第4話 壁は守るためにある、挟まるためじゃない
氷室社長と篠宮秘書の「尊い関係」を守るための、胃痛と緊張の同居生活。その初めての平日の朝は、時間差出社という名の隠密行動から始まった。
「おはようございます」
2人が出社してきっかり15分後。俺はいつも通り、誰の記憶にも残らない絶妙な存在感で総務部のフロアへ足を踏み入れた。
しかし、自分のデスクに着くや否や、直属の課長から一枚の紙を突きつけられる。
「相馬、いきなりで悪いが……お前に特命が下った」
「特命、ですか?」
「ああ。今日からお前は『役員用社宅』の防犯および管理担当だ」
課長が重々しく読み上げたその『役員用社宅』とは、もちろん昨日から俺が住み始めたあの高級シェアハウスのことだ。
なるほど、篠宮さんが昨日の軍議で言っていた「会社へのカモフラージュ」とはこれか。総務部所属の俺が施設管理として派遣される形にすれば、俺があの家に出入りする理由として完璧に筋が通る。
だが、周囲の反応は俺の想定とは少し違っていた。
「えっ、相馬がお2人の家の管理を!?」
「なんでお前が……いや、待てよ。あの2人のプライベート空間の雑用って……お前、何やらかしたんだ?」
氷室社長も篠宮秘書も、社内では「氷のように冷徹な完璧主義者」として恐れられている。その2人の私生活圏に放り込まれるということは、当初の嫉妬から一転、同僚たちの目には「左遷に近い懲罰人事」と映ったらしい。
「ご愁傷様……。過労で倒れる前にちゃんと休めよ」
「ええ。ただの壁(防犯設備)として、命を燃やしてきます」
俺が悲壮感を漂わせて答えると――本人は至極真面目な『壁』宣言をしているだけなのだが――同僚たちは「理不尽な辞令に健気に従う哀れな社畜」を見る目で深く頷いた。
よし。社内での隠密設定、完璧だ。
――だが、本当の試練はここからだった。
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午後。俺は備品の補充という名目で社長室に呼ばれていた。
ガラス張りの広い社長室。完璧なスーツを着こなす氷室社長と、その傍らに静かに控える篠宮さん。
いつも通りの、完成された一枚の絵画のような光景。
俺がこの日常を守るために存在している――そう心に刻み直した矢先だった。
「相馬くん、ご苦労さま。実はね、昨日のうちにお爺様に報告しておいたわ」
社長が優雅にコーヒーカップを傾けながら、当然のように告げた。
「報告……とは?」
「『私にはすでに事実婚状態のパートナーがいるから、そっちで勝手に結婚相手を探す必要はない』って」
「展開が早すぎませんか!?」
心臓が跳ね上がる。
いや、冷静に考えれば、これは社長なりの先手だ。先に既成事実を作ってしまえば、前会長も動きにくくなる。攻めのディフェンス。この人らしいといえば、この人らしい。
だが、敵もまた迅速だった。
社長室の重厚なドアが、ノックもそこそこに開かれた。
「――ほう。その『事実婚のパートナー』とやらが、本当にお嬢様を支えるに足る器なのか。見極めさせていただきましょうか」
現れたのは、鋭い眼光を放つ初老の男。仕立ての良いスーツに、隙のない姿勢。前会長の側近――つまり、俺という存在の「裏付け調査」のために送り込まれた刺客だ。
「……お爺様の手の者ね」
氷室社長の声が、わずかに硬くなる。
側近は社長の言葉に応えず、無言のまま社長室を横切り始めた。
その進路は、明確だった。
氷室社長と、その隣に控える篠宮秘書。2人が作り出す完璧で静謐な空間の、真っ只中。
俺の脳内で、アラートが鳴った。
――正確に言えば、アラートなどという生易しいものではなかった。
百合センサーが捉えたのは、側近の革靴が床を踏むたびに、お2人の間に走る微細な緊張の波紋だった。社長の指先がかすかに強張り、篠宮さんの肩が0.3度だけ内側に入る。それは他人には絶対に感知できない、しかし俺の目には明確に映る「百合空間への侵食アラート」だった。
(お2人の間に――不純物が、挟まろうとしている)
俺の中で、何かのリミッターが弾け飛んだ。
ダンッ。
目にも留まらぬ速さで、俺は側近の目の前に滑り込んだ。お茶のトレイを下げる自然な動作の延長線上で、しかし完璧に側近の進路を塞ぐ位置に。
「……っ!?」
突然、視界を遮った俺に側近の足が止まる。
俺はトレイを脇に置き、背筋を伸ばした。
「うちの妻に、何か御用でしょうか」
自分でも驚くほど、低く、静かな声が出た。
「な、君は……」
「総務部の相馬と申します。そして――氷室凛花の、夫です」
「ふん。突然の事実婚など信じられるか。どうせ前会長からの結婚の圧力を躱すために雇われた、ただの盾だろう。そこをどきたまえ」
側近が俺の肩を掴み、強引に押しのけようとする。
俺は微動だにしなかった。
「ただの盾ではありません」
側近の手を静かに、しかし確実に払い落とす。
「彼女を守る『壁』です」
「……なに?」
「私は妻の全てを知っています。プレゼン前にネクタイの結び目を左に2ミリずらす癖も。秘書が淹れたコーヒーだけは二口目に必ず微笑むことも。だからこそ、外界のいかなる不純物にも、彼女の平穏を脅かすことは許しません」
俺は側近を見据えた。
この瞬間、俺の目に宿っているのは、2人の尊い空間を守るための絶対的な狂気だ。3年間、百合の観測に全身全霊を捧げてきた限界オタクの執念だ。
だが側近には、そんな事情など知る由もない。
彼の目に映ったのは、ただ一つ。
(この男の目……これほどの執念を、隠し持っていたとは。氷室社長の一挙手一投足を完璧に把握し、命すら投げ出す覚悟で傍に立っている。……ただの偽装で、ここまでの目はできん)
俺の圧倒的な『愛の重さ』――対象が百合であるという致命的な誤解はさておき――に気圧され、側近の革靴が半歩、後退った。
「……ふん。口だけではないようだな」
側近は忌々しそうに、しかし隠しきれない動揺を滲ませながら踵を返した。
「前会長には『本物』だと報告しておこう。――だが、覚えておけ。お嬢様の伴侶に相応しいかどうか、今後も我々は見ているぞ」
重厚なドアが閉まる。
ガラス張りの社長室を遠巻きに眺めていた一般社員たちには、防音設計のおかげで中の声は一切届いていない。彼らの目に映ったのは、「急な来客に対して素早くお茶を引き、社長を背にして毅然と立つ相馬」という映像だけだった。
「今日の相馬、やけに所作がキビキビしてたな」
「あいつ、社宅管理の辞令で覚醒したんじゃないか?」
的外れな評価が廊下に響く中、社長室では別の空気が流れていた。
「相馬くん……」
氷室社長が、わずかに潤んだ目で俺を見つめている。
「相馬くん。今のは……すごく、頼もしかったです」
篠宮さんが、両手を胸の前で組みながら、かすかに声を震わせて言った。
2人の頬に、淡い朱が差している。
だが――俺は、それどころではなかった。
側近を追い返した安堵が引いた瞬間、俺の百合センサーが、とんでもない事実を検出してしまったのだ。
(――待て)
俺は今、社長室のどこに立っている?
ゆっくりと、周囲を確認する。
右手に、氷室社長。左手に、篠宮さん。
俺は2人の正面に立ち、両手を広げるようにして側近をブロックしていた。つまり――
(俺自身が、お2人の間に挟まっている……!?)
膝から、力が抜けた。
ガクッ、と崩れ落ちる俺。
「相馬くん!? どうして急に崩れ……!」
「胃が痛いんですか……? あとでお薬出しますね」
お2人の聖域を守るために飛び出したはずが、結果として俺自身が最大の不純物になっていた。この矛盾。この背徳。壁が壁としての存在意義を自ら破壊するなど、万死に値する大罪ではないか。
俺がそんな百合的罪悪感に悶え苦しんでいるとは露知らず、お2人は心配そうに――しかしどこか嬉しそうに微笑みながら、俺の背中をそっと撫でてくれる。
(ああ、お2人の尊い手が、俺なんかの背中に……! その手は本来、お互いの髪を梳くためだけに存在するべき神聖な手なのに……!)
胃痛が加速する。
だが、息をつく暇すら与えてもらえなかった。
篠宮さんのスマホが、短く震えた。
画面を見た瞬間、篠宮さんの指先から温もりが消え、その顔からスッと血の気が引いていくのが分かった。
「……実家から、です」
声が、かすかに震えている。
「『今週末、そっちの様子を見に行くから』って」
氷室社長の目が鋭く細まり、無意識に篠宮さんの手を握りしめる。篠宮さんもまた、社長の手を握り返す。
2人の指が絡む、その切迫した力強さに、俺の百合センサーが悲鳴のようなアラートを上げた。
(前会長の次は、篠宮さんの実家……。敵は二正面から来る)
俺は胃を押さえながら、よろよろと立ち上がった。
壁は守るためにある。挟まるためじゃない。
――だが今この瞬間、俺に必要なのは、たとえ2人の間に挟まってでも、この百合を全力で守り抜くことだ。
次は「篠宮さんの婚約者」モードの準備。
長くて重い1日が、まだ終わる気配を見せなかった。
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※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!




