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第7話 声なき百合の叫びと、壁が選んだ三つのマグカップ

悲劇は、クラゲエリアの幻想的な青い光の中で起きていた。


 柱の影。展示パネルの裏。トイレ前の観葉植物の陰。

 篠宮雫は、姉と師匠(相馬)のデートを完璧に記録するため、あらゆる遮蔽物を駆使して尾行を続けていた。


(お姉ちゃん……深海コーナーで師匠の腕にしがみついてた……。ぐっ、お姉ちゃんのビビリは私だけが知っていたのに……! でもこれは任務。任務なの。泣かない)


 手元のスマホで望遠撮影を続けながら、雫は歯を食いしばっていた。

 しかし、その涙目でスマホを構えた不審な挙動は、周囲から見れば完全に「盗撮犯」のそれだった。


「あの、お客様。少々よろしいですか」


 肩を叩かれ、振り向くと、そこには水族館の制服を着た警備員が立っていた。


「こちらで何かを撮影されていましたか?」


「いっ、いえ! 撮影なんて! ただ、その、水槽を……」


「お1人でいらっしゃっていますか? 他のお客様から、不審な方がいるとの報告がありまして」


「不審……!? わ、私は怪しい者では……!」


(お姉ちゃんのデートを監視していますとは言えない……! でも、ここで私が捕まったら……証拠写真が撮れない、お姉ちゃんを守れない……!)


 雫の脳内で、焦りが急速に膨れ上がる。

 だが、それは単なるパニックではなかった。


(お姉ちゃん……お姉ちゃん……! ここで引き離されたら、私はお姉ちゃんの傍にいられなくなる……! あの美しい横顔を、あの柔らかい笑顔を、もう見守れなくなる……!)


 雫の中で、抑圧されていた感情の蓋が弾け飛んだ。

『姉と離れ離れになる』という恐怖が、シスコン百合の念を限界突破させる。


(お姉ちゃぁぁぁん……!!!)


 声にならない絶叫。

 だが、その感情の奔流は――目に見えない波動となって、水族館中に拡散した。


---


 その頃。クラゲエリアを篠宮さんと一緒に歩いていた俺の全身を、唐突に鳥肌が駆け抜けた。


「っ……!」


 足が止まる。

 篠宮さんが不思議そうに振り返る。


「相馬くん? どうしたの?」


 俺は答えられなかった。

 全神経が、今この瞬間受信した「波動」の解析に集中していたからだ。


(……この重く、湿って、甘ったるい、巨大な百合の波動……)


 間違いない。この波長は知っている。先週、玄関で初めて受信した、あの圧倒的なシスコン百合のシグナルだ。


(雫さんか……!)


 だが、いつもと様子が違う。普段の雫さんの波動は、重厚だが安定している。姉への巨大な愛を、理性という箱に押し込めた、制御された波動だ。


 今受信しているのは、それとは根本的に異なっていた。


(これは……単なる焦りやパニックじゃない。もっと根源的な……)


 俺の百合センサーが、受信した波動の感情パターンを解析し、結論を弾き出す。


(『尊い対象(百合)から、強制的に引き剥がされようとしている時に発せられる、悲痛なSOS』だ……!)


 何者かによって、雫さんが「姉の傍にいる」という立場を脅かされている。その恐怖が、百合感情を暴走させ、制御不能のSOSとなって俺のセンサーに飛び込んできている。


 方角は――南西。距離にして、約60メートル。クラゲエリアの奥、トイレ前の通路付近。


(……待て。60メートル?)


 俺は自分のセンサーの出力に、一瞬驚いた。

 以前の俺なら、せいぜい20メートル圏内の百合しか感知できなかった。それが今や、壁を隔てた60メートル先の百合の波動を、方角と距離まで正確に特定できている。


(……あの家での同居生活か。毎日、至近距離で社長と篠宮さんの純度100%の百合を浴び続けた結果、センサーが異常進化している……? 恐ろしいな、極上の百合は人体を改造するのか……)


 感嘆している場合ではない。雫さんが危機に瀕している。


「篠宮さん、すみません。お手洗いに行ってきます。すぐ戻ります」


「え? あ、うん……」


 俺は篠宮さんに断りを入れると、受信した波動を羅針盤にして、人混みの中を縫うように駆けた。


 辿り着いた先で目にしたのは、警備員に詰め寄られ、今にも泣きそうな顔で立ち尽くしている雫さんの姿だった。


「お客様、ご事情を説明していただけますか? 場合によっては事務所の方で――」


「あ、すみません!」


 俺は自然な笑顔で警備員と雫さんの間に滑り込んだ。


「ウチの家族がご迷惑をおかけしました。水槽に夢中になって、はぐれてしまったみたいで。探していたんですよ」


「……ご家族の方ですか?」


「はい。妹です」


 俺が淀みなく答え、雫さんの肩にぽんと手を置くと、雫さんがびくりと肩を跳ねさせた。


「ほら、雫。皆心配してたぞ。行こう」


「……は、はい」


 警備員は俺の堂々とした態度と、雫さんが素直に従ったのを見て、「お気をつけて」と引き下がってくれた。


 人混みの中に紛れ、十分に距離を取ってから、雫さんが震える声で言った。


「し、師匠……どうしてここが……? 私、LINEも電話もしていないのに……」


 俺は少し考えてから、正直に答えた。


「雫さんの百合の波動が、急激に乱れたのを受信した。『お姉さんから引き剥がされる恐怖』が、そのまま信号になって飛んできたんだ」


「…………」


 雫さんが、目を見開いて絶句した。


「……言葉も発していないのに。ただ私が心の中で『お姉ちゃん』と叫んだだけで、師匠のセンサーに引っかかった、と……?」


「百合の波動に距離は関係ない。特に雫さんのは重量級だからな。クラゲエリアの反対側からでもビンビンだった」


 雫さんの目に、じわりと涙が浮かんだ。

 だが先週の涙とは違う、畏敬と感謝の涙だった。


「やはり師匠は……師匠です……! 私の全存在を賭けた百合の叫びを、声なき声を、こうも正確に拾い上げてくださるとは……!」


「大袈裟だ。さあ、持ち場に戻れ。ただし次はもう少し上手く隠れろ。あと泣きながらスマホを構えるな、普通に通報される」


「はいっ、師匠!」


 ビシッと敬礼した雫さんが、再び柱の影に消えていく。

 俺は胃を押さえながら、篠宮さんの元へ急いで戻った。


---


 水族館の出口付近に、お土産コーナーがあった。


 雫さんからLINEが飛んできた。

『師匠。カップルらしいお揃いのグッズを買ってください。証拠写真に使います』


 篠宮さんにそれを見せると、彼女は少し顔を赤らめながら、棚に並んだ商品を指差した。


「……あの、ペアのマグカップとか、どうかな。水族館のロゴが入っているやつ」


 白と水色の、シンプルだが可愛らしいデザインのマグカップ。確かにカップルが選びそうなチョイスだ。


「いいですね」


 俺はマグカップの棚に手を伸ばした。

 白と、水色と――それから、もう一つ。淡いピンク。


 三つのマグカップをカゴに入れた。


「……三つ?」


「ええ。俺たちは3人で家族ですから。社長だけ仲間外れにするわけにはいきません」


 篠宮さんが一瞬、何とも言えない表情をした。

 嬉しいような、少しだけ残念そうな、複雑な顔。

 でもすぐに、いつもの穏やかな微笑みに戻った。


「……そうだね。社長、ピンク似合うと思う」


「でしょう? 社長と篠宮さんがお揃いのマグで朝のコーヒーを飲んでいる光景を想像するだけで、俺はもう10分に幸せです」


(3人で同じマグを使う。それはつまり、社長と篠宮さんが「お揃い」であるという百合的事実を、日常レベルで固定化するということ……! 完璧な壁の一手……!)


 俺が脳内で百合の算盤を弾いている隣で、篠宮さんが小さく呟いた声は、残念ながら俺のセンサーには引っかからなかった。


「……私と相馬くんの、2人だけのお揃いが欲しかったのに、な……」


---


 帰宅。


 玄関のドアを開けた瞬間、そこに氷室社長が立っていた。

 出かけた時と同じパーカー姿。ただし、クッションはもう抱えていない。


「おかえり」


 短く、平坦な声。

 だが、その目は忙しく俺と篠宮さんの間を行き来していた。


「ただいま帰りました、社長。はい、これ、お土産です」


 俺が紙袋からピンクのマグカップを取り出すと、社長の目がパッと輝いた。


「……私の分もあるの?」


「当然です。3人家族ですから」


 社長がマグカップを両手で包み込むように受け取り、じっと見つめる。その仕草が、なんだかとても愛おしそうで――。


「……ありがとう」


 小さな、でもとても柔らかい声だった。


 だが、次の瞬間。

 社長の視線が、俺と篠宮さんの間に漂う「何か」を捉えた。


 1日を共に過ごした人間だけが纏う、独特の空気感。2人の間に自然と生まれた、呼吸の同期。篠宮さんが無意識に俺との距離を縮めている、その数センチ。


 氷室社長の表情が、すっと変わった。

 喜びが消え、マグカップを握る指に、きゅっと力が入る。


「……澪」


「はい、社長」


「楽しかった?」


 その問いに含まれた感情の重さに、篠宮さんが一瞬言葉に詰まった。


「……はい。相馬くんが、とても紳士的にエスコートしてくれて」


「……そう」


 沈黙。


 そして。

 氷室社長がスッと俺の正面に立ち、真っ直ぐに見上げてきた。


 その瞳に宿っていたのは、社長としての威厳でも、百合的独占欲でもなかった。

 もっとシンプルで、もっと生々しい、1人の女の子の感情だった。


「来週は、私が相馬くんとデートするから」


「…………は?」


「えっ……!?」


 俺と篠宮さんの声が、同時に裏返った。


「し、社長!? それはどういう……前会長の偵察ですか!? 次の視察に備えた予行演習ということでしょうか!?」


「……そういうことにしておいて」


 氷室社長はそれだけ言って、ピンクのマグカップを大事そうに抱えたまま、自分の部屋に引っ込んでしまった。


 バタン、とドアが閉まる。


 リビングに残された俺と篠宮さんは、互いに顔を見合わせた。


 篠宮さんの表情は、困惑と、かすかな――本当にかすかな、焦りのようなものが混じっていた。


「……相馬くん」


「は、はい」


「社長は……ああ見えて、寂しがり屋だから。来週、ちゃんとエスコートしてあげてね」


「もちろんです。壁として万全の態勢で臨みます」


「……うん。壁として、ね」


 篠宮さんが小さくため息をついて、自分の部屋に向かった。

 その背中が、いつもより少しだけ小さく見えたのは、気のせいだろうか。


 1人残されたリビングで、俺は胃を押さえた。


(来週も偽装デート……。俺の胃は持つのだろうか……)


 しかし、と。

 今日1日の「収穫」を思い出し、俺の口元は自然と緩んだ。


(篠宮さんの私服姿を社長に報告しなければ。そしてビビリ属性も。社長なら絶対にニヤニヤするはずだ。あと深海コーナーでの手の震え方が0.3秒周期だったこと、クラゲを見た時の瞳孔の開き具合が通常比1.7倍だったことも記録に残さねば……)


 百合データベースの更新作業に没頭し始めた俺は、2人の部屋からそれぞれ漏れ聞こえてくる、枕に顔を埋めたような「むぅぅぅ」という声に、やはり気づいていなかった。


最後までお読みいただきありがとうございます!


「相馬の壁ムーブが面白い!」「ヒロイン達のすれ違いが尊い!」と少しでも楽しんでいただけましたら、

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※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!

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