺はグレンの部屋に、袋を一つ置いた。
中には、金貨が四枚と、銀貨が三十枚入っていた。伝記の写しの、俺の取り分だった。一年分の。
「逃げろ」
グレンは、寝台の上で、肩の布を外して、傷の跡を指でなぞっていた。袋を、ちらりと見た。
「南の宿場の触れ書きは、まだ回収されてない。騎士領の話も、第二巻が出なければ、ない。お前が殿に立てば、領主はお前を死なせる。助けの兵は来ない。浅瀬に五十じゃ、半刻で背中に回られる」
「知ってる」
「知ってるなら」
「昨日の晩、牧草地で義勇兵を集めた」
グレンは、袋を俺のほうへ押し戻した。
「最後の一人が渡るまで、俺は橋にいる、と言った。四百人の前でな」
「……なぜ言った」
「言わなきゃ、半分が今夜のうちに村へ帰ってた。殿だと聞いて、顔が青くなってたからな」
グレンは、布を巻き直し始めた。
「それに、あんたの兄貴の真似だ」
「兄貴は、英雄じゃない」
「知ってる。英雄の真似なんか、誰がするか」
グレンは、布の端を歯でくわえた。
「十人長の真似だ。真似は、詐欺師の本業だろ」
俺は、袋を握ったまま、何も言えなかった。
「それに、逃げる金なら、もう剣で使った」
グレンは布を結んで、肩を回した。
「足を洗う前に、汚れた。汚れたついでだ」
*
出陣の朝、牧草地に、見たことのない男たちが並んでいた。
百二十人いた。
布告の写しを、手に握っている者がいた。字の読めない者は、写しを読み上げてもらったのだろう、紙を持たずに、黙って槍を持っていた。名簿から消えた男たち。持ち場を離れて、捕まらなかった男たち。
その列の端に、リクがいた。
ベンがいた。麦野村の九人が、揃っていた。
リクが、俺の前に来た。手に、布告の写しを握っていた。
「名簿の誤り、って書いてあった」
「書いてあった」
「あんたが書いたのか」
「俺が言って、書記が書いた」
リクは、写しを畳んで、懐にしまった。
「浅瀬は、俺たちが知ってる。あの人に、連れて渡ってもらった浅瀬だ」
ブラントが、馬を引いて、牧草地を横切ってきた。
九人の前で、立ち止まった。
ブラントは、九人を一人ずつ見た。リクの頬の傷を。ベンの曲がった背中を。
「浅瀬は、私が守る」
ブラントは言った。
「閣下には、もう申し上げた。目付けの役は、浅瀬でも務まる」
ベンが、ブラントを見上げた。
「あんたは、持ち場を離れた男を許さない騎士だと聞いた」
「そうだ」
「俺たちは、持ち場に戻らなかった男だ」
ブラントは、しばらく黙っていた。
「白河の浅瀬には、三人しかいなかった」
ブラントは、馬の手綱を握り直した。
「今度は、もう少しいる」
(第18話 了)




