第2話 俺は壁になりたかっただけなのに
――名前で、呼んでいた。
扉一枚を隔てた向こう側で、篠宮さんの声が聞こえている。いつもの「社長」でも「氷室社長」でもない。凛花。ファーストネーム。会社では絶対に使わない、2人だけの呼び方。
「……ねえ。本当に、私でいいの?」
「何言ってるの。私には、あなたしかいない」
……さっきから聞こえてくる会話の様子が、少しおかしい。
甘い雰囲気ではない。切羽詰まった、泣き出しそうな声だ。
「……さっきのお祖父様からの電話。今年中に結婚しろ、さもなくば解任するって」
「大丈夫よ、凛花。いつものことでしょう。あのジジイの脅しなんて」
「大丈夫じゃないでしょう。声、震えてる」
「……震えてない」
「震えてる。ほら」
衣擦れの音がした。たぶん、篠宮さんが社長の手を取ったのだと思う。
社長の、小さな吐息が聞こえた。
「……澪のところも、でしょう? お見合い、また」
「うん。お母さんから先週、三件まとめて写真が送られてきた。全部断ったけど、今度は親戚のおじさんが直接会社に来るって」
「――ごめん」
「謝らないで。私が凛花の隣にいたいから、いるの。凛花のせいじゃない」
長い沈黙が降りた。
その沈黙の中に、どれほどの感情が詰まっているか。2人がどれほどの時間をかけて、この関係を築いてきたか。俺には、痛いほどわかった。
3年間、見てきたから。
この2人が、どれほど互いを大切に思っているか。社長のデスクに置かれるコーヒーの温度で。会議中にだけ微かに同期する2人の呼吸のリズムで。退社時、篠宮さんが社長のコートの襟を直す、あのノールックの指先で。
全部、知っている。
だから――わかってしまった。
今、この扉の向こうで、2人の世界が壊されようとしている。
頭が、沸騰した。
気がついた時には、扉を開けていた。
「――失礼します」
社長室の照明は半分だけ点いていて、窓の外には東京の夜景が広がっていた。革張りのソファの上で、社長と篠宮さんが互いの手を握ったまま、こちらを見ていた。
社長の目が、微かに赤い。泣いていた。
篠宮さんの指が、社長の手を庇うように包んでいる。
2人の顔に、同時に緊張が走った。当然だ。誰にも見せたくなかった姿を、見られてしまったのだから。
「――誰?」
篠宮さんの声だった。冷静だが、その奥に刃物のような警戒が滲んでいる。
当然だ。名前も顔も知らない平社員が、夜の社長室に突然現れたのだから。
社長はソファから立ち上がり、いつもの「氷の女帝」の仮面を被り直そうとしている。けれど、目元の赤みは隠しきれていない。
俺は知っている。社長が泣いた後、平静を装う時は右手の薬指で左手首の内側を無意識に押さえる癖があることを。今まさに、その指が動いている。
帰れ。
見なかったことにしろ。
お前はただの平社員だ。名前すら知られていないただの壁だ。ここは聖域だ。踏み込んではいけない。
頭の中の冷静な自分が叫んでいる。
だが、俺の口は勝手に動いていた。
「総務部の相馬です。相馬悠真。――お2人の関係を、壊させません」
社長と篠宮さんが、同時に目を見開いた。
篠宮さんが怪訝な顔で呟いた。
「……総務の? ごめんなさい、存じ上げないのだけど……」
「はい。知られていないと思います。3年半、そのつもりでしたので」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
そして、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「入社してから千二百50日、俺はずっと見てきました。月曜の朝、篠宮さんが社長のデスクに活けるガーベラの色が、その週の社長のスケジュールの過密度に合わせて変わっていること。忙しい週はオレンジ、穏やかな週はピンク。社長がそれに気づいていないふりをして、でも毎回必ず花に向かって微笑むこと。あの微笑みの角度は左に3度、持続時間は平均1.7秒です」
「…………は?」
社長の口から、純粋な困惑が漏れた。
「社長には二種類の笑い方があります。取引先や社員の前で見せる公的な笑み――あれは口角の右側だけが上がる、計算された笑顔です。でも篠宮さんと2人きりの時だけ、両方の口角が上がって目尻に皺が寄る。子供みたいな、無防備な笑い方をする。社長が本当の顔を見せられるのは、この世界で篠宮さんの前だけなんです」
「あの、相馬くん、ちょっと」
篠宮さんが何か言いかけたが、俺の口はもう止まらなかった。
「それから、篠宮さんがストレスを抱えている日――外には絶対に出さない日でも、社長は必ず午後に『甘いものが食べたい』と言ってコンビニスイーツを二つ買ってくる。そして篠宮さんの好きなほうを『こっちハズレだった』と言って渡す。篠宮さんはそれが社長の嘘だと気づいていて、社長は篠宮さんが気づいていることに気づいている。2人とも知っていて、何も言わない。それが千二百50日、1度も崩れたことがない。こんな関係が、たかが古い価値観の圧力なんかで壊されていいはずがない!」
一息で言い切って、肩で息をした。
社長室が、完全な沈黙に包まれた。
夜景だけが、無言で瞬いている。
社長と篠宮さんは、互いの顔を見合わせた。
そして、ゆっくりと、俺に視線を戻した。
社長が口を開いた。
「……ねえ、澪」
「……ええ」
「今の、全部聞いてた?」
「聞いてました」
「二種類の笑い方とか」
「目尻に皺が寄る、だそうです」
「コンビニスイーツとか」
「『こっちハズレだった』、だそうです」
2人は再び顔を見合わせた。
「「気持ち悪い」」
ハモった。
完璧にハモった。
百合センサーが「尊いハモり」として記録しようとするのを、さすがの俺も理性で押さえ込んだ。いや待て、今のは普通に俺が引かれている場面だ。
「あの、ストーカーかしら……通報した方がいい?」
篠宮さんが、本気とも冗談ともつかない声で携帯に手を伸ばしかけている。
「い、いえ! 違います! 盗撮とか尾行とか一切してません! すべて業務時間内の、自然な観察の範囲で……」
「それを1250日続けてる時点で、自然の範囲ではないと思うのだけれど」
社長が腕を組んで、じっとこちらを見ている。氷の女帝の目だ。怖い。
「……でも」
篠宮さんが、ふと声のトーンを変えた。
警戒でも嫌悪でもない、何かを値踏みするような静かな声だった。
「相馬くん。あなた、さっき『壊させない』と言ったわね」
「……はい」
「私たちの関係がどういうものか、理解した上で?」
「はい。お2人は――互いを、愛しておられます。世界で一番、美しい関係です」
篠宮さんの目が、一瞬だけ揺れた。
たぶん、こんなふうに面と向かって肯定されたことが、今までなかったのだと思う。
「それで、あなたは具体的にどうするつもりなの? 『壊させない』なんて啖呵を切って」
社長が挑むような目で聞いてきた。
「具体的に、は……」
口ごもった。
壊させない。壊されてたまるか。その気持ちだけは本物だ。
だが――具体的にどうするか。そんなことは、一ミリも考えていなかった。
「……すみません。何も、考えてませんでした」
正直に言った。
社長室が、また沈黙に包まれた。今度の沈黙は、さっきとは種類が違う。単純に「こいつ大丈夫か?」という沈黙だ。
「……あなた、啖呵を切っておいてノープランなの?」
篠宮さんが、額に手を当てた。呆れている。完全に呆れている。
「いえ、あの、壁として……壁として何かしたいとは思って……」
「壁が何をしてくれるの?」
「…………」
返す言葉がなかった。壁は壁だ。ただ立っているだけだ。何の役にも立たない。
自分の無力さに、唇を噛んだ。
その時、社長が口を開いた。
「――ねえ」
ソファに深く腰掛けたまま、社長は足を組んで、こちらを見上げていた。
さっきまでの赤い目はもう消えている。代わりに浮かんでいるのは、何か面白いことを思いついた時の――あの、少年のような笑みだった。
「相馬くん、だっけ。あなた、独身よね?」
「は? え、はい。独身ですけど」
「彼女は?」
「いません。お2人のてぇてぇの観測が趣味なので、そんな暇は」
「……うん。最高ね」
社長が、パンと手を叩いた。
「あなた、私の夫にならない?」
脳が、フリーズした。
「……は?」
「お祖父様は私に『男と結婚しろ』と言っている。なら、適当な男を1人用意すればいい。それがあなたよ。事実婚のパートナーとして名乗り出てもらうの」
いや、ちょっと待ってください。話が飛びすぎている。
「あ、澪のほうもお願いね。澪の実家にはあなたが『澪の婚約者』として顔を出す。1人二役。どう? 面白いでしょう?」
面白いって何。俺の人生を何だと思ってるんですか。
篠宮さんが、少し考え込むように目を伏せた。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……凛花。一見無茶に聞こえるけれど、理には適っているわ」
「でしょう?」
「外部の人間をもう1人巻き込むリスクは冒せない。秘密を知る人間は、少なければ少ないほどいい。その点、この人は社内の人間で、私たちの関係を――気持ち悪いほど完璧に理解していて、なおかつ私たちに対して一切の下心がない」
篠宮さんが、俺に視線を向けた。
「……下心、ないわよね?」
「ありません! 断じて! お2人は俺にとって観測対象であり信仰の対象です!」
「……ほら。下心どころか、崇拝の対象になってるわ。これ以上安全な男、いないでしょう」
篠宮さんが社長に向かって言った。社長は声を殺して笑っている。
「あはは……うん、やっぱりこの子、面白い。絶対に退屈しないわ」
退屈しないって、俺はペットじゃないんですけど。
というか、壁になりたかっただけなのに、なんで夫の話になっているんだ。
「澪、あの書類出して」
「もう用意してあります」
篠宮さんが、どこからともなくクリアファイルを取り出した。
いや、早くない? 今この瞬間に決まった話じゃないの? なんでもう書類があるの?
「同居及び偽装パートナーシップに関する秘密保持契約書。全十二条。違反した場合の損害賠償条項付き」
篠宮さんが淡々と読み上げる。そのプロフェッショナルな手際に、俺の百合センサーが「仕事ができる妻、最高……」と反応しかけたが、今は黙れセンサー。
「ちょ、ちょっと待ってください。俺はお2人の関係を守る壁になりたかっただけで、別に同居とか」
「壁が家の外にいてどうするの? 壁は家の中にあるものでしょう?」
社長がにっこり笑って言った。
ぐうの音も出なかった。壁理論で返された。まさか自分の比喩に殺されるとは。
「それに、偽装は二重よ。私の祖父の前では私の夫、澪の実家に対しては澪の婚約者。1人で二役。できる?」
「二重!?」
「外部の人間をもう1人巻き込むリスクは冒せないもの。秘密を知る人間は、少なければ少ないほどいい」
篠宮さんが静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。
「あなたは社内の人間で、私たちの関係を完璧に理解していて、なおかつ私たちに対して一切の下心がない。……下心、ないわよね?」
「ありません! 断じて! お2人は俺にとって観測対象であり信仰の対象です!」
「……ほら、凛花。下心どころか、崇拝の対象になってるわ。これ以上安全な男、いないでしょう」
篠宮さんが社長に向かって言った。社長は声を殺して笑っている。
「あはは……うん、わかった。この子、面白い。絶対に退屈しないわ」
退屈しないって、俺はペットじゃないんですけど。
気がつけば、ボールペンを握らされていた。
契約書の署名欄が、白く俺を見つめている。
「……あの、一応確認なんですが」
「何?」
「俺はお2人の関係を守るために署名するんですよね? お2人の尊い百合空間を、外敵から防衛するための壁として」
「ええ、そうよ」
「壁よ。最高の壁になってちょうだい」
2人が同時に頷いた。
その頷きのタイミングが完璧に一致していて、俺の百合センサーが今日最後の悲鳴を上げた。
――尊い。
この尊さを守れるなら、胃の一つや二つ、安いものだ。
俺はペンを走らせた。
相馬悠真、と。
これが、俺の人生で最も胃が痛い日々の始まりだった。
――そして同時に、俺が「壁」でいられた最後の日だったことを、この時の俺はまだ知らない。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!




