第5話 百合は百合を呼ぶ。ならば俺は、その全てを保護する壁になろう
週末。いつもなら氷室社長と篠宮さんが優雅に朝食のコーヒーを分かち合う、至福の土曜日の朝。
だが今日のリビングには、コーヒーの香りの代わりに、ぴりついた緊張が漂っていた。
「……本当に、ごめんなさい。私の実家の都合で、休日にまで相馬くんに迷惑をかけてしまって」
ダイニングテーブルの向かい側で、篠宮さんが申し訳なさそうに眉を下げている。
俺は首を横に振った。
「とんでもない。防犯および管理担当として、不審者の迎撃は立派な業務の一環ですから」
「不審者って……一応、身内なんだけどね」
苦笑する篠宮さんの隣で、氷室社長がその手をきゅっと握りしめていた。
不安そうに。けれど離すまいとするように。指の力加減が、いつもの何気ないスキンシップとは明らかに違う。
美しい、と思った。
嵐の前の静けさに怯え、互いの体温だけを頼りに寄り添う二輪の百合の花。俺の百合センサーは、この「資本主義と家父長制の暴力によって引き裂かれようとしている尊き百合の危機」を、胃袋の奥底で燃え上がる熱い使命感として受信していた。
篠宮さんの実家は、地方で歴史ある名家だが、今は深刻な経営難に陥っているらしい。その窮状を打破するための切り札として白羽の矢が立ったのが、美貌と有能さを兼ね備え、大企業の社長秘書として働く篠宮さんだった。地元の資産家である初老の社長の後妻として嫁がせ、莫大な資金援助を引き出す――典型的な、そして反吐が出るほど古典的な政略結婚だ。
しかし、すでに篠宮さんには「将来を約束した婚約者(俺)」がいるという報告が実家に入った。しびれを切らした親が「直接そいつを値踏みしてやる」と、使者を送り込んできたのである。
氷室社長は、会社のトップとしての権力は持っていても、あくまで「篠宮さんの上司」だ。彼女のプライベートな家族問題に表立って介入することができない。
その歯がゆさが、篠宮さんの手を握る指の白さに滲んでいた。
「篠宮さん。氷室社長」
俺は背筋を伸ばした。
「お2人の……いえ、篠宮さんの平穏は、俺が必ず守り抜きます」
普段の「へこへこした雑用係」の顔を脱ぎ捨て、「篠宮澪の完璧な婚約者」モードへ切り替える。
その瞬間、エントランスのインターホンが鋭く鳴った。
「来たか……」
モニターに映っていたのは、篠宮さんの親御さん――ではなかった。
姉とは対照的にショートヘアをスタイリッシュにまとめ上げ、鷹のように鋭く美しい目元をした、タイトなスーツ姿の若い女性。
ヒールの高さまで隙がない。全身から「値踏みしに来た」という圧が漏れ出ている。
「お久しぶりです、お姉ちゃん」
ドアを開けるなり、冷え切った声が玄関に響いた。
「雫……? お父様とお母様が来るんじゃなかったの?」
驚く篠宮さんに、妹の雫は一瞥もくれずに言った。
「両親は『あんな得体の知れない平社員に会う価値などない。お前が適当にあしらって、姉を連れ戻してこい』と。――というわけで」
鷹の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「あなたがその『得体の知れない平社員』さんですか?」
慌てない。騒がない。
俺は無言で、この家で研鑽を積んだ完璧な所作で、最高級の紅茶を淹れた。茶葉はダージリン・セカンドフラッシュ。抽出時間は3分半。カップを温めるのも忘れない。
静かに、雫さんの前のテーブルに差し出す。
「初めまして、雫さん。篠宮澪の婚約者を務めさせていただいております、相馬と申します」
「……随分と堂々としているのね」
雫さんがカップを手に取り、一口含む。わずかに目を見開いたが、すぐに表情を戻した。
「紅茶の淹れ方も悪くない。でも――ただの平社員風情が、あの資産家との縁談を蹴ってまで完璧なお姉ちゃんの隣に立つ資格があるとは思えないけれど」
冷酷な言葉。
だが、俺は一切ダメージを受けていなかった。
なぜなら。
俺の【百合センサー】は、玄関で彼女と顔を合わせた瞬間から、とんでもないものを受信し続けていたからだ。
雫さんの瞳孔。
玄関で最初に姉の顔を見た瞬間、0.2秒だけ拡大した。そしてリビングに入ってからも、どんなに冷たい言葉を吐いている最中でも、3秒に1度は無意識に姉の方へ視線が引き寄せられている。
さらに、篠宮さんが不安そうな表情を見せるたびに、雫さんの眉間にかすかな皺が走る。それは「姉を連れ戻す使者としての焦り」ではない。もっとプリミティブな――姉が苦しんでいることへの、純粋な痛み。
その目には、俺への『軽蔑』も、『実家の利益を優先する打算』も、1ミリも存在していなかった。
代わりに、彼女の全身から発せられているのは――。
(姉に対する、巨大で、拗らせた、クソデカシスコン百合の波動)
俺の口角が、自然と上がった。
「……何がおかしいんですか? 自分の立場が分かっていないようですね」
「いえ。雫さん」
俺は一拍置いて、静かに切り出した。
「あなたは本当は、お姉さんが実家のために政略結婚することなど、これっぽっちも望んでいないのではありませんか?」
空気が凍った。
「っ……な、何を根拠に! 私は実家の存続のために、お姉ちゃんに目を覚ましてもらおうと……!」
声が裏返っている。図星だ。
俺はスッと雫さんに近づき、後ろにいる篠宮さんたちには絶対に聞こえない距離で、囁いた。
「いいえ。あなたはただ、お姉さんが『自分以外の誰か』のものになるのが許せないだけだ」
ビクッ、と。雫さんの肩が大きく跳ねた。
紅茶のカップを持つ指先が、微かに震えている。
「その感情は、非常に尊い」
俺は言葉を選びながら、しかし確信を込めて続けた。
「だからこそ、誰にも知られたくないはずだ。もちろん、お姉さん本人にも。安心してほしい、俺は絶対に口外しない。――俺は『壁』だからな」
図星を突かれ、しかも誰よりも隠しておきたかった感情の急所を完璧に配慮された雫さんは、目を見開き、ワナワナと唇を震わせた。
「……平社員風情に、私の何が分かるんですか……。私がお姉ちゃんを……っ」
「愛する対象が美しすぎるがゆえに、世界中のどんな男も彼女に相応しくないと思ってしまう。その純粋な渇望。痛いほど分かります」
俺は一歩下がり、元の声量に戻した。
「俺も同類ですから」
「……どう、いう……」
「俺は夫ではない。ただの『壁』だ」
俺は体を横にずらし、リビングのソファに座る2人の姿を、雫さんの視界に差し出した。
氷室社長と篠宮さん。
不安そうにしていた2人は、いつの間にか指を絡め合い、互いの体温を確かめるように寄り添っている。篠宮さんの親指が、社長の手の甲を無意識に撫でている。社長はそれに応えるように、かすかに身体を傾けている。
そこに男が入り込む隙間など、ミクロン単位で存在しなかった。
「あっ……」
雫さんの口から、言葉にならない吐息が漏れた。
「お姉さんは、あの空間の中にいる。俺が『婚約者』というダミーの壁になることで、お姉さんはあの聖域で不可侵の存在として生き続けることができる」
俺は雫さんに向き直った。
「俺とお前が共に『観測者(壁)』となれば、あそこに不純物な男の影が落ちることは、2度とない」
「観測者……壁……」
雫さんの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
誰にも言えなかった。姉が好きすぎて、姉が男のものになるくらいなら実家ごと壊してやりたいとすら思った。その醜い独占欲を、ずっと1人で抱えてきた。
それを今、目の前のこの男は――100%肯定した上で、「自分が手に入れるのではなく、壁として見守る」という、姉を一切汚さない解答を示してみせた。
「し、師匠……!!」
雫さんがソファから転げ落ちるように膝をつき、深く頭を下げた。
「私、愚かでした……! お姉ちゃんの隣には、あんなに美しくて尊い氷室社長がいたのに……! なぜ私は今まで気づけなかったのでしょう……!」
「気づけて良かった。さあ、立て。俺たちは共に壁としての矜持を持とう」
「はいっ! 実家には『相馬さんは隙のない完璧なエリートで、付け入る隙がありませんでした』と報告しておきます! あの資産家との縁談も、私が責任を持って裏で手を回して潰しておきますから!」
呆気にとられている篠宮さんと、ぽかんとしている氷室社長をよそに、俺と雫さんの間には、百合を守る同志としての絆が結ばれていた。
「……なんか、妹が相馬くんに異様に懐いちゃったんだけど……? さっきコソコソ話してたの、聞こえなかったけど。これで実家の件、解決……したの?」
篠宮さんが戸惑いながら首を傾げる。
「ええ。よく分からない『壁』ポエムでエリートの妹を洗脳するなんて……。相馬の変態力も極まれば世界を救うのね……」
氷室社長がこめかみを押さえながら深くため息をつく。
俺の功績は完全に「変態力」で片付けられたが、まあいい。結果が全てだ。
これで一件落着。俺の胃痛も今日はおさまる――そう思った矢先だった。
「――しかし師匠!」
帰り際、玄関で靴を履きながら、雫さんが目を輝かせてとんでもないことを言い出した。
「師匠の『壁』としての覚悟は本物だと信じます。ですが、両親を完全に黙らせるには、確固たる『既成事実(証拠写真)』が必要です!」
「既成事実?」
「はい! 明日、私が見張りますから、お姉ちゃんと師匠の『完璧なラブラブデート』を見せてください! 最高にイチャついている写真を何枚か撮って、両親に叩きつけてやります!」
「…………は?」
思考が、完全に停止した。
雫さんが嵐のように去った後のリビングには、気まずすぎる沈黙だけが残されていた。
「……相馬くんと、恋人のフリをしてデート……っ」
篠宮さんが、氷室社長にどう顔を向けていいか分からないという表情で、耳まで真っ赤に俯いている。
そして――氷室社長。
「……私の澪に、少しでも変なことしたら」
その声は低く、平坦で、だからこそ底知れない凄みがあった。
「絶対に許さないから」
百合的独占欲と、俺に頼るしかないという歯がゆさ。その二つが溶け合った、かつてないほど恐ろしい形相で、社長は俺を睨みつけていた。
(ヒィッ……!?)
胃が縮み上がる。
だが、次の瞬間、俺はハッとした。
(……待て。冷静に分析しろ、相馬悠真)
この俺への純粋な殺意。それは「篠宮澪を男に取られたくない」という感情から生まれている。つまりこの殺気の正体は――。
(篠宮さんへの愛が深すぎるがゆえに生まれた、『濃厚な百合の副産物』じゃないか……! こんな至近距離で浴びることができるなんて……ありがてぇ……尊すぎて死ぬッ!!)
殺気を浴びながら歓喜する百合センサー。胃痛と幸福感が同時に限界を突破し、俺の精神は昇天寸前だった。
明日は、篠宮さんとの偽装デート。
氷室社長の殺意を背中に受けながら、「完璧な婚約者」を演じきらなければならない。
……俺の胃は、果たして明日の日没まで持つのだろうか。
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