第13話 英雄は、持ち場を離れる
グレンは立ち上がった。
旗の下の火に、薪を一本足した。それから、天幕の列のほうへ向いて、声を張った。
「起きろ」
大きな声ではなかった。それでも、天幕の中で人が動く気配がした。
義勇兵たちが、毛布をかぶったまま顔を出した。川の向こうの火を見て、誰かが小さく声を上げた。
「葦辺が焼かれてる」とグレンは言った。「西の国の斥候だ。浅瀬の場所を、村の者に訊いてる」
グレンは、天幕の間を見回した。
「隊長殿の命令は、この丘から動くな、だ。だから命令はしない。俺は行く。ついてくるやつは、ついてこい。残るやつは、残って火を焚け。全部の天幕の前で、火を倍にしろ。太鼓があるなら、叩け」
誰も動かなかった。
それから、一人が立った。鍛冶屋の息子だった。粉屋の三男が立った。四人、十人。
三十人ほどが、槍を持って旗の下に集まった。
「トマ」
グレンは、布を巻いた手の若者を呼んだ。
「砦へ走れ。英雄は葦辺へ行った、旗は丘に残してある、と隊長殿に伝えろ。嘘は一つも混ぜるな」
トマは口を開けて、何か言いかけた。
「走れ。足だけは速いんだろ」
トマは走っていった。
ダグが、グレンの横に立った。
「逃げたら、ばらすと言ったな」
「言った」
「これは、逃げるほうか」
グレンは答えなかった。ダグは、それ以上訊かなかった。槍を一本取って、杖の代わりに突いた。
*
「浅瀬は、どこだ」とグレンが俺に訊いた。
四十年前の紙を、俺は頭の中でめくった。
浅瀬は、川幅がいちばん広いところにできる。流れが広がって、遅くなって、底に石が溜まる。『灰川合戦記』の浅瀬は、目印の柱の前だった。三十年前の大水が柱を流して、川の曲がり方を変えた。なら、浅瀬も動いた。
「下流の、柳の曲がりの先だ」
昼に丘から川を見下ろしたとき、柳の並んだ曲がりの先で、川がいちばん広がっていた。水面に、白い波が細かく立っていた。底が浅いところの波だ。
「オルドが下りていったのも、そっちだ」とダグが言った。
俺は外套を脱いだ。
「お前も来るのか」とグレンが言った。
「浅瀬を知ってるのは、俺の頭の中の紙だけだ」
グレンは、少しだけ笑った。坂のことがあってから、初めて見た笑いだった。
*
雪解けの水は、膝に入った瞬間に、足の感覚を持っていった。
腰まで来た。流れに押されて、体が下流へ持っていかれそうになった。前を行くダグの槍の柄を、後ろからつかんだ。俺の後ろの若いのが、俺の帯をつかんだ。三十人が、一本の縄みたいにつながって、川を渡った。
西の岸に上がると、葦の原の向こうで、屋根が燃えていた。
人の叫び声と、馬のいななきが聞こえた。
「戦うな」とグレンは言った。息が白かった。「俺たちは、剣じゃ勝てない。斥候は二十人もいない。あいつらの仕事は、浅瀬の場所を持って帰ることだ。死ぬことじゃない」
グレンは、義勇兵たちを葦の原に広げた。十歩おきに一人。
「合図をしたら、全員で叫べ。英雄グレンが来た、と。槍で葦を叩け。できるだけ大勢に聞こえるように」
それから、川の東を指さした。
鴉が丘の上で、火が倍になっていた。太鼓が鳴り始めていた。
「向こうの丘の火と、こっちの声。斥候は、伝記を読んだか聞いたかしてる。英雄が来たと聞けば、国へ持って帰る話が増えたと思う」
グレンは、深く息を吸った。
「今だ」
三十人の声が、葦の原から一度に上がった。
英雄グレンが来た。
自分の名前を叫ぶ声の中で、グレンは黙っていた。名乗っていなかった。名乗っているのは、ほかの三十人だった。
村の中で、馬の蹄の音が乱れた。誰かが西の言葉で何か叫んだ。蹄の音が、村から丘のほうへ、西へ遠ざかっていった。
*
村は、半分が燃えていた。
焼け残った家の前に、村の者が集まっていた。年寄りが一人、戸口の前に倒れていた。もう動かなかった。浅瀬の場所を、言わなかったのだ。
マルタは、舟のそばにいた。
「また、あんたかい」
「舟を出せるか」とグレンは言った。
「出せるよ。漕ぎ手がいればね」
「年寄りと子どもは舟だ。歩ける者は浅瀬を渡る。俺の兵が、縄みたいにつないで渡す」
マルタはグレンを見て、それから俺を見た。俺の服は、腰から下が濡れて、冷えきっていた。
「浅瀬の場所を、知ってたのかい」
「四十年前の紙で」と俺は言った。
マルタは鼻で笑った。
「柳の曲がりの先だよ。あの十人長にも、あたしが教えた」
それで、分かった。
兄貴に浅瀬を教えたのは、この婆さんだった。
*
渡しは、明け方までかかった。
舟は、マルタが漕いだ。グレンが漕ぐと言ったが、マルタは櫂を渡さなかった。浅瀬では、義勇兵たちが腰まで水に浸かって、手から手へ、村の者を東の岸へ送った。俺は流れのいちばん速いところに立って、子どもを一人ずつ受け取って、次の手に渡した。
ダグは、東の岸で、上がってきた者に毛布をかけていた。
グレンは、最後まで西の岸にいた。
一度、西の丘から蹄の音が戻ってきた。英雄の兵が三十人しかいないと、斥候が気づいたのだ。矢が三本、葦の中に落ちた。
「最後だ、渡れ」
グレンが叫んだ。
そのとき、焼けた家の陰から、子どもが一人出てきた。五つか六つくらいの男の子で、泣きもせずに、川のほうへ歩いてきた。誰も、その子がいないことに気づいていなかった。
グレンが、葦の原を走った。
剣の使えない男は、走るのも速くはなかった。子どもを抱え上げたとき、矢が一本、グレンの左の肩に立った。グレンはよろけて、膝をついて、それから立った。
立って、子どもを抱えたまま、浅瀬に入った。
俺は流れの中から手を伸ばした。
グレンの腕をつかんだ。グレンの指が、俺の手首に食いこんだ。肩の矢が、水の中で揺れていた。
東の岸に、グレンと子どもを押し上げた。
マルタが、舟から下りてきた。濡れたグレンの顔を、長いこと見ていた。
「あの十人長と、同じことをしたね」
グレンは、岸に座りこんで、肩を押さえていた。
「十人長は、三度渡った。あんたは何度だい」
「数えてない」
「四度だ」と俺は言った。
数えていた。
グレンは俺を見て、それから、少し笑った。
*
日が昇るころ、砦のほうから、騎馬が十騎ほど下りてきた。
先頭に、ヴェイル隊長がいた。その少し後ろに、ブラントがいた。トマが、ブラントの鞍の後ろに乗せられていた。
ヴェイル隊長は、岸に並んだ葦辺の者たちと、濡れた義勇兵と、肩に矢を立てたままのグレンを、順に見た。
それから、静かに言った。
「英雄殿は、持ち場を離れたな」
誰も答えなかった。
ブラントは、何も言わなかった。馬の上から、浅瀬を見ていた。
一年半前、兄貴が三度渡った浅瀬を。
(第13話 了)




