第16話 死んだ兵は、名乗らない
麦野村は、名前のとおり、麦の村だった。
刈り入れの済んだ畑が、なだらかな丘に沿って続いていた。家は四十軒ほど。真ん中に井戸と、小さな寺があった。
寺の脇に、石が一つ立っていた。
膝の高さほどの、平たい石だった。表に、名前が十四彫ってあった。上に一行、『西の退き戦にて』とだけあった。
五の隊の、麦野村の十四人だ。名簿で、退き戦の翌朝に戦死と書かれた十四人。
石の前に、枯れた野菊が束ねて置いてあった。新しい花ではなかった。だが、古すぎもしなかった。
「誰か、探してるのかい」
井戸で水を汲んでいた女が、俺に声をかけた。
「五の隊の人に、会いたくて」
女の顔から、表情が消えた。
「五の隊の者は、みんな死んだよ。お城の名簿に、そう書いてある」
「名簿は見ました」
「なら、分かるだろう」
女は桶を持って、家に入っていった。戸が閉まった。
村の誰に訊いても、同じだった。五の隊の者は、みんな死んだ。お城の名簿に、そう書いてある。
誰も、石の名前を見ようとしなかった。
*
日が傾いたころ、俺は寺の脇の薪置き場で、男が薪を割っているのを見た。
二十に届くかどうかの若い男だった。右の頬に、引きつれた傷があった。斧を振る腕は太いのに、左足をかばって立っていた。
寺の坊主が、薪の代金を払っていた。男は字が書けないらしく、坊主の帳面に、受け取りの印を指で書いた。
丸を一つ描いて、その真ん中に、縦に一本線を引く。
俺は、その印を知っていた。
水車小屋の壁に、二十三の名前が刻んであった。字を知らない者は、丸や印を刻んでいた。下から四つ目に、丸に縦の一本線があった。
写本屋は、一度見たものを全部覚えている。字でも、字でないものでも。
男が帳面から顔を上げると、俺は言った。
「水車小屋の壁にも、同じ印があった」
男の手から、斧が落ちた。
*
男は、リクと名乗った。
本当の名前かどうかは、訊かなかった。
日が暮れてから、リクは俺を、村はずれの納屋に連れていった。中に、男が八人いた。年寄りが一人、あとは三十前の男たちだった。誰も、俺に名前を言わなかった。
十一人いたのは、去年の冬までだ、とリクが言った。二人は、傷が膿んで死んだ。
いちばん年かさの男が、ベンと呼ばれていた。白い髭の、背の曲がった男だった。ベンは、俺の顔を、蝋燭の明かりで長いこと見ていた。
「あんた、城の者か」
「写本屋です。城で、本を書かされてます」
「何の本だ」
俺は、少し迷った。
「英雄グレンの伝記です」
納屋の中が、ざわついた。
リクが、俺の前に膝をついた。
「副官オルドって歌を、去年の夏に聞いた。宿場から来た詩人が、この村でも歌った」
リクの声は、震えていた。
「あの人の名前、オルドっていうんだって、そのとき初めて知った」
俺は、息が止まった。
「名前を、知らなかったのか」
「言わなかったんだ、あの人。訊いても、十人長でいい、って笑うだけだった」
あれだけよく笑う男が、自分の首がかかった場で一言も言わなかった。そして、命を救った男たちにも、自分の名前を言わなかった。
名前を言えば、いつか誰かが、その名前を辿ってくる。
「歌の副官が、あの人だって、なんで分かった」
「歌の中で、副官は戦列を離れて、西へ行って、それを逃亡と取られて吊られた」リクは言った。「そんな男は、一人しか知らない」
俺の書いた嘘の一行が、名前のなかった恩人に、名前をつけていた。
*
ベンが、ぽつりぽつりと話した。
五の隊は、退き戦の日の昼に西の丘で囲まれて、水車小屋まで下がった。半分が、そこまでに死んだか、動けなくなった。暗くなったら橋へ走るつもりだった。
夜半を過ぎて、橋が燃えるのが見えた。もう誰も来ないと思った。動ける者の何人かは、川に入って流された。浅瀬の場所を知らなかった。
一刻もしないうちに、十人長が来た。
一人で、腰まで濡れて、松明も持たずに来た。動ける者を数えて、炭で何か書きつけた。それから、歩けない者から順に担いで、浅瀬を渡った。三度。
三度目の帰り、東の岸に松明が見えた。味方の見回りだった。
「あの人は、俺たちを葦の中に伏せさせた」
リクが言った。
「それから、一人で立って、松明のほうへ歩いていった。手を上げてな。見回りの連中は、みんなあの人を見た。葦の中は、誰も見なかった」
リクの拳が、膝の上で白くなっていた。
「行く前に、言われたんだ。南へ行け。軍には戻るな。名簿じゃ、お前らはもう死んでる。名前を変えて生きろ、って」
だから、この村の者は、石の名前を見ない。
石に名前のある男たちが、村の中で、別の名前で薪を割っている。
「……兄です」
俺は言った。
「オルドは、俺の兄です」
納屋が、静まり返った。
それから俺は、頼んだ。兄が逃げていないと、人の前で言ってほしい。城で、兄の名前が別の男の名前に変えられようとしている。兄を見た人間の口でしか、それは止められない。
ベンが、首を横に振った。
「言えば、俺たちは逃亡兵だ。吊られる。この村で、俺たちを匿った家も罰を受ける」
「分かってます」
「分かってて、頼むのか」
リクが、何か言おうとした。ベンが、リクの肩を押さえた。
「十人長が、何のために松明のほうへ歩いていったと思う」
ベンは、俺を見た。
「俺たちが、黙って生きるためだ。あんたの兄貴は、自分の名前と引き換えに、俺たちの名前を消した。それを、あんたが掘り返すのか」
グレンと、同じことを言われた。
詐欺師と、名前を捨てた兵と。二人とも、同じことを言った。
俺は、納屋の土間に膝をついたまま、しばらく動けなかった。
頼めば、リクは語るかもしれない。この若い男は、語りたがっている。一年、名前のない恩人のことを、誰にも言えずにいたのだ。
だが、語らせれば、リクは吊られる。兄貴が首を差し出して守った首が。
「……頼みません」
俺は言った。
「今の話は、忘れてください。俺も、誰にも言いません」
ベンは、長いこと俺を見ていた。それから、ゆっくりうなずいた。
リクが、顔を伏せた。
*
納屋を出ると、夜だった。
村の外れの道に、灯りが並んでいた。
十、二十。松明だった。馬の鼻息と、鎧の擦れる音がした。
松明の列の先頭に、身なりのいい男が馬に乗っていた。上等の毛織りの上着。手入れの行き届いた手。
コルムだった。
その横に、ヴェイル隊の兵が二十人ほど。
コルムは、俺を見つけて、丁寧に頭を下げた。
「版元殿。夜分に失礼いたします」
穏やかな声だった。城で、写本の値をつけたときと同じ声だった。
「この村に、五の隊の逃亡兵が匿われていると聞きまして。隊長殿のお指図で、捕らえに参りました」
後ろの丘で止まった、荷運びの馬のことを思い出した。
止まれば、追いつかれる。走れば、行き先を教えることになる。
俺は走った。
麦野村まで、まっすぐ。
(第16話 了)




