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第8話 思いを反射する壁と、ヤンデレのサンドバッグ

休日の朝。

 シェアハウスのリビングでコーヒーを淹れていた俺は、廊下から近づいてくる足音に耳を疑った。


 いつもなら、硬質なヒールの音が響くはずだ。しかし今日聞こえてきたのは、スニーカーのゴム底がフローリングを擦る、軽快で柔らかな音だった。


「……おはよう、相馬」


 リビングに姿を現した氷室社長を見て、俺は思わず息を呑んだ。

 深めのキャップに、ゆったりとしたオーバーサイズのパーカー。そこから伸びるすらりとした脚は、動きやすそうなショートパンツに包まれている。

 普段の隙のないタイトスーツからは想像もつかない、ボーイッシュでラフな出で立ち。しかし、そのカジュアルさが逆に、彼女の隠しきれない大人の色気を際立たせていた。


「おはようございます。……とても、新鮮な装いですね」


「ふふ、そう? たまにはこういうのも悪くないでしょ」


 キャップのツバを軽く指で弾きながら、社長が少し得意げに笑う。

 その時、キッチンからエプロン姿の篠宮さんが小走りでやってきた。彼女は社長の姿を見るなり、少しだけ眉を下げた。


「社長……! その格好、少し無防備すぎませんか? もし転んだら危ないですし、汗をかいたら風邪を引きます! ほら、このハンカチとタオルも持っていってください。あとお茶の水筒も……!」


「み、澪、大丈夫よ。子供のお使いじゃないんだから……」


 タオルと水筒を押し付けられ、たじたじになる社長。

 その光景を見た瞬間、俺の脳内に搭載された超高性能百合センサーが『ピピピピ! 』と歓喜のアラートを鳴らした。


(おおっ……! 素晴らしい!)


 俺は内心で固く拳を握りしめた。

 普段の業務では、社長が常に先頭に立ち、篠宮さんを引っ張っている。しかし休日のプライベート空間では、篠宮さんがまるで母親のように世話を焼き、社長が少し照れくさそうにそれを受け入れる。この逆転現象! これこそが、日々の労働の疲れを癒やす極上のオアシスである。


「相馬くん」


 不意に、篠宮さんが真剣な眼差しでこちらを向いた。


「……今日は、社長をよろしくお願いします。社長は普段、気を張ってばかりですから。どうか、存分に羽を伸ばせるようサポートしてあげてください」


 その瞳の奥にある、深海のように静かで深い愛情。

 俺は姿勢を正し、深く頷いた。


「お任せください、篠宮さん」


(なるほど。日頃の社長業の重圧から解放されるための『ガス抜き』……。篠宮さんを安心させるためにも、俺は今日、社長のストレスを全て受け止める最高のクッションにならねばならない!)


 俺は壁としての新たな使命に燃え、社長と共にマンションを後にした。


---


 金属バットが風を切る鋭い音と、硬球を弾き返す快音が、ケージ内に響き渡っていた。


「よっ……と! あははっ、相馬見た!? 今の完璧じゃない!?」


 バッティングセンターの打席で、社長が無邪気な声を上げる。

 彼女が指定した目的地は、ボウリングやアーケードゲームが併設された大型の庶民的アミューズメント施設だった。額に薄っすらと汗をかきながら笑う彼女の顔には、普段の冷徹な仮面は欠片も存在しない。


「お見事です、社長。腰の回転が素晴らしいですね」


 俺が拍手を送ると、社長は満足げにバットを下ろし、隣のケージを指差した。


「次は相馬の番よ。私、負けず嫌いだから手加減はしないでね!」


 促されるまま、俺は隣の打席に立った。

 コインを入れ、バットを構える。元々、スポーツ万能というわけではない。初球の130km/hのボールは、空を切るバットの遥か下を通過していった。


「あはは、力みすぎよ相馬!」


 ケージの外で社長が笑う。

 俺が苦笑して構え直そうとした、その時だった。


 ぞわり、と。

 背筋を、氷のような感覚が駆け上がった。


(――っ!? なんだ、この波長は……!?)


 先週の事件を経て、半径60メートルまで探知範囲が広がった俺の百合センサーが、強烈なシグナルを受信していた。

 重く、湿っていて、ひりつくような焦燥感と、針で刺すような……ヤキモチ。


 俺はバットを構えたまま、視線だけを動かして背後の気配を探った。

 約50メートル後方。施設の入り口付近にある巨大な柱の陰。そこに、帽子とサングラスで変装した、見覚えのある細身のシルエットが張り付いていた。


(篠宮さんだ……!)


 瞬時に状況を理解する。

 篠宮さんは、愛する社長が俺なんかと出かけて怪我でもしないか心配で、たまらずこっそり見守りに来ているのだ!


(なんて強烈な『心配』と『ヤキモチ』の波動なんだ……。もし俺がここで情けない姿を見せれば、篠宮さんの純粋な百合ハートは不安で曇り、ひいては社長への信頼まで揺らいでしまうかもしれない!)


 それは、偽装夫としての死を意味する。


(ならば俺は、篠宮さんを安心させるため、絶対に社長に危険が及ばない『完璧で無敵の壁』であることを証明せねばならない!)


 カチッ、と。

 俺の中で、何かのスイッチが入った。


(遠隔受信した篠宮さんの百合波動をエネルギーに変換……【完全防衛・絶対守護壁パーフェクト・ウォールモード】、起動!)


 ピッチングマシンのアームが回転する。

 放たれた白球の軌道が、俺の網膜にスローモーションで映し出された。


 普段から、社長と篠宮さんの間で交わされるコンマ1秒の視線の交差や、無意識の筋肉の連動をスキャンし続けてきた俺の【百合動体視力】。それを物理的なボールの軌道予測に全振りした結果――俺の身体は、完全に自動化された防衛装置と化した。


 カキィィン!!


 完璧なミート。ボールは一直線に的の中心を射抜いた。

 そこから先は、百発百中だった。飛んでくるボールの縫い目すら見えるような極限の集中状態。俺は一切の無駄のないフォームで、マシンの球を全て完璧に打ち返していった。


「えっ……嘘、相馬……?」


 ケージの外で、社長が目を見開いている。

 打ち終わってバットを置いた俺は、汗を拭いながら静かに言った。


「どんな剛速球が飛んできても、社長には指一本触れさせません。ご安心を」


 社長は少しポカンとした後、ふっと表情を和らげた。


「……ふふ。なんだか、すごく頼もしいわね」


 その瞳に浮かんだ心地よさそうな光は、俺ではなく、遠くで見守る篠宮さんに向けられたものだと俺は信じて疑わなかった。


---


 しかし、平穏な時間は長くは続かなかった。

 少し混雑してきたフードコートの隅で、休憩のために社長がキャップを外した瞬間のことだ。


「ねえねえ、そこのお姉さん。超美人じゃん。今1人? 俺らとお茶しない?」


 いかにも軽薄そうな、チャラい男の2人組が社長のテーブルに近づいてきた。

 社長が不快そうに眉をひそめ、冷たい声で断ろうとした、その時。


 ――ビキィッ!


 俺のセンサーが、脳が割れるほどの特大ノイズを受信した。

 先ほど柱の陰にいた篠宮さんからの波動が、性質を完全に変異させていたのだ。


(こ、これは……!!)


 心配やヤキモチではない。

 それは、『私の社長に馴れ馴れしく触れないで! 』という、純度100%の『嫉妬と殺意』の波動だった。


(篠宮さんの心が悲鳴を上げている! 尊い百合空間に土足で踏み込もうとするあの不純物ども……断じて許さん!!)


 壁の役割は、外敵を弾き返すことだ。

 俺は瞬時に篠宮さんの強烈な怒りと独占欲を中継・出力する【百合波動・共鳴威圧ユリ・レゾナンス・プレッシャー】を発動させた。


 ダンッ、と。

 俺は男たちの前に立ち塞がり、社長の華奢な肩をぐっと抱き寄せた。


「あ? なんだお前――」


「……俺の妻に、何か?」


 普段の温厚な平社員としての声帯は使わない。

 俺が放ったのは、クレーマーや不届きな取引先を震え上がらせる時の、篠宮さんそっくりの「絶対零度の冷徹な底冷えする低音」だった。

 見下ろす眼差しに、一切の感情を乗せない。ただの無機質な「壁」としての殺気。


「ひっ……! い、いや、人違いでした……!」


 男たちは俺の瞳の奥底に潜む深淵(篠宮さんの怒り)に気圧され、血相を変えて逃げるように去っていった。

 彼らの背中が見えなくなるのを確認し、俺はふう、と息を吐き出す。


(ふう。篠宮さんの怒りを見事に中継できたな。不純物を速やかに排除し、社長の絶対領域を守り抜く……完璧な壁ムーブだ)


 俺は満足して、抱き寄せていた肩から手を離そうとした。

 しかし。


「……社長?」


 社長は、俺のシャツの裾をギュッと強く掴み、俯いたまま動かなかった。


「……ばか。心臓、止まるかと思ったじゃない……」


 震える声。

 見下ろすと、キャップで隠れた耳の裏まで、リンゴのように真っ赤に染まっていた。普段の「私が引っ張らなきゃ」という重圧から解放され、今だけは完全に庇護される側の『乙女』の顔になっている。


 俺は「なるほど、急なナンパで驚かせてしまったな。これもエスコート不足か」と、己の未熟さを深く反省した。


---


 帰り道。夕暮れに染まる公園のベンチで、俺たちは並んで缶ジュースを飲んでいた。


「……今日は本当に楽しかったわ。ありがとう、相馬」


「こちらこそ。社長が楽しんでくれたなら、良かったです」


 夕陽に照らされた社長の横顔は、とても穏やかだった。


---


 その時、氷室凛花の鋭い視線は、公園の入り口付近にある電柱の陰を密かに捉えていた。


(……あ、澪だ)


 氷室の唇の端が、僅かに吊り上がる。

 帽子にサングラスという怪しい変装だったが、長年連れ添った彼女の眼をごまかすことはできない。休日のデートを心配して、こっそり後をつけてきた愛しの秘書だと一発で見抜いていた。


(ふふっ。あんな所で隠れて……相馬に嫉妬してるのかしら)


 普段の少年っぽい悪ノリの精神が、氷室の中で頭をもたげる。

 最愛の秘書に、ほんの少しだけヤキモチを焼かせてみたい。そんな無邪気な悪戯心から、氷室はわざとらしく相馬の方に向き直り、甘い声を出した。


「ねえ、相馬」


「はい?」


「今日の働きへのご褒美に……特別に、私の手を繋いで帰る権利を、あげようか?」


 にっこりと、挑発的に微笑む。

 それは氷室にとって、篠宮に見せつけるための単なる「軽いからかい」のつもりだった。


---


 だが、その不自然な誘いを受けた俺の思考回路は、全く別の方向へと弾け飛んでいた。


(な、なんだってー!?)


 俺の脳内で、警報が鳴り響く。

 先ほど、社長は確かに電柱の陰をチラリと警戒するように見た。その直後での、この不自然な誘い。


(なるほど……! あの電柱の陰に『前会長の監視』がいるのを、社長は持ち前の嗅覚で察知したんだな! だからわざわざ、監視に向けた完璧な『夫婦アピール』の指示を出してきたわけだ!)


 流石は社長、一瞬の隙もない完璧な偽装戦術である。

 俺は姿勢を正し、最大限の敬意と、偽装夫としての職務全うの意志を込めて頷いた。


「光栄です、凛花」


 俺はあえて呼び捨てにし、一切の照れもなく、スッと社長の右手を取った。

 そして、単に握るだけではなく、指と指の間に自分の指を深く滑り込ませる『恋人繋ぎ』の形を作って、しっかりと絡め合わせた。


「えっ……!?」


 社長の肩が、ビクンと大きく跳ねた。

 見開かれた瞳が、信じられないものを見るように俺と、繋がれた手を見つめている。


「さあ、帰りましょうか」


 俺が極上のイケメンスマイル(当社比)を向けると、社長の口はパクパクと金魚のように開閉し、やがて顔面が茹でダコのように真っ赤に沸騰した。


「あ、う……っ、う、うん……っ」


 社長はそれきり完全に言葉を失い、俺の少し後ろを、繋いだ手に引かれるまま大人しく歩き始めた。


(監視相手にリアリティを出すための迫真の照れ演技、恐れ入ります!)


 俺は内心で社長の女優魂に拍手喝采を送りながら、堂々と公園を歩き出した。


 ――一方、その頃。

 イチャイチャと手を繋いで歩き去る2人の後ろ姿を、電柱の陰から、ギリッとハンカチを噛みちぎらんばかりの勢いで見つめる影があった。


「……相馬くん、ずるい。凛花のあんな顔、私にも見せたことないのに……」


「……凛花も、ずるい。私だってまだ、相馬くんとあんなふうに手を繋いだことないのに……」


 ビリッ、と。

 無意識に噛み締めたハンカチの端が小さく裂ける音が響く。

 電柱の陰に佇む篠宮の瞳からは、普段の理知的な光が完全に消え失せていた。相反する暗い情念の混ざり合った、ひどくねっとりとした熱い視線だけが、夕闇に溶けていく2人の背中にいつまでも絡みついていた。

 トリプルにすれ違った3人の思惑は、それぞれの心臓を大きく鳴らしたまま、夕闇の中へと溶けていった。


最後までお読みいただきありがとうございます!


「相馬の壁ムーブが面白い!」「ヒロイン達のすれ違いが尊い!」と少しでも楽しんでいただけましたら、

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※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!

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