第18話 壁にだって穴は空く(後編)
――熱い。息が、苦しい。
深い泥の底に沈んでいたような意識が、ゆっくりと浮上してくる。
体中が鉛のように重く、関節という関節がひどく軋んでいた。胃の奥底には、焼け焦げたような鈍い痛みがこびりついている。
(俺は……本家から帰ってきて……)
重い瞼をこじ開けると、そこには見慣れた自室の天井があった。
俺はシェアハウスの自分の部屋のベッドで、仰向けに寝かされているらしかった。
だが、何かが決定的に「普段の自室」とは違っていた。
「……っ……」
「……悠真くん……」
耳元で、ひび割れたような微かな嗚咽が聞こえた。
視線を落とすと、俺のベッドの両脇に、信じられない光景が広がっていた。
右側の床に膝をつき、両手で俺の右手を握りしめて額を擦り付けている氷室社長。
左側のベッドの縁にすがりつくようにして、俺の左手を両手で包み込んでいる篠宮さん。
2人の目元は酷く赤く腫れ上がり、普段の隙のない「氷の女帝」や「完璧超人な秘書」としての姿は見る影もなかった。
「……どう、して」
掠れた声が、喉の奥から漏れた。
そのかすかな音に、2人が弾かれたように顔を上げる。
「悠真……!?」
「悠真くん! ああ、よかった……っ!」
2人の瞳から、せき止められていた大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロとこぼれ落ちた。
俺の心臓が、跳ね上がった。
俺のせいで、お2人が泣いている。至高の百合空間に、「悲しみ」という最悪のノイズを混入させてしまったのだ。しかも、あろうことか、防犯と雑用を担当するただの平社員(壁)である俺自身の体調不良によって。
(万死に値する……! これ以上、俺という不純物がお2人の視界を占領するわけには……!)
「申し訳、ありません……。ただの防犯担当が、壁としての役割を放棄して倒れるなど……」
俺は全身の痛みに耐えながら、無理やり上半身を起こした。
そして、いつものように気配を消し、『無害で優秀な壁』としての、胡散臭いほどに穏やかな笑みを顔に貼り付けようとした。
だが、頬の筋肉が強張って、上手く笑えない。
「俺はただの壁ですから、どうかお気になさらず……。さあ、お2人の尊いお時間を、俺なんかのために……」
「ふざけないでッ!!」
空気を切り裂くような、社長の悲痛な叫びだった。
バンッ、と。社長がベッドの上に乗り上げ、俺の胸ぐらを両手で強く――しかし、どこか震える力のない手で――掴みかかってきた。
「壁、壁、壁って……! あなたが壁だから何だっていうのよ! 私たち、あなたのその言葉に甘えて、あなたを限界まですり減らして……っ」
社長の大きな瞳から、涙が止めどなく溢れ出し、俺の胸元に落ちていく。
その涙の熱さに、俺は息を呑んだ。
「壁なんて、もうどうでもいい……! 私が欲しいのは……ただの防犯担当じゃない。悠真、あなたなのよ……っ!」
社長が、泣き崩れるように俺の胸に額を押し付けてきた。
頭が真っ白になった。
なんだこれは。どういう状況だ。お2人は今、何を言っているんだ。
「待っ……社長……っ」
逃げようと背中をそらした瞬間、背後からふわりと、フローラルな香りに包み込まれた。
篠宮さんが、後ろから俺の背中にそっと回り込み、逃げ道を塞ぐように抱きついてきたのだ。
「……私たち、もう偽装なんてしたくない」
耳元で、篠宮さんの震える声が囁いた。
彼女の細い腕が俺の胴体に回され、その胸の鼓動が、背中越しに痛いほどに伝わってくる。
「悠真くんがいない世界なんて、もう考えられない。だから……私たちに、隠れないで。悠真くんの、本当の奥さんになりたいの……」
沈黙が落ちた。
部屋に響くのは、2人の微かな嗚咽と、俺自身の信じられないほど早い心拍音だけ。
逃げ場はない。物理的にも、そして、感情の波からも。
至近距離で浴びる、2人の熱。
狂おしいほどの心拍数。
そして、一切の嘘や打算がない、本気の涙。
(俺の【百合センサー】は、完全にバグって沈黙しているはずだ)
それなのに、おかしい。
センサーを通さず、直接肌に触れている部分から、火傷しそうなほどの『熱』と『感情』が俺の脳を直接殴りつけてくる。
社長の涙も、篠宮さんの腕の強さも、俺という壁を透過してお互いに向け合っているものではない。
2人とも、真っ直ぐに――『相馬悠真』という1人の男だけを見て、泣きじゃくっている。
……どうして?
なぜ、俺なんかのために?
(これは……俺を通した百合の共鳴なんかじゃない……!)
パリンッ、と。
俺の脳内で、何かが砕け散る音がした。
それは、入社して以来、俺が勝手に彼女たちにかけていた『百合』という名の色眼鏡。自分は決して踏み込んではいけない観測者だと思い込むための、分厚く、頑丈な防壁。
俺は今まで、彼女たちの本当の心を見るのが怖くて、自分の都合の良いように世界を歪めて見ていただけだったのだ。
その「絶対的な真実」だと思い込んでいたフィルターが、今、彼女たちの直球の愛によって完全に打ち砕かれた。
「……俺みたいな、狂ったオタクが」
無意識のうちに、口が動いていた。
壁として本音を押し殺すことすら、もう限界だった。
「お2人の間に挟まるなんて……万死に値する、絶対のタブーだと、思ってました」
「……悠真」
「でも」
俺はゆっくりと、震える右手を持ち上げ、胸にすがりつく社長の背中に、そっと回した。
同時に、背後から俺を抱きしめる篠宮さんの腕を、左手で優しく握り返した。
初めて、俺から自発的に「壁」を越えて、2人に触れた瞬間だった。
「……本当は、俺も……お2人のそばに、ずっと、いたかったんです」
その言葉を聞いた瞬間、2人の体からフッと力が抜け、さらに強く、俺に抱きついてきた。
「よかった」「悠真……っ」という泣き笑いのような声が重なり合う。
3人の体温が混ざり合い、涙と安堵が部屋の空気を優しく満たしていく。俺の胸の奥にあった冷たい空洞が、嘘のようにじんわりと温かくなっていった。
(……ああ。ついに俺は、壁を辞めてしまった)
2人のぬくもりを腕の中に感じながら、俺は深い安堵と、この先もずっと彼女たちのそばにいるという確かな覚悟を決めていた。
そのまま、どれくらいの時間が経っただろうか。
お互いの心音だけが響く、穏やかで満ち足りた静寂。完全に心が通じ合った、至福の時間だった。
――ふと。
落ち着きを取り戻し始めた俺の脳内で、完全に停止していた『オタクとしての思考回路』が、突如として再起動した。
(…………ん?)
俺は、両腕に抱いた愛しい2人を交互に見下ろし、ある致命的な事実に気づいて密かに戦慄する。
(待てよ? 俺がこのままお2人と結ばれたら、お2人の間にあった至高の『百合』は……一体どうなってしまうんだ……!?)
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