第10話 完璧な和音と、遠き弟子の悲鳴
あの修羅場が、嘘のようだった。
出社した俺の足取りは、ここ数日で最も軽い。昨晩の超回復のおかげだ。至近距離で浴びた【極上百合波動】による細胞レベルの再生――医学的根拠は皆無だが、百合に不可能はない。
何より嬉しいのは、今朝のシェアハウスの空気だった。目覚めた時、社長と篠宮さんは穏やかに手を繋いだまま眠っていた。あの光景を思い出すだけで、俺の百合センサーは充足のアラートを鳴らし続けている。
(お2人の絆は、あの修羅場を経て、完全に修復された。いや――修復どころか、より強固に、より純度の高い次元へと昇華したのだ……!)
口元が緩むのを抑えられないまま、シェアハウスの廊下をリビングへと歩いていた。
その時だった。
「おはよう、悠真」
リビングの入り口から、涼やかな声。
顔を上げると、すっかり身支度を整えた氷室社長が、柔らかく微笑みながら立っている。
――悠真。
昨日の朝。この呼び方は、シェアハウスを戦場に変えた。篠宮さんの手からお玉が滑り落ち、空気が氷点下まで急降下した、あの一言だ。
俺は反射的に身構えた。背後で篠宮さんの殺気がエプロンの裾を引きちぎる音が聞こえるのではないかと、全身の毛穴が開く。
だが。
「悠真くん、おはようございます」
背後から聞こえたのは、澄んだアルトの声。
振り向くと、エプロン姿の篠宮さんが、穏やかに――本当に穏やかに、微笑んでいた。
「ネクタイが少し曲がっていますよ。直しますね」
篠宮さんの細い指が、俺のネクタイの結び目にそっと触れる。
その所作には、昨日のような殺意も、ギリギリと軋む嫉妬も、微塵もなかった。まるで毎朝こうしているかのような、ごく自然な手つき。
(――『悠真くん』。なるほど、今日のカモフラージュ演習は篠宮さんが仕掛けてくるのか)
昨日の朝、社長の不意打ちに対して『凛花さん』とカウンターを返した時の感覚を呼び起こす。
壁として、この高度なアットホーム空間の演出に完璧に応えなければ。
俺は一切の照れもなく、自然なトーンで返した。
「ありがとう、澪」
ぴくり、と。
ネクタイを直す篠宮さんの指先が、微かに跳ねた。至近距離で見つめる彼女の白い頬に、ふわりと桜色の熱が差す。
しかし篠宮さんは、昨日のように感情を爆発させることはなかった。甘い吐息を一つだけこぼし、静かに微笑みを深める。
そして、何より俺の百合センサーを震わせたのは、次の瞬間だった。
ネクタイを直し終えた篠宮さんが、すっと視線を上げる。その先は、俺ではない。
リビングに立つ、氷室社長。
2人の視線が、俺を挟んで交差した。
ふふっ、と。
氷室社長が小さく笑い、篠宮さんがかすかに口元を綻ばせる。そこに火花はない。嫉妬もない。あるのは、互いを深く信頼し、何かを『共有』している者だけが交わせる、穏やかで確かな微笑みだった。
(す、凄まじいシンクロ率だ……!)
俺は内心で感動に打ち震えた。
(昨日の修羅場を乗り越え、お2人の絆は新たな次元へと昇華している……! あの名前呼びの件も、一夜にして『共有』に昇格させてしまうとは……。これが極上百合カップルの危機対応力か……!)
涙が出そうだった。
壁として、これ以上嬉しいことがあるだろうか。俺が倒れたことで百合に亀裂が入ったのではないかという恐怖は、完全に杞憂だったのだ。
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そして出社後。
異変は、午前の業務中にも本格化した。
デスクで発注書をまとめていると、右側から高級なフローラルの香りが近づいてきた。
「相馬。この書類、ちょっと見てくれる?」
氷室社長が、わざわざ社長室から出て俺のデスクに立っている。手元の書類を差し出すふりをしながら、ぐっと身を屈めてくる。肩が触れそうな距離。社長の銀糸のような髪が、俺の腕をかすめた。
(し、社長の距離が近い……! これは昨日と同じ構図だ……!)
昨日なら、ここで篠宮さんが鷹のような足音と共に急襲し、社長との間に割り込んで修羅場が勃発していた。
果たして、篠宮さんは現れた。
だが――。
「失礼します。相馬くん、お茶をお持ちしました」
左側から、静かに。
篠宮さんは社長と俺の間に割り込むのではなく、俺の反対側にすっと回り込み、完璧な左右対称の位置に立った。湯気の立つカップを俺のデスクの端にそっと置く。その動きは、社長の存在を妨げるどころか、まるで申し合わせたかのように社長の立ち位置を補完している。
火花が、散らない。
右に氷室社長。左に篠宮さん。2人は俺を挟んで、恐ろしいほど息の合った角度で書類を覗き込んでいる。昨日と全く同じ構図。なのに、空気がまるで違う。
俺の百合センサーが、かつてない種類のシグナルを受信していた。
昨日のようなトゲトゲしい不協和音ではない。二つの波動が寸分の狂いもなく同期し、ぴったりと重なり合った、純度100%の――和音。
(な、なんだこの完璧なハーモニーは……!?)
解析エンジンがフル稼働する。
(なるほど……! これは前会長の監視網や外部からのハニートラップに向けた、高度な耐性演習か! 昨日のような張り合いで俺を試すフェーズは終了し、今日は2人で息を合わせて『どんな極上の誘惑にも動じない完璧な壁(夫)』を作り上げようとしているんだ……! 妻である社長と、美貌の秘書が左右から迫っても微動だにしない男。それを見せつけることで『外部からの縁談や誘惑は一切通用しない』とアピールする完璧な連携プレイ……! さすがはお2人、危機管理のプロ意識が桁違いだッ……!)
ならば俺がすべきことは一つ。
この完璧なカモフラージュの「中心軸」として、一切動じない鉄壁の壁であること。
俺は左右から密着してくる極上の香りと体温に心臓を鷲掴みにされながらも、スパイ映画のシークレットサービスのような無表情を組み上げ、完璧な所作で書類に目を通した。
「この項目は問題ありません、社長。篠宮さん、お茶ありがとうございます」
一切の照れもブレもない。ただの有能な壁としての対応。
しかし、この「完璧に動じない男」という予想外のリアクションが、左右の2人に別種の衝撃を与えていたことに、俺は当然気づいていない。
右で、氷室社長が頬をほんのり染めながら唇を噛んでいる。
左で、篠宮さんの睫毛が1度だけ長く伏せられた。
「……相馬って、あんなに色気のある顔してたっけ?」
「ていうか社長と秘書に挟まれてポーカーフェイスってどういう神経してんの……」
総務部フロアのざわめきは、もはやどよめきに変わっていた。
だが、2人の視線が再び俺の頭上で交差していたことに、俺も同僚たちも気づいていない。
そこに宿る感情を翻訳するなら、それはおそらく――
『やっぱり、この人を逃がしてはいけない』
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そして昼休み。
決定的な包囲は、人目のない第三会議室で完成した。
「悠真、こっちこっち」
「悠真くん、お待ちしていました」
2人に呼び出された俺が会議室のドアを開けると、長テーブルの上に、信じられない光景が広がっていた。
篠宮さんの手作り弁当。彩り豊かな副菜に、主役の唐揚げ、そして丁寧に握られたおにぎり。
その隣に、氷室社長が調達してきたであろう高級パティスリーの小箱。マカロンとクレームブリュレが、宝石のように並んでいる。
二つの『愛』が、一つのコースとして、俺の席の前に整然と並べられていた。
昨日の昼休みが脳裏をよぎる。
あの時は、『どちらの料理を先に食べるか』という踏み絵を突きつけられ、俺の胃は地獄の業火に焼かれた。だが今日は違う。篠宮さんの手作りがメインディッシュ、社長のスイーツがデザート。役割が完璧に分担され、一つの食卓として統合されている。競争の余地は、ミクロン単位で存在しなかった。
(なんという美しい協力体制……! 妻である社長と、その最も信頼する秘書が一体となって『絶対に綻びを見せない完璧なアットホーム空間』を演出している……! 前会長や篠宮家の急襲に備え、どんな角度から見られても『付け入る隙のない円満な食卓』を構築する、お2人の鉄壁の危機管理能力……!)
「さあ、悠真。今日は食欲あるでしょう? 昨日ろくに食べてなかったんだから」
社長が椅子をぽんぽんと叩く。
「遠慮なく召し上がってくださいね、悠真くん。今日は2人で用意したものですから」
篠宮さんが穏やかに微笑む。
俺は着席した。感動で箸を取る手が震えそうになるのを堪える。
だが、真の試練はここからだった。
「はい、悠真。あーん」
目の前に、社長が箸で摘んだ唐揚げが差し出された。
きつね色に輝く、篠宮さん謹製の唐揚げ。あの聖域の主菜が、社長の手を経由して、俺の口元に。
「…………は?」
「ほら、口開けて。せっかく澪が朝から揚げてくれたんだから」
言葉を失っている俺の反対側からも、篠宮さんの箸が伸びてきた。
「悠真くん、こちらもどうぞ。あーん」
ふわふわの、黄金色の卵焼き。ほんのり甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
左右から同時に『あーん』を迫られた俺の脳内で、百合センサーが爆発的な演算を開始した。
(こ、これは……ッ!!)
処理速度が追いつかない。しかし、解析エンジンは確実に一つの結論を弾き出していた。
(俺というフィルター(壁)を通した、究極の間接百合……ッ! 『相手が作った料理を、壁の口を経由して味わう』という前代未聞の超高度百合食事儀礼! 尊い……尊すぎるッ……!!!)
俺は震える理性を総動員した。
今ここで照れたり狼狽えたりすれば、このカモフラージュ演習の精度を台無しにする。壁は、どんな極限状況でも微動だにしてはならない。
まず右。社長が差し出す唐揚げを、一切の躊躇なく真顔で口に含んだ。
次に左。篠宮さんが差し出す卵焼きを、同じ温度の無表情で受け入れた。
咀嚼。嚥下。
俺は2人の目を真っ直ぐに見て、はっきりと告げた。
「……どちらも、至高の味わいです。お2人の愛の結晶、確かにいただきました」
沈黙が落ちた。
それから、2人が同時にふっと息を漏らした。
「……悠真って、本当にブレないわね」
社長が呆れたような、けれどどこか嬉しそうな声で呟く。
「ええ。この鈍感さだけは、天才的ですね」
篠宮さんが静かに同意する。
2人の目が合い、また、あの穏やかな共犯者の微笑みが交わされた。
(ああ……やはり。このお2人の関係は、あの修羅場を経て、一段階上のステージへと到達したのだ……! 俺が壁として間に挟まったことで、逆にお2人の百合が強化されるという、逆説的な進化……。これこそが壁の究極の存在意義だ……!)
俺の目から、一筋の感動の涙がこぼれ落ちた。
――だが俺はまだ知らない。
2人の『ブレない』『鈍感』という言葉の裏に、『だからこそ、もっと深く囲い込まなければ』という共通の決意が込められていたことを。
---
定時を過ぎた夕暮れのオフィス。
同僚たちが次々と退社していく中、俺は静かな充足感に包まれていた。
今日1日の百合センサーの受信記録を振り返る。終日にわたって、純粋な『和音』で満たされている。昨日の不協和音が嘘のようだ。
(壁としてこれほど穏やかな1日は、同居を始めて以来、初めてかもしれないな……)
デスクの上を片付けながら、今夜のことを思い描く。
篠宮さんの手料理と、俺の味噌汁と、社長が嬉しそうにマグカップを両手で包む、あの温かい食卓。三つのマグカップが並ぶ、あのキッチン。
完璧な百合空間の隅で、壁として静かに存在できる、あの幸福。
帰ろう。
カバンに手を伸ばした、その時だった。
ぞわり、と。
全身の産毛が、一斉に逆立った。
(――っ!?)
反射的に意識を研ぎ澄ませる。
百合センサーが、受信モードに切り替わっていた。
だが――おかしい。
この波動は、シェアハウスの方角からではない。もっと遠い。はるか遠方から、微かに、しかし確実に届いている。弱々しく、途切れそうな信号。
(この波長……)
重く、冷たく、絞り出すような――。
これは怒りではない。嫉妬でもない。俺がこれまで受信してきたどの百合の波動とも、根本的に性質が違っていた。
純度の高い百合の花が、自らの茎を折ろうとしている。
希望を手放す直前の、静かな諦め。
(……まさか)
俺はこの波長を知っている。
水族館のクラゲエリアで、壁を隔てた60メートル先から遠隔受信した、あの圧倒的な密度のシスコン百合のシグナル。
雫さんだ。
その瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
LINE。送信者――篠宮雫。
メッセージは、たった一行だった。
『師匠……お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします』
短い。
あまりにも短い。
いつもの雫さんなら、『師匠!!! 』と三つの感嘆符付きで呼びかけ、百合への忠誠を滔々と語り、最後にビシッと敬礼の絵文字を付けて締めるはずだ。
この一行には、そのどれもがない。
代わりに滲んでいるのは、壁の同志としての熱狂ではなく、静かで決定的な――諦め。
俺は即座に通話ボタンを押した。
コール音。1回。2回。3回。
出ない。
4回。5回。
出ない。
『おかけになった電話は――』
自動音声が流れた瞬間、俺は通話を切った。
デスクに置いた拳が、小さく震えている。
考えろ、相馬悠真。
雫さんが初めてシェアハウスに来たあの日。彼女は姉のために実家の縁談を裏で潰してくれた。だがあの時、俺は一つの可能性を見落としていた。
実家にとって、優秀な姉が『使えない』なら――次に差し出されるのは、誰だ。
(雫さんが……姉の身代わりに……?)
百合センサーが受信しているあの波動のパターンが、答えを告げていた。
これは『師匠に助けを求める弟子』の信号ではない。
『自分が犠牲になることで、姉の百合空間を最後に守ろうとしている者』が発する、決別の波動だ。
俺の中で、ただの傍観者でいられる余裕が消え去り、壁としての絶対防衛本能が臨界点を突破した。
(馬鹿野郎)
百合は、自己犠牲で守るものじゃない。
それは俺が――壁として生きる俺が、誰よりも知っていることだ。
壁は、守った先にある空間が幸せでなければ意味がない。姉の百合空間を守るために妹が砕けたら、その百合空間そのものが死ぬ。
(待ってろ、雫)
俺はスマホを握りしめたまま、デスクの引き出しからカバンを引っ掴んだ。
百合を守る壁は、同志の百合が砕けるのを黙って見ていることだけは、絶対にできない。
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