第14話 領主は、最初から知っていた
城に戻ったのは、五日後だった。
グレンの肩の矢は、砦の医者が抜いた。鏃が骨に当たって止まっていたので、腕は動く、と医者は言った。ただ、熱が出た。帰りの道のあいだ、グレンは荷車の上で毛布をかぶって、ほとんど喋らなかった。
城下に入ると、町の様子が変わっていた。
広場の吟遊詩人が、新しい段を歌っていた。英雄グレンが、雪解けの川を渡って、燃える村から年寄りと子どもを連れ戻した話だった。肩に矢を受けて、それでも子どもを離さなかった話だった。
誰が作った歌なのか、知らなかった。俺は書いていない。
葦辺の者たちは、城下の寺の宿坊に入れられていた。その中の誰かが、市場で話したのだ。話は、三日で歌になっていた。
「本物の話は、速いな」
荷車の上から、グレンが言った。熱で声がかすれていた。
「盛られてるぞ。四度が七度になってる」
「詩人の数だ」
グレンは、毛布の中で笑った。
*
ヴェイル隊長の訴えは、帰城の翌日に広間で開かれた。
英雄グレンは、隊長の命に背き、持ち場の丘を離れ、兵三十を率いて川を渡った。
ヴェイル隊長は、それだけを、穏やかな声で申し述べた。村のことも、矢のことも言わなかった。言う必要がないのだ。持ち場を離れた、という一行に、何を足しても罪は変わらない。
グレンは、肩を布で吊ったまま、広間の真ん中に立っていた。何も弁じなかった。
領主様は、肘掛けに指を置いていた。
「ブラント。お前は目付けとして砦にいた。申せ」
ブラントが、一歩出た。
広間が静かになった。誰もが知っていた。持ち場を離れた男を、この騎士は許したことがない。
「英雄殿は、持ち場を離れました」
ブラントは言った。
「私は、持ち場を離れた者を許したことがございません。白河の浅瀬で、二十人が持ち場を離れるのを見ました。あの二十人を、今も許しておりません」
ブラントは、そこで少し黙った。
「しかし、敵のほうへ持ち場を離れた者を、裁いたことはございません」
広間の誰かが、息を呑んだ。
「白河の二十人は、東へ逃げました。英雄殿は、西へ渡りました。私には、同じ罪には見えません。裁き方を、存じません」
ブラントは、元の場所へ下がった。
ヴェイル隊長は、表情を変えなかった。
領主様は、しばらく誰の顔も見なかった。それから言った。
「英雄の旗は、丘に残っていた。斥候は、英雄の旗と、英雄の声を見聞きして西へ帰った。持ち場の務めは、果たされた」
それで、終わりだった。
不問。
広間を出る家臣たちの何人かが、グレンの横を通るとき、軽く頭を下げた。前の叙任の日には、しなかったことだった。
俺は、広間の端で、ブラントの言葉を頭の中で繰り返していた。
敵のほうへ持ち場を離れた者を、裁いたことはない。
この城は、一年半前に一人、裁いている。
広間にいた何人が、それに気づいただろう。
*
その夜、俺は領主様の私室に呼ばれた。
ミーレが、戸の前まで案内した。戸を開けて、俺を入れて、自分は入らずに戸を閉めた。
部屋は、思っていたより狭かった。書き物机と、椅子が二つと、壁一面の棚。机の上に、俺の店の装丁の本が一冊載っていた。
「座れ」
領主様は、俺が座るのを待ってから、机の引き出しから紙を一枚出した。
「去年の秋、お前の伝記が城下に回ってきたとき、書庫に調べさせた」
紙を、机の上で俺のほうへ滑らせた。
ミーレの字だった。
『鴉の口の戦い、と呼ばれる戦の記録、当家の書庫になし。近隣諸侯の戦記、写本目録にもなし。グレンという名の騎士、隊長、傭兵隊長、いずれの名簿にもなし』
日付は、布告の出る半年前だった。
俺は、紙から目を上げられなかった。
「最初から、知っていた」
領主様は言った。責める声ではなかった。帳面の数字を読み上げるような声だった。
「知っていて、布告を出した。褒美を出すと言えば、グレンを名乗る男が何人も来る。その中から、使えるものを選ぶつもりだった。お前が連れてきた男が、いちばん使えた。作者がついてきたからな」
「……なぜ」
「金がない」
領主様は、あっさり言った。
「西の国と戦うのに、傭兵を雇う金がない。民に槍を取らせるしかない。民は、領主のためには槍を取らん。英雄のためになら取る。お前の伝記が、それを教えてくれた」
領主様は、机の上の本に手を置いた。
「昨日の広間のあと、義勇兵が百人増えた。あの男は、よく働く」
俺は何も言えなかった。
「だが、困ったことが一つある」
領主様は、本の表紙を指で叩いた。
「国じゅうが、副官オルドを歌っている。英雄の密命で戦列を離れ、それを逃亡と取られて処刑された男。つまり、私の城が、無実の男を殺したと歌っている」
指が止まった。
「そして昨日、私の広間で、英雄は持ち場を離れて、不問になった。敵のほうへ離れたからだ。それなら、一年半前に西へ離れた十人長は、なぜ吊られた。今夜あたり、どこかの酒場で、誰かがそう歌い始める」
領主様は、俺を見た。
「第二巻で、副官の名を変えろ」
部屋の蝋燭が、小さく揺れた。
「第一巻の副官の名は、写しの誤りだった。本当の副官は、ヴェイル家の三男ロラン。退き戦の夜、殿で死んだ。ヴェイル家はそれで面目が立つ。オルドという十人長は、副官とは別の男で、持ち場を離れて吊られた。判決は正しかった。そう書け」
「それは」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「兄を、二度殺すことです」
「一度目は、私の城が殺した。二度目は、誰も覚えていない」
領主様の声は、変わらなかった。
「歌は変わる。半年もすれば、誰も十人長の名前など覚えていない。代わりに、お前の店は城の御用達になる。お前には、城の書記の席をやる。父親の咳には、城の医者をつける」
「断れば」
「伝記は偽書だと、私が言う。鴉の口などどこにもないと、書庫の記録を添えてな。英雄は偽物で、お前は詐欺師だ。首が二つで済む」
俺は、机の上の紙を見ていた。ミーレの字を。
「英雄は、また作れる。お前が教えてくれたことだ」
ひと月やる、と領主様は言った。第二巻を写字生に回すまで、ひと月。
*
私室を出ると、廊下は暗かった。
俺は、壁に手をついて歩いた。
最初から知っていた。知っていて、俺の嘘を買った。俺が一年かけて組み立てた嘘は、この男の帳面の一行にすぎなかった。
廊下の角で、足が止まった。
英雄は、また作れる。
本当にそうか。
今日の広間で、家臣たちがグレンに頭を下げた。義勇兵が百人増えた。広場で、俺の書いていない歌が歌われている。雪解けの川を渡った英雄の歌だ。
あの男を偽物だと言えば、領主様は、偽物を担いで三百の民に槍を取らせた領主になる。偽物に村を救われて、偽物を不問にした領主になる。
捨てられない。
あの人も、もうグレンを捨てられない。
だから、俺に名前を変えさせようとしている。英雄を残したまま、兄貴だけを消すために。
俺の首に手をかけているのと同じだけ、あの人の首にも、俺の書いた英雄の手がかかっている。
グレンの部屋の戸を開けると、グレンは熱にうなされて眠っていた。肩の布に、血がにじんでいた。
俺は寝台の脇に座って、何も言わなかった。
言えば、この男は笑って、言うだろう。名前ぐらい、変えてやれ。それで英雄も、あんたの首も助かる。
この男は、そういう損得を、いつも正しく数える。
ひと月。
窓の外で、まだ誰かが、雪解けの川の歌を歌っていた。
(第14話 了)




