第1話 壁に耳あり、さらに目もある。〜完璧すぎる社長と秘書の秘密〜
午後二時のオフィスは、いつも通りの退屈な静寂に包まれている。キーボードを叩く音、コピー機の唸り、どこかの島から漏れる欠伸。
そんな凡庸な午後の中で――俺の視界だけが、今、炎に包まれていた。
社長室のガラス越しに見える光景。
白銀の髪をさらりと揺らした我が社の社長・氷室凛花が、デスクの上でボールペンを器用に回しながら、何やら楽しそうに喋っている。唇の動きから察するに、また突拍子もない企画を思いついたのだろう。あの人は頭の回転が速すぎて、たまに周回遅れの未来から帰ってきたみたいなことを言い出す。
社員の大半は「氷の女帝」と呼んで畏れているが、あれは違う。氷じゃない。炎だ。退屈が嫌いで、面白いことに目がないだけの、どこまでも自由な人だ。
そしてその隣に立つのが、秘書の篠宮澪。
黒髪をきっちりとまとめた彼女は、呆れたように――けれどどこか嬉しそうに小さく笑いながら、社長のデスクにそっとコーヒーカップを置いた。
湯気の立ち方からして、温度は62度前後。篠宮さんは社長が「猫舌だけど温いのは嫌」というワガママに対して、常にこの絶妙な温度帯を狙い撃ちにしてくる。もう3年間、1度もブレたことがない。
――俺の脳内で、警報が鳴った。
社長がカップに手を伸ばす。その瞬間、篠宮さんが決裁書類のバインダーを差し出す。2人の指先が、書類の端でほんの零コンマ1秒だけ触れ合った。
社長の瞳孔が、微かに収縮した。嬉しい時の反応だ。
篠宮さんの睫毛が、1度だけ長く伏せられた。照れを隠す時の癖だ。
尊い。
尊すぎる。
俺は自分のデスクで報告書のふりをしたExcelファイルを凝視しながら、心の中で正座した。
ありがとうございます。本日も最高の「てぇてぇ」を拝見いたしました。氷室社長×篠宮秘書、略してひむしの。本日の尊みスコア、98点。マイナス2点は、ガラス越しで音声が拾えなかったことに対する自分への減点です。
――と、ここまで聞いて「こいつヤバいな」と思っただろうか。
正解だ。俺は確かにヤバい。
名前は相馬悠真。この会社の、どこにでもいる平社員。特技は存在感を消すことと、半径20メートル以内の百合の気配を探知すること。
そして俺は今日も、この世界で最も尊い2人の関係を、誰にも気づかれることなく、静かに、敬虔に、観測し続けている。
壁として。
ただの、透明な壁として。
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午後三時。フロアの空気が少し緩む時間帯。
給湯室にコーヒーを取りに行った帰り、廊下の角を曲がったところで、俺は足を止めた。
前方15メートル。社長と篠宮さんが並んで歩いている。会議室から社長室へ戻る途中だろう。
2人の歩幅が、完璧に同期していた。
これは意識して合わせているのではない。3年間の観測データが証明している。あの2人は無意識のうちに、互いの歩調を合わせてしまう。先月の株主総会後の廊下でも計測したが、歩幅の同期率は97.3%だった。
と、その時だ。
社長のブラウスの襟が、ほんの数ミリだけ折れていた。たぶん会議中に手で触った拍子だろう。
篠宮さんが、すれ違いざまに右手をすっと伸ばした。視線は正面を向いたまま、一切の迷いなく、ノールックで社長の襟を直した。
零コンマ3秒。
社長は何も言わなかった。気づいてすらいないかもしれない。篠宮さんも、何事もなかったかのように歩き続けた。
――駄目だ。死ぬ。尊さで死ぬ。
俺は廊下の壁に背中をつけて、声を殺して悶えた。あれは篠宮さんの視界の端で社長の襟元を常時モニタリングしていなければ絶対に不可能な精度だ。潜在意識のレベルで、常に、社長を見ている。見守っている。
これを愛と呼ばずして、何と呼ぶのか。
「相馬、どうした? 腹でも痛いのか?」
背後から声をかけられて飛び上がった。振り返ると、同期の田中が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「い、いや、何でもない。ちょっと立ちくらみで」
「お前、最近やたら廊下でぼーっとしてること多くない? 大丈夫か」
「大丈夫大丈夫。問題ない」
「ふうん……あ、そうだ。さっき廊下で社長と篠宮さんとすれ違ったんだけどさ」
心臓が跳ねた。
「あの2人って、やっぱ仲いいよな。ほら、秘書だからってのもあるんだろうけど、なんか距離感っていうか、空気がさ」
「――何が言いたい?」
自分でも驚くくらい低い声が出た。
田中が目を丸くしている。しまった。平常心、平常心だ。
「いや、何って、ただ仲良いなって。お前、怖いな急に」
「すまん。ちょっと寝不足で。うん、仲いいよな。上司と部下の理想的な信頼関係だな」
理想的な信頼関係。
違う。そんな言葉じゃ足りない。あの2人の間にあるのは、信頼関係なんて生ぬるいものじゃない。もっと深い、もっと根源的な――。
だが、それを口にすることはできない。
俺はただの壁だ。観測者だ。2人の聖域に名前をつける権利は、俺にはない。
「じゃあな、田中。俺、まだ仕事あるから」
「おう、無理すんなよ」
田中が去っていく。
俺はもう1度だけ、2人が消えた廊下の先を見つめた。
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その日の夜。時刻は午後九時を回っていた。
フロアには俺1人。月末の報告書という名の苦行がようやく片付き、最後の書類を社長室に届けるだけで今日のミッションは完了だ。
足音を殺して廊下を歩く。別に殺す必要はないのだが、夜の社長室付近は「聖域」だ。万が一にも、社長と篠宮さんの残業中の空気を乱すわけにはいかない。
――社長室の扉の向こうから、声が漏れていた。
いつもと、違う声だった。
「……ねえ。本当に、私でいいの?」
「何言ってるの。私には、あなたしかいない」
低く甘い、切羽詰まったような社長の声。
それを優しく包み込むような、篠宮さんの声。
俺は廊下で凍りついていた。手の中の書類が、微かに震えている。
聞いてはいけないものを聞いてしまった。頭ではそう理解している。だが、足が動かない。
そして、篠宮さんが言った。
いつもの凛とした声ではなく、かすれた、小さな声で。
「……凛花」
――名前で呼んでいた。
会社では絶対に使わない、2人きりの呼び方だ。
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※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!




