第3話 壁に穴は空かずとも、俺の胃にはすぐ穴が空きそうだ
氷室凛花が所有する、都内の高級マンション。
セキュリティは万全、コンシェルジュ付き。そんな雲の上のような物件の3LDKの一室に、今日から俺の生活拠点が移ることになった。
「ここが相馬くんの部屋ね。私たちより少し狭いけど、我慢してちょうだい」
案内された部屋は、確かに社長室や秘書室に比べればこぢんまりとしている。しかし、1人暮らしの平社員からすれば10分すぎる広さだった。
「それと、私の部屋の隣だから、壁は特注の防音材が入ってるの。私が夜中にゲーム配信のテストなんかをしても、絶対に聞こえないから安心して」
「――防音、ですか」
その言葉を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。
防音。それはつまり、お2人が醸し出す尊い生活音が、俺には一切届かなくなるということだ。一番近くでの「観測」を生きがいとしてきた俺にとって、それは致命的な宣告だった。
――いや、それでいい。
俺がここに呼ばれたのは、お2人の関係を理不尽な外敵から守るためだ。ただ見守るだけの観測者でいられる時間は、もう昨日で終わったのだ。
今日から俺は、2人の聖域を守り抜く真の『壁』になる。
「……素晴らしい」
「え?」
「感謝いたします! 俺は今日から、この部屋で完全な『壁』になります!」
あまりの感動に胸の前で両手を組んで祈る俺を見て、社長は少しだけ引いたような顔をしていた。
---
引っ越しの荷ほどきもそこそこに、時刻は夕食時を迎えていた。
リビングと一体になったアイランドキッチンでは、篠宮さんがエプロン姿で立っている。彼女が鶏肉に下味をつけているのを見て、俺の百合センサーが即座に反応した。
――からあげだ。
社内食堂で篠宮さんがからあげ弁当を持参した日だけ、社長の機嫌が目に見えて良くなる(歩くテンポが少しだけ弾む)ことを、俺の百合センサーは3年前に察知していた。
社長が世界で一番愛してやまない、篠宮澪の特製からあげ。お2人のソウルフードであり、決して他者が立ち入ってはいけない食卓の聖域である。
俺はリビングの隅に気配を消して立ち、その神聖な調理風景を拝もうとしていた。
しかし、ソファでくつろいでいた社長が、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを振り返った。
「ねえ、相馬くん」
「はい。壁に何か御用でしょうか」
「私の『夫』になるなら、家事力も見せてもらわないとね。どう? 澪のからあげを唸らせるような、最高の一品を作ってみせてよ」
「社長……!」
篠宮さんが慌てたように社長を咎める。「彼はお客さん(同居人)ですよ」と言いたげな、困惑した視線。
――なるほど。社長は俺を試しているのだ。
ただの言いなりになる案山子か、それともこの特異な共同生活において、役に立つ歯車になれるのか。
俺は何も言わず、無言で立ち上がった。
自前のエプロンを締め、篠宮さんの邪魔にならないよう、キッチンの端のスペースを借りる。
宣言など必要ない。俺がどのようなスタンスでこの生活に臨むか、行動で示すまでだ。
30分後。
ダイニングテーブルの主役に鎮座したのは、大皿に山と盛られた、きつね色に輝く篠宮さんのからあげ。
そしてその周囲を固めるように、俺が作った料理が並べられた。
「これは……」
篠宮さんが目を丸くする。
一粒一粒が立って艶を放つ、完璧な炊き加減の白米。
口の中の油をさっぱりと洗い流す、みょうがと胡瓜の梅肉和え。
そして、三つ葉の香りがふわりと立ち上る、出汁の効いたなめこの赤出汁。
「からあげのお供です。お口に合えば良いのですが」
多くは語らない。そう、俺は自ら勝負を降りたのだ。
メインディッシュ(2人の聖域)を奪うような出しゃばった真似はしない。俺はただ、2人の関係をより美味しく、より完璧なものにするための「サイドメニュー(壁)」に徹する。
「……ふふっ」
からあげを頬張り、続けて俺の赤出汁を一口飲んだ社長が、心底おかしそうに吹き出した。
「負けたわ。相馬くん、あなた本当に『わかってる』のね」
「恐縮です」
「ええ……本当に美味しい! なんだか、いつもの澪のからあげよりも美味しく感じるわ。お米の甘さやお味噌汁の出汁が、からあげの味を邪魔するどころか、二100%引き出してる……」
社長の言葉を聞いて、篠宮さんもからあげと白米を交互に口に運びながら、ほっとしたような、嬉しそうな笑顔を浮かべている。
その光景を見ながら、俺は心の中でガッツポーズをした。完璧だ。俺の壁としての初仕事は大成功と言っていい。
---
しかし、壁の矜持を守り抜く代償は、想像以上に大きかった。
「それじゃあ、明日から会社と親族に対してどう立ち回るか、具体的な『偽装』のすり合わせをしましょうか」
食後。リビングのテーブルに資料を広げ、篠宮さんがそう切り出した。
明日からの二重生活――会社では「ただの平社員と上司」、しかし互いの親族の監視の目がある時は「夫婦」として振る舞うための、重要な軍議である。
当然、俺は絶対に席を外せない。真剣にメモを取らなければ、一歩間違えれば社長の解任や、篠宮さんの望まないお見合いという最悪のバッドエンドに直結する。
だが、問題があった。
「ねえ澪ー、ちょっと髪乾かしてー」
「もう、凛花は本当に甘えん坊なんだから……。ちょっと待っててくださいね、相馬くん。今、ドライヤー持ってきますから」
――お2人が、完全にお風呂上がりのリラックスモードなのだ。
薄手のルームウェア。上気した白い肌。ほんのりと漂う、フローラルなシャンプーの香り。
俺の目の前のソファで、社長が篠宮さんの膝に頭を預け、篠宮さんが優しくその銀糸のような髪をドライヤーで梳いている。
「んん……澪の指、気持ちいい……」
「はいはい、動かないで。相馬くん、さっきの親族リストの件ですけど――」
「は、はいッ!」
地獄か。いや、天国か。
至近距離で発生する極上のてぇてぇ空間(物理)に、俺の理性のヒューズが今にも焼き切れそうになっていた。
見たい。この尊い光景を目に焼き付けたい。
だが、壁が主役たちを直視するなど言語道断。しかし席を立って自室に逃げるわけにもいかない。
(俺は観葉植物……光合成しかできない、ただの無機質な葉っぱ……)
俺は必死に自己暗示をかけ、気配を殺し、呼吸すらも浅く制限した。
視線を極限まで下げ、手元の親族リストの紙の繊維だけを見つめながら、相槌を打つ。
「……相馬くん? どうかしたの? 顔色が悪いわよ」
「い、いえ。ちょっと、胃が……」
「胃痛? あんなに美味しいご飯を作ってくれたのに、食べすぎかしら」
違う。俺の胃が痛いのは、この後光が差すような尊い空間で、必死に自分の存在を消そうと脳細胞をフル稼働させているからだ。
この生活があと何日、いや何ヶ月続くというのか。
明日からは会社で『ただの平社員』を装いつつ、裏ではこの恐ろしい重圧(二重の夫)を演じなきゃいけない。
防音の壁部屋を手に入れたというのに、俺の胃壁には、すぐそこにまで穴の危機が迫っていた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
「相馬の壁ムーブが面白い!」「ヒロイン達のすれ違いが尊い!」と少しでも楽しんでいただけましたら、
ぜひページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】を(★★★★★)にして評価で応援していただけると、作者のモチベーションが爆上がりします!
※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!




