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第6話 透過する壁と、水族館の悲痛なSOS

翌朝。デート当日。


 俺は洗面台の鏡の前で、人生で三本の指に入るほど丁寧に身支度を整えていた。

 いつもの総務部のくたびれたスーツではなく、休日用の白いシャツにジャケットを羽織り、髪もきちんと整えている。鏡の中の自分が、まるで別人のようだ。


(……いや。今日の俺は『俺』じゃない)


 胸の中で、静かに覚悟を決める。

 今日の俺は、相馬悠真という一介の平社員ではない。篠宮澪の「完璧な婚約者」であり、同時に――氷室凛花社長の「完全なる代理プロキシ」だ。


 リビングに出ると、篠宮さんがすでにソファに座っていた。

 普段の秘書スーツではなく、淡いブルーのワンピースに白いカーディガンを合わせた私服姿。いつもの凛とした雰囲気とは違う、どこか柔らかくて――。


(尊い。篠宮さんの私服は、氷室社長が一番よく見ているはず。つまりこれは社長への信頼の証。なるほど、今日も百合の気配は盤石だ)


「お、おはようございます、相馬くん。その……今日は、よろしくお願いします」


 篠宮さんが少し照れたように目を逸らす。

 俺が軽く頭を下げようとした、その時だった。


「…………」


 リビングのソファの端で、氷室社長がクッションを胸に抱えたまま、こちらを無言で睨んでいた。

 休日のラフな格好――オーバーサイズのパーカーにショートパンツという出で立ちが、普段のカリスマ社長とのギャップで破壊的に可愛い。だが今は、その瞳にいつもの少年っぽい快活さは微塵もなく、代わりに据わった目で俺と篠宮さんの間を行ったり来たりしている。


「……私だって、書類上は妻なのに」


 ぼそり、と。


「休日に2人でデートなんて。それって不倫じゃないの?」


 チクリ、と刺すような一言。

 篠宮さんが「社長……」と困ったように眉を下げる。


 だが俺の【百合センサー】は、この言葉の裏に隠された真の感情を、0.1秒で完全にスキャンし終えていた。


(おおっ……! これは……!)


 俺の脳内で、百合解析エンジンがフル稼働する。


(社長は怒っているのではない。『私の最愛のパートナー(篠宮)を、お前のような男が休日に独占するなんて許せない! 』という、強烈な百合的嫉妬ジェラシーを燃やしているのだ……! なんという純度。なんという濃度。美しい……美しすぎるッ……!)


 胃袋が痙攣するほどの感動を噛み殺しながら、俺は社長の前に正座した。


「申し訳ありません、社長!」


「えっ」


「私のような男が篠宮さんの隣を歩くなど、万死に値する行為であることは重々承知しております! ですから本日、俺は己の存在感を完全に透過ステルスさせます!」


「……透過?」


「はい! 篠宮さんの網膜には、俺ではなく『あたかも氷室社長と水族館デートをしている』かのように錯覚させてみせます! 俺は今日1日、社長の完全なる分身となり、社長のイケメンムーブを100%の精度でトレースすることをここに誓います!」


 沈黙。


 氷室社長が、クッションにぎゅうっと顔を半分埋めながら、ジト目で俺を見下ろした。


「……いや、透過しないで普通にエスコートしてあげてよ。ていうか、そういう意味じゃないし」


 最後の方は、クッションに完全に顔を沈めてしまい、くぐもった声しか聞こえなかった。


(……あぁ、社長。篠宮さんへの愛が溢れすぎて、言葉にできないのですね。分かります。俺はその想いを、一滴たりとも無駄にしません)


 完全に的外れな感動を胸に秘めながら、俺は篠宮さんと共にシェアハウスを後にした。


 ちなみに、玄関を出る直前。

 振り返ると、氷室社長がクッションを抱きしめたまま、こちらを見つめていた。

 その表情は――寂しそうで、少しだけ、羨ましそうだった。


(社長……。必ず、篠宮さんの心を無傷でお返しします。壁にかけて)


 俺は心の中で深く頭を下げ、ドアを閉めた。

 社長の本当の気持ちには、相変わらず1ミリも気づかないまま。


---


 水族館。休日とあって家族連れやカップルで賑わう入口を、俺と篠宮さんは並んで歩いていた。

 少し離れた柱の影には、サングラスにキャップという分かりやすすぎる変装をした雫さんが張り付いている。尾行のプロ意識はともかく、監視役としての存在感は10分だった。


「相馬くん、あの……今日は本当にすみません。雫の頼みとはいえ、休日を潰してしまって」


「気にしないでください。これは壁としての任務です」


(そして今日の俺は、ただの壁ではない。氷室社長のプロキシ(代理)だ)


 俺は背筋を正し、脳内に保存されている膨大な「氷室社長イケメンムーブ・データベース」にアクセスした。

 社長がプレゼンの時に見せる、あの堂々とした歩幅。部下に声をかける時の、あの絶妙な距離感。篠宮さんの髪に付いた埃をノールックで払い落とす、あの流麗な手の動き。

 すべてが鮮明に記録されている。俺の百合センサーは、2人の間で交わされる微細なコミュニケーションの一挙手一投足を、毎日欠かさず記録し続けていたのだ。


(さあ、始めよう。【氷室凛花・完全プロキシモード】、起動)


 入場ゲートを抜けると、最初のエリアは色とりどりの熱帯魚が泳ぐ明るい水槽だった。


「わあ……綺麗」


 篠宮さんが、水槽の光に照らされて目を輝かせる。

 ああ、なるほど。この角度からの篠宮さんを一番見ているのは社長だ。社長ならきっと、ここで何気なく隣に立ちつつ、篠宮さんが見やすいように自然とポジションを譲る。


 俺はさりげなく半歩ずれ、篠宮さんに最も良い角度で水槽が見えるポジションを作った。


「……相馬くん、そこだと見にくくない?」


「いえ。篠宮さんが一番綺麗に見える角度が、俺にとっての最高の景色ですから」


(社長っぽいセリフ、完璧にトレースできた……!)


 篠宮さんが一瞬固まり、それから耳まで赤くなった。


「な、なんでそういうこと平気で言えるの……」


(よし。篠宮さんの赤面反応、社長に見せたら絶対ニヤニヤするやつだ。壁冥利に尽きる)


 順調だった。

 問題なく順調だった。


 ――深海エリアに入るまでは。


「ッ……!」


 照明がガクンと落ち、通路が深い藍色の闇に包まれた瞬間。隣を歩いていた篠宮さんの足が、ピタリと止まった。


「篠宮さん? どうかしま――」


 ギュッ。


 俺の右腕に、篠宮さんの両手がしがみついた。それも、書類を握る時の上品な力加減ではない。しがみつく、という表現がこれ以上ないほど正確な、本能的な力だった。


「し、篠宮さん……!?」


「……っ、ごめんなさい、暗いところが、ちょっと……」


 青白い照明に照らされた篠宮さんの顔は、明らかに強張っていた。普段のクールで完璧な美人秘書の面影はどこへやら。大きな瞳をわずかに潤ませ、唇をきゅっと噛んで、必死に平静を装おうとしている。

 だが、俺の腕を掴む指先は小刻みに震えていた。


(篠宮さん……まさかの、ビビリ属性……!?)


 これは盲点だった。会社では完璧超人として名を馳せる篠宮さんに、こんな一面があるとは。


 そしてその時、水槽の奥から、巨大な影がぬうっと現れた。

 長い脚を折り畳んだタカアシガニが、ガラス越しにこちらを見つめている。


「ひっ……!」


 篠宮さんが小さく悲鳴を上げ、俺の腕にさらに強くしがみついた。体ごと俺の方に寄りかかってくる。柔らかい髪から、清潔な石鹸の香りがふわりと――。


(待て。落ち着け相馬悠真。今の俺は俺じゃない。俺は氷室社長のプロキシだ)


 脳内のデータベースが高速で検索をかける。

 氷室社長なら、篠宮さんがこうなった時、どうする?


 答えは瞬時に出た。


 社長は「大丈夫だよ」なんて上から目線では言わない。さりげなく篠宮さんの視界からカニを遮るようにポジションを変え、何事もなかったかのように別の話題を振る。篠宮さんの自尊心を傷つけず、恐怖を受け止める。そういうスマートさを、俺は毎日のように観測してきた。


 俺は自然と篠宮さんとタカアシガニの間に体を入れ、視線を遮った。


「篠宮さん、ほら。あっちの水槽、クラゲがいますよ。ライトアップされて綺麗です」


「……え? あ、本当だ……綺麗……」


 篠宮さんの注意がクラゲに向いた隙に、俺はさりげなく歩幅を調整し、深海コーナーの出口に向かうルートへ誘導した。

 しがみついた腕は、まだ離れない。


「……相馬くん」


「はい」


「……ありがとう。こういうの、慣れてるの?」


 慣れている。毎日、至高の百合カップルの立ち居振る舞いを0.1秒単位で観察・記録し続けた賜物だ。

 ただし、その理由は絶対に言えない。


「篠宮さんが安心して歩けるようにするのは、婚約者として当然のことですから」


(社長のトレース精度、過去最高値を叩き出している気がする……! 氷室社長、あなたの愛のエスコートを、俺は完璧に再現しています……!)


 自分がエスコートした事実を完全に氷室社長の功績に変換しながら、俺は満足げに頷いていた。


 だが、この完璧なプロキシモードにも、一つだけ誤算があった。


 篠宮さんがしがみつく腕の力が、深海エリアを抜けてもなお、一向に緩まないのである。


「あの、篠宮さん。もう明るいエリアですけど……」


「……あ」


 篠宮さんがハッと我に返り、弾かれたように腕を離した。耳まで真っ赤だ。


「ご、ごめんなさい……! つい……」


「いえ、社長のプロキシとして正常に機能していた証拠です。気にしないでください」


「…………プロキシ、ね」


 篠宮さんが何か言いたげに口を開きかけ、けれどすぐに俯いて、小さく首を振った。


(……? 今の反応は何だ? 社長のイケメンムーブが完璧すぎて感動しているのか? だとしたら帰ったら社長に報告しないと……)


 俺が脳内で百合データベースの更新メモを作成していた、その時だった。


 ぞわり、と。


 全身の毛穴が、一斉に開いた。


(――なんだ、これは)


 百合センサーが、突如として異常な波動を受信していた。

 重く、湿って、甘ったるい。どこか切実で、悲痛な――。


(この波長……まさか、雫さんか……?)


 俺は足を止め、水族館の奥へと意識を向けた。


最後までお読みいただきありがとうございます!


「相馬の壁ムーブが面白い!」「ヒロイン達のすれ違いが尊い!」と少しでも楽しんでいただけましたら、

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※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!

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