第15話 写本屋は、嘘を書く
翌朝から、俺は第二巻の続きを書いた。
副官の名を変える章から書いた。
『第一巻にて副官の名をオルドと記したるは、写しの重なるうちに生じたる誤りなり。英雄グレンの右腕たりしは、ヴェイル家の三男ロラン殿にて――』
文章は、すらすら出てきた。
一年前、兄貴の名前を書いたときは、ひと月かかった。他人の名前で兄貴を消すのは、半日で済んだ。写本屋の手は、何でも同じ速さで写せる。
夕方、ミーレがいつものように頁を取りに来た。
一枚ずつ読んで、日付を書きこんでいった。誤りの章の頁で、ミーレの手が止まった。
長いこと、その頁を見ていた。
「これを、閣下にお見せするのですか」
「そう言いつかってるんだろう」
ミーレは、頁を卓に置いた。
「去年の秋、書庫に記録がないと書いたのは、私です。閣下に命じられて、鴉の口の戦を探しました。三日かけて、どこにもないことを確かめました」
「知ってる。昨夜、その紙を見た」
「では、私が英雄殿のことを最初から知っていたことも、ご存じですね」
「知ってた」
「怒らないのですか」
「記録がないと書いただけだろう。それは嘘じゃない」
ミーレは、少しだけ目を見開いた。
それから、誤りの章の頁を、もう一度手に取った。
「私は、言いつかったとおり、この頁を閣下にお持ちします」
ミーレは言った。
「ただ、この頁にだけは、日付を入れられません」
「なぜだ」
「写しの誤りではないことを、私は知っているからです。誤りだと書かれた紙に日付を入れれば、私がそれを確かめたことになります。確かめていないことを、確かめたとは書けません」
ミーレは、その頁だけ日付を空けたまま、革の挟みに綴じた。
「書記にできるのは、それだけです」
戸口で、ミーレは振り返った。
「書庫の箱の札に、覚え帳一冊不在、と書いたのも、私です。あれは、まだ消しておりません」
*
グレンの熱は、三日目に下がった。
四日目の昼、俺が部屋に行くと、グレンは寝台に座って、肩の布を自分で巻き直していた。
「領主に呼ばれた」
俺が何か言う前に、グレンが言った。
「昨日の晩だ。あんたが呼ばれた三日後だな」
俺は、戸を閉めた。
「何を言われた」
「戦が終わったら、西の砦の騎士領をやる。年に金貨八枚の上がりだ。南の宿場の触れ書きは、城の名で回収させる。俺の昔の顔は、どこにも残らない」
グレンは布の端を歯でくわえて、結んだ。
「条件は、あんたが第二巻をあのとおりに書くこと。それだけだ」
金貨八枚。足を洗う金どころではなかった。洗ったあとに、一生暮らせる金だ。
「受けたのか」
「受けるさ」
グレンは、当たり前の顔で言った。
「名前ぐらい、変えてやれ。それで英雄も、あんたの首も、俺の首も助かる。義勇兵三百人も、春に英雄の下で戦える」
俺が、あの晩、寝台の脇で考えたとおりの言葉だった。
「兄貴を消すのか」
「あんたの兄貴は、もう死んでる」
グレンは、俺を見た。
「生きてる首が、二つかかってる。三百人の義勇兵の、春の命もだ。死んだ男の名前一つと、比べる話か」
「お前は、金と首を数えてるだけだ」
「そうだ。あんたは、死んだ男の名前しか数えてない」
坂の上で言われたのと、同じ言葉だった。
「前にも言ったな」
「前にも言った。あんたは変わってない」
俺は、写字台の椅子を引いて、座った。座らないと、殴りそうだった。
グレンは、布を巻き終えた肩を、軽く回した。それから、俺の顔をじっと見た。
「……書くふりを、してるな」
俺は答えなかった。
「顔に出てる。あんたは、名前を変える章を書いた。書いて、ミーレに渡した。だが、あんたの顔は、あきらめた男の顔じゃない」
グレンは、目を細めた。
「時間を稼いでる。ひと月のうちに、何をする気だ」
隠しても、無駄だった。この男は、最初に会った夜から、俺の顔を読んでいる。
「十一人に、語ってもらう」
グレンの顔が、固くなった。
「兄貴が西で何をしたか。浅瀬を三度渡って、自分たちを連れ戻したと。兄貴を見た人間の口で言ってもらう。そうすれば、どんな第二巻も、名前を変えられない」
「約束した」
「お前がな」
「俺の版元の筆も、と言った」
「俺の足は、約束に入ってない」
グレンは、寝台から立ち上がった。
「屁理屈だ」
「詐欺師に言われたくない」
「詐欺師だから言うんだ」
グレンの声が、初めて大きくなった。肩の布に、また血がにじんだ。
「十一人が人前で語れば、十一人は逃亡兵だ。名簿で死んでる兵が生きてれば、そういうことになる。あんたの兄貴が黙って首を差し出して守ったものを、あんたは、自分の首を守るために差し出させる気か」
「首を守るためじゃない」
「同じことだ」
「違う」
俺も、立ち上がっていた。
「兄貴の名前を守るためだ」
「それが同じだって言ってるんだ」
部屋が、静かになった。
グレンは、ゆっくり寝台に腰を戻した。
「行くなら、止めない」
疲れた声だった。
「だが、あの婆さんとの約束は、俺の約束だ。あんたが十一人を引っぱり出したら、俺が約束を破ったことになる。舞台の上の約束を破った役者は、二度と舞台に立てない」
「お前は、もう役者じゃない。騎士領をもらうんだろう」
グレンは、何も言わなかった。
俺は部屋を出た。
*
麦野村の場所は、知っていた。
書庫で見た名簿には、五の隊の兵の名前の横に、生まれた村の名前が書いてあった。徴募の名簿は、そう書く決まりになっている。二十三人のうち、十四人が麦野村だった。
灰川の東を、南へ、馬で一日半。
翌朝、まだ暗いうちに、俺は厩で栗毛に鞍をつけた。西へ行ったときに乗った馬だった。首を振らずに、俺の手綱を待っていた。少しは覚えたらしい。
城の門を出るとき、門番が、どこへ行くのかと訊いた。
「町の店へ。紙が足りなくなった」
嘘は、すらすら出た。
南の街道に出て、一刻ほど走ったところで、俺は振り返った。
ずっと後ろの丘の上に、馬が一頭見えた。こっちが止まると、向こうも止まった。
身なりのいい男の馬ではなかった。もっと粗末な、荷運びの馬だった。
それでも、俺は、払いのいい男のことを思い出した。
字の書いてあるものはないか、と訊いて回った男。兄貴の覚え帳を、書庫の箱から消した男。
俺は前を向いて、馬の腹を蹴った。
止まれば、追いつかれる。
だが走れば、行き先を教えることになる。
それに気づいたのは、麦野村の屋根が見えてからだった。
(第15話 了)




