第11話 壁は百合のために一つ壁を越える。越えた先にある絶壁
定時後のオフィスを飛び出した俺は、大通りでタクシーを拾い、スマホの画面を睨みつけていた。
(雫さんの現在地は……正確な場所まではわからないが、強烈な波動が来る方角は都心部。距離は数キロといったところか!)
俺の脳内に直接響く、百合センサーが捉えた波動のコンパスだ。
これまでの俺のセンサーの最大探知半径は、水族館で記録した約60メートルだった。それが今、数キロメートル以上離れた都心部から発せられる雫さんの微弱な波動の「方角」と「距離」を、ノイズ一つなく鮮明に捉えている。
理屈はわからない。だが、心当たりはたった一つしかなかった。
(シェアハウスで、社長と篠宮さんの純度100%の【極上百合波動】を毎日至近距離で浴び続けた結果……俺の百合センサーは、都市全域をカバーする『広域百合レーダー』へと強制アップデートされていたのか……!)
恐るべき恩恵だ。だが、今はそのチート性能に感謝するしかない。
レーダーが受信している雫さんの波動は、刻一刻と弱まりつつあった。姉の百合空間を守るため、見知らぬ男との政略結婚を受け入れ、己の感情(百合)を殺そうとしている『諦め』の波長。
(ふざけるな。そんな自己犠牲の灰の上に成り立つ平穏なんて、あの極上の百合カップルが望むわけがないだろうが……ッ!)
タクシーの窓ガラスに映る俺の顔は、かつてないほど険しかった。
壁として、絶対に許せないことがある。
それは、尊き百合の花が、理不尽な外圧によってその意思を曲げられ、散らされることだ。
「運転手さん、まずは都心方面へ! そこから先は俺が道案内します!」
タクシーに飛び乗るなり一万円札を叩きつけ、俺は百合のコンパスだけを頼りに夜の街を駆け抜けた。
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波動の強さを頼りに辿り着いたのは、都内の高級ホテル『グランシャトー東京』。
その最上階の料亭フロア。高級感あふれる静謐な廊下の奥、もっとも広い個室『松の間』の前に、黒スーツの屈強な男たち(SP)が数名、油断なく立っていた。
俺はネクタイを緩め、乱れた息を深く、長く吐き出した。
そして、静かに目を閉じる。
障子の向こう側から漏れ出してくる、か細く震えるような絶望の波長。
姉の幸せのために自分を殺そうとする、哀しくも純度の高いシスコン百合の波動。
それを全身で浴びた瞬間、俺の奥底で『壁』としての本能が爆発的に熱を持った。
尊き百合を理不尽に踏みにじろうとする外圧への、純粋な怒り。
悲痛なエネルギーが俺の中で共鳴し、目に見えない強烈な威圧感となって全身から噴き出す。
――【ユリ・レゾナンス・プレッシャー(百合波動・共鳴威圧)】、出力最大。
「な、なんだお前は! ここは貸し切り――」
制止しようと手を伸ばしてきたSPの1人が、俺の目を見た瞬間、ビクッと肩を震わせて言葉を失った。
俺が纏う、常軌を逸した威圧感。それは、ただの平社員が放つものではない。『至高の百合を守る絶対防衛の壁』としての、狂気的なまでの覚悟の具現化だ。
「どけ」
低く、地を這うような俺の声に、屈強なSPたちが気圧されて道を空ける。
俺は一切の躊躇なく、高級な襖を力任せに引き開けた。
パーンッ! と、乾いた音が室内に響き渡る。
「な、何事だ!」
「誰だ君は!」
上座に座っていた初老の男――おそらく見合い相手の資産家――と、雫さんの両親らしき人物が立ち上がる。
だが、俺の視線は一直線に、部屋の隅でうつむいている女性へと向かっていた。
豪奢な振袖を着せられ、両手を膝の上で固く握りしめている雫さん。
取り上げられたのか、彼女の手元にスマホはない。姉への想いを断ち切るように、無理やり作り笑いを浮かべようとしていた彼女の瞳が、俺を見て大きく見開かれた。
「し、師匠……!?」
俺は周囲の怒号を完全に無視し、ずかずかと土足で畳に上がり込み、雫さんの前へと歩み寄った。
「君という奴は……本当に、出来の悪い弟子だ」
俺は、震える雫さんを見下ろして、静かに、だがはっきりと告げた。
「お姉ちゃんの幸せのために、自分が犠牲になる? それで2人が末長く幸せに暮らせる? ……笑わせるな」
俺の言葉に、見合い相手の男が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「おい! つまみ出せ! 一体この男は何なんだ!」
「篠宮澪の婚約者だ。将来の義理の妹の教育的指導中だ、黙っていろ」
俺が一瞥して凄むと、男はヒッと短い悲鳴を上げて後ずさった。
俺は再び雫さんに向き直る。
「よく聞け、雫。守るべき花(妹)の犠牲の上に成り立つ壁など、ただの不良品だ! 姉の百合を守るために妹が砕けたら、その百合空間そのものが死ぬ。そんな簡単なこともわからないのか!」
「師匠……でも、わたしが、実家のために、誰かと……」
「させない。俺は、全ての百合を根絶やしにさせない、絶対防衛の壁だ!! 君の百合も、お2人の百合も、俺という一枚の壁がまとめて守り抜いてみせる!」
俺は雫さんの肩を強く掴み、熱い説教(壁ポエム)をぶちかました。
部屋の中は、俺の放つ異常な熱量と威圧感に完全に呑まれ、誰も言葉を発することができなかった。
雫さんの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
彼女は、俺の言葉に打たれたように、じっと俺の顔を見つめていた。
(よし……! 雫さんの目から、あの諦めの色が消えた。これで百合の崩壊は防げる!)
俺は内心でガッツポーズをした。
だが、俺の百合センサーが、突如として『異常』を知らせるアラートを鳴らし始めた。
トプン、と。
雫さんの瞳の奥で、何かが劇的に変質する音がした。
「……師匠」
雫さんの頬が、みるみるうちに林檎のように赤く染まっていく。
俺を見つめるその視線は、姉の幸せを願う自己犠牲の少女のものでも、同志を見る弟子のそれですらなかった。
熱を帯び、潤んだ瞳。すべてを投げ打って助けに来てくれた『ヒーロー(あるいは神)』を見上げるような、甘く、狂信的な光。
(……え? 雫さん?)
その瞬間だった。
スゥゥゥゥ……ッ。
俺の全身から噴き出していた圧倒的な威圧感が、嘘のように霧散した。
体内を巡っていた無限のエネルギーが、コンセントを抜かれた家電のように急停止する。
(な、なんだ!? パワーが……出ない!?)
俺は焦って解析エンジンを回す。
原因は1秒で判明した。エネルギー源の喪失だ。
俺の威圧感は、雫さんの『姉を想う強烈な百合波動』を受信し、変換することで成立していた。
だが今、雫さんの意識は完全に『相馬悠真(という壁の神)』に向いており、姉へのシスコン波動が一時的に出力ゼロになってしまったのだ!
(う、嘘だろ……! ここで百合の供給が途絶えるのか!?)
威圧感が消え去り、猫背気味のただの平社員に戻ってしまった俺の背中に、嫌な汗が滝のように流れる。
「……なんだ、こいつ。さっきまでの威勢はどうした」
俺のオーラが消えたことに気づいた見合い相手の資産家が、息を吹き返したように立ち上がり、残忍な笑みを浮かべた。
「おい、やっちまえ! そいつの脚をへし折ってつまみ出せ!」
「はっ!」
背後から、先ほどまで俺に気圧されていた屈強なSPたちが、ボキボキと指の関節を鳴らしながら一斉に迫ってくる。
俺はただの、総務部所属の非力な平社員だ。百合の加護がなければ、腕立て伏せすら20回が限界の男である。
(ま、待ってくれ! 雫さん、お願いだから今だけはお姉ちゃんのことを強烈に想ってくれーッ!!)
心の中で絶叫する俺の首根っこを、SPの丸太のような太い腕がガシッと掴んだ。
絶体絶命。
絶対防衛の壁は、無残にも崩れ去ろうとしていた。
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