第9話 壁は倒れ、そして分厚い百合の城壁に囲い込まれる
波乱の休日が明けた、月曜日の朝。
シェアハウスのダイニングには、いつもと少し違う空気が漂っていた。
トーストの焼ける香ばしい匂いと、コーヒーの湯気。そこまではいつも通りだ。だが、キッチンでエプロン姿の篠宮さんが卵焼きを作っている最中、リビングに姿を現した氷室社長が放った一言が、静寂を切り裂いた。
「おはよう、悠真」
カラン、と。
篠宮さんの手からお玉が滑り落ち、ステンレスのシンクに甲高い音を立てた。
「……は? ゆ、悠真……!?」
篠宮さんが目を大きく見開き、信じられないものを見るように社長と俺を交互に指差す。普段のクールで知的な秘書の面影はどこにもなく、その瞳には明らかな動揺と――強烈な嫉妬の炎が揺らめいていた。
(……っ! 心臓が止まるかと思った!!)
俺は手に持っていたマグカップを落としそうになるのを必死で堪えた。
まさか、家の中で突然下の名前で呼ばれるとは。
(なるほど! これは前会長の監視に向けた『妻』としてのロールプレイ精度を日常から上げるための訓練か! しかもわざわざ篠宮さんの前で見せつけることで、彼女のヤキモチ(百合的嫉妬)を煽り、2人の間のスパイスにするという高度なプレイング……!)
社長の底知れぬ策士っぷりに戦慄しつつ、俺は「壁」としての役割を完璧にこなすべく、表情筋を厳しく統制した。
「おはようございます、凛花さん。今朝も素晴らしいご指示、痛み入ります」
一切の照れもなく、真顔で「凛花さん」と呼び返す。
すると社長は「えっ……あっ」と小さく声を漏らし、コーヒーカップを持ったまま顔を真っ赤にして固まってしまった。
「り、凛花……? 相馬くんと、いつの間にそんな……」
篠宮さんが、ギリィッ……とハンカチではなくエプロンの裾を握りしめながら、地を這うような低い声で問う。
極上の百合修羅場空間の完成である。俺は「最高のダシが取れたぞ」と心の中でガッツポーズをしながら、静かに朝食の準備を手伝い始めた。
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しかし、その「距離感のバグ」は、シェアハウスの中だけには留まらなかった。
出社後。俺は総務部のデスクで、いつも通り備品の発注書をまとめていた。
「相馬」
ふわりと、高級なフローラルの香りが鼻腔をくすぐった。
見上げると、そこには完璧なタイトスーツに身を包んだ氷室社長が立っていた。わざわざ防音ガラスの社長室から出て、総務部の俺のデスクまで直接足を運んできたのだ。
「し、社長!? 何かご用でしょうか」
「ええ。少し確認したいことがあって……ねえ、ちょっとネクタイ、曲がってるわよ」
そう言うなり、社長は俺のパーソナルスペースにためらいなく踏み込み、至近距離で俺のネクタイに指を掛けた。
距離にして、およそ10センチ。社長の吐息が首筋にかかるほどの近さだ。
「……っ!」
周囲の一般社員たちが「えっ!? なんで社長が相馬に!?」「距離近くない!?」とざわつき始める。
そこへ、まるで獲物を狙う鷹のような鋭い足音と共に、篠宮さんが現れた。
「社長。相馬くんへの社宅の書類なら、私が渡しておきます」
篠宮さんはそう言うと、俺と社長の間に割り込むように立ち、俺の腕にそっと自分の腕を絡めてきた。普段の冷徹な声からは想像もつかない、とろけるような甘い声で耳元に囁く。
「ねえ、相馬くん? 今夜の夕食、何が良いかしら……ふふっ」
周囲のざわめきが、どよめきへと変わる。
「おい、篠宮秘書まで!?」「どうなってんだ相馬の奴……!」
一般社員には、俺たちの偽装結婚の事実は絶対に秘密だ。あくまで俺は「社宅の防犯・管理担当」という建前であるため、ここで狼狽えてボロを出すわけにはいかない。
しかし、両サイドから高嶺の花である2人に密着され、極上の香りに包まれ続けるこの状況は、俺の精神力を確実に限界へと追いやっていた。
(い、息ができない……! だが、これも親戚の監視の目を誤魔化すための、高度な社内カモフラージュ演習(偽装の日常化)! お2人の関係性を高めるためのサンドバッグ(壁)として、俺は絶対に微動だにしないぞ……!)
俺は必死に白目を剥きそうになるのを堪え、ポーカーフェイスのまま「業務連絡、承りました」とだけ返した。
だが、俺の視界の端で、バチバチと不可視の火花を散らして睨み合う2人の視線は、どう見ても『カモフラージュの演技』の域を超えていた。
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決定的な追い打ちは、昼休みに訪れた。
第三会議室でひっそりとコンビニのパンを齧ろうとしていた俺の前に、二つの影が落ちたのだ。
「悠真。今日は私が、特別にデパ地下で最高の特製弁当を買ってきてあげたわ」
氷室社長が、高級感あふれる木箱の弁当をドンと長テーブルに置く。
すかさず、篠宮さんがその隣に、丁寧に風呂敷で包まれた弁当箱を並べた。
「社長。相馬くんは最近お疲れですから、栄養バランスの取れた和食のほうが胃に優しいですよ。……相馬くん。朝早く起きて、あなたの口に合うように作ったんです。食べてくれますよね?」
「あ……いや、あの……」
「せっかく買ってきたのに、私のお弁当、嫌なの?」
上目遣いで迫る社長。
有無を言わせぬ笑みで風呂敷を解く篠宮さん。
俺の百合センサーが、警告音を飛び越えて緊急サイレンを鳴り響かせた。
この状況、どう見ても「どちらの料理を先に食べるのか」という踏み絵である。右を選べば左の機嫌を損ね、左を選べば右のプライドを傷つける。百合の間に挟まる不純物として、これほど恐ろしい選択があるだろうか。
(ええい、ままよ……ッ! これも前会長の監視網に向けた、臨機応変な偽装トラブル対応訓練……!)
「ど、どちらも至高のメニューです! 交互に頂きます……ッ!」
俺は両方の弁当を広げ、高級なエビチリと手作り卵焼きを同時に口に放り込むという暴挙に出た。
結果として物理的な胃の容量と、頭上でバチバチと火花を散らす2人の視線による精神的プレッシャーで、俺の胃は地獄の業火に焼かれることとなった。
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その日の夜。
限界ギリギリの精神状態でシェアハウスの玄関の扉を開け、リビングに足を踏み入れた瞬間のことだった。
――ビキィッ!
俺の脳内の【百合センサー】が、かつてない不協和音を検知して悲鳴を上げた。
いつもなら純度100%の極上百合波動で満たされているはずの空間。しかし今、無言で距離を取る2人の間には、バチバチと火花を散らすような鋭くトゲトゲしい感情のノイズが満ちていた。
それは俺のセンサーに、至高の百合空間に致命的なヒビが入ったことを明確に伝達してくる。
(な、なんだこのノイズは……!? まさか、俺という不純物が間に挟まりすぎたせいで、お2人の尊い関係が壊れてしまったというのか……っ!)
社長と篠宮さんとの連続デートで蓄積した疲労と、今朝の「悠真」呼びのダメージ。
そこに、百合センサーが受信した『百合空間崩壊のヒビ』が致命的なトドメを刺した。俺の精神の根幹である『壁としての存在意義』がガラガラと崩れ落ちていく。
「ただいま、戻り……まし……」
視界がぐにゃりと歪む。床が急に迫ってきた。
「相馬くん!?」
「悠真!?」
リビングから駆けつけてきた2人の悲鳴のような声が聞こえる。
熱い。全身が鉛のように重い。
「申し訳ありません……壁として、お2人の邪魔を……」
最後にそう呟き、俺は深い闇の中へと意識を手放した。
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氷室凛花と篠宮澪は、ベッドで荒い息を吐きながら眠る相馬を見下ろし、深く反省していた。
彼の額には冷えピタが貼られ、篠宮がこまめに濡れタオルで汗を拭っている。
「……私たちのせいね。彼に、無理をさせすぎた」
氷室が、ギュッと自分のスカートを握りしめながら呟く。
「はい……。私たちが無自覚に張り合って、彼を振り回してしまったせいです」
篠宮もまた、深くうなだれていた。
2人は、自分たちが相馬を巡って嫉妬し、水面下でマウントを取り合うような真似をしていたことを自覚した。それは、彼女たちが築き上げてきた完璧な関係性(百合)を汚すような、醜い感情だった。
「澪。一番大切なのは、私たち2人の関係よ。私たちは、彼を取り合って壊れたいわけじゃないわ」
「……ええ。私も凛花が一番大切です」
氷室の言葉に、篠宮がしっかりと頷く。
2人の間にあった見えないわだかまりが溶け、元の純粋な絆が戻っていく。しかし、それだけでは終わらなかった。
「でもね、澪。……相馬がいなくなるのは、絶対に嫌」
あえて『悠真』ではなく、いつものように苗字で呼んだのは、氷室なりの謝罪であり、2人の関係(百合)を第一に尊重するという誓いだった。
しかし、篠宮の口から出た言葉は、氷室の予想を少しだけ裏切るものだった。
「私もです。……『悠真』くんは、私たちの関係を誰よりも理解し、守ってくれる、大切な人ですから」
今朝、あんなにも嫉妬した名前呼び。それを篠宮自身が、どこか独占欲を滲ませるように口にしたのだ。
氷室は一瞬目を丸くし――やがて、心の底から嬉しそうにフフッと笑った。
相馬に対するこの感情が、恋愛としての『好き』なのかはまだ分からない。
しかし、2人の心の中には一つの確固たる答えが出ていた。
「いつも『悠真』は、身を挺して私たちを守る『壁』になってくれていたわ」
氷室が、そっと相馬の熱い手に自分の手を重ねる。
「ええ。だから今度は……私たちが『悠真』くんを囲う『壁』になりましょう。誰にも、彼を奪われないように」
篠宮もまた、相馬の反対側の手を両手で包み込んだ。
2人の瞳に宿るのは、強烈で無自覚な『共有の独占欲』。相馬が「2人を守る防壁」なら、2人は「彼を逃がさない城壁(囲い)」になる。
互いに見つめ合い、微笑み合う2人。極上の百合空間の中に、相馬という存在が完全に組み込まれた瞬間だった。
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翌朝。
小鳥のさえずりで目を覚ました俺は、体が羽のように軽くなっていることに気づいた。
あの致死レベルの疲労が、嘘のように消え去っている。どうやら俺が眠っている間に、この部屋で凄まじい純度の【極上百合波動】が発生し、それを浴びて細胞レベルで超回復を果たしたらしい。
「……ん?」
視線を横に向けると、俺のベッドの脇で、氷室社長と篠宮さんが折り重なるようにして眠っていた。
2人はしっかりと手を取り合い、その寝顔は互いを深く愛おしむような、穏やかで美しいものだった。
(おお……っ!!)
俺の目から、滝のような涙が溢れ出した。
(俺が倒れたことで、お2人の間にあった謎の亀裂が修復され、至高の百合が完全復活している……! 俺の犠牲は無駄ではなかったんだ……!!)
2人の尊すぎる姿を前に、俺は壁としての使命を全うできた喜びに打ち震えた。
だが俺はまだ知らない。
2人が手を取り合い、そのもう片方の手で、俺のシャツの裾を絶対に逃がさないように固く握りしめていることに。
俺自身がすでに、2人の分厚い百合の城壁の中に、完全に囲い込まれてしまったという事実に――。
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※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!




