第17話 壁にだって穴は空く(前編)
朝の冷たい空気が、ふすまの隙間から滑り込んでくる。
俺はハッと目を覚ました。いや、正確には気絶から意識を引き戻したと言うべきだろう。
極寒の暗闇の中、両腕に2人の体温を感じながら精神力だけで一晩を耐え抜いた結果、俺の胃壁はすでにズタボロだった。しかし、ここは氷室本家だ。壁としての業務は終わっていない。
俺は全身の関節が軋むのを無視して跳ね起き、乱れた浴衣を光の速さで整えた。隣では、社長と篠宮さんが俺の両腕から解放され、ぼんやりと目をこすっている。
「……起きたか」
重低音の声が響いた。
ふすまの向こうに、前会長が立っていた。その鋭い眼光が、俺たち3人を射抜いている。
(マズい。一晩手を出さなかったとはいえ、この密着状態を見られたら不貞を疑われるか……!?)
俺は咄嗟に2人を背中に庇うように立ち上がり、冷や汗を流しながら前会長を睨み返した。
しかし、前会長の口から出たのは、怒声ではなかった。
「……よかろう。くだらん見合い話は白紙に戻してやる。貴様らで勝手にしろ」
「え……お祖父様?」
「……これ以上、口出しはせんということだ。行け」
前会長は短くそう告げると、背を向けて去っていった。その後ろ姿には、昨日のような絶対零度の殺気はなかった。
沈黙が落ちる。数秒後、その言葉の意味を理解した社長と篠宮さんが、大きく息を吐き出して顔を見合わせた。
(勝った……!)
俺は内心で渾身のガッツポーズを決めた。最大の障害だった前会長の圧力を、ついに跳ね除けたのだ。これでお2人の尊い百合空間は完全に守られた。俺の壁としての使命は、完璧に果たされたのだ。
「ありがとうございました、前会長……っ」
俺は感極まり、廊下に向かって深く一礼した。
その瞬間だった。
「ぐっ……!?」
鳩尾のあたりを、焼けた鉄の棒で串刺しにされたような激痛が走った。
足元がぐらりと揺れる。だが、まだ本家の敷地内だ。ここで倒れるわけにはいかない。俺は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締め、必死に体勢を持ち直した。
「悠真くん? 大丈夫……?」
「ええ、少し足が痺れただけです。さあ、帰りましょう。お2人の城へ」
俺はいつもの『無害で優秀な壁』としての、胡散臭いほどに穏やかな笑みを顔に貼り付け、強引にその場を誤魔化した。
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氷室本家からシェアハウスへの帰路。
車内を満たしているのは、行きのような息の詰まる緊張感ではなく、泥のような安堵だった。
後部座席で隣り合う社長と篠宮さんは、先ほどから信じられないほど優しく、熱っぽい視線を助手席に座る俺へと向けてきている。
「……本当に、悠真のおかげよ。ありがとう」
「はい。悠真くんがいなかったら、私たち、どうなっていたか……」
2人の声は、砂糖を煮詰めたように甘い。普段のクールな社長や、完璧な秘書である篠宮さんからは想像もつかない、無防備で熱烈な響きだ。
本来であれば、ここで俺の【百合センサー】が「お2人の尊い関係性が深まった!」と激しくアラートを鳴らし、その極上の波動を変換して俺の胃痛を超回復させてくれるはずだった。
だが。
(……無音だ)
俺は膝の上で拳を握り締めながら、冷や汗を流して激しく焦っていた。
(おかしい。お2人がこんなにも甘い空気を纏っているのに、俺のセンサーが全く検知しない! メーターがピクリとも動かないぞ!?)
理由は一つしか考えられなかった。
(やはり昨夜の前会長の強烈なプレッシャーで、俺の大切なセンサーが完全に壊れてしまったんだ……!)
相馬は己のセンサーが故障したと絶望していたが、実際のところ、彼の【百合センサー】は完全に正常であった。
今、後部座席の2人が発している感情は、相馬という1人の男性に向けられた「純度100%の個別の恋心」である。極限状態を乗り越えた安堵感から、以前築き上げた「2人で連帯して彼を守る」という共犯関係(百合成分)が一時的に消失してしまっていた。ゆえに、センサーが百合として検知しなかっただけなのだが――鉄壁の勘違いフィルターを持つ彼が、それに気づくはずもなかった。
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シェアハウスの地下駐車場でハイヤーを降り、3人はエレベーターで最上階の部屋へと戻ってきた。
玄関の鍵を開けた瞬間、張り詰めていた糸が完全に切れたように、社長がふうっと大きなため息をついた。
「今日はもう、何も考えずにゆっくり休みましょう……。悠真も、疲れたでしょう?」
「そうですね。温かいお茶くらいは淹れますから、ソファで休んでいてください」
篠宮さんが気遣わしげに俺の顔を覗き込んでくる。
しかし、俺の脳内は「センサーの修復」という急務で占められていた。
(ダメだ。早くお2人の尊い百合空間を観測して、バグったセンサーを自己修復しなければ! 俺から百合の供給を絶てば、この胃痛で死んでしまう……!)
「い、いえ! 俺は壁として、お2人のための最高の付け合わせと味噌汁を作ります! 篠宮さんのからあげのポテンシャルを200%引き出すために!」
俺は虚勢を張り、エプロンを手に取ってアイランドキッチンへと向かおうとした。
だが、次の一歩を踏み出そうとした瞬間。
「……っ!」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
耳鳴りが鳴り響き、足の感覚が抜け落ちる。激しい眩暈と、腹を内側からえぐられるような胃の激痛。
これは気合いだけでどうにかなるレベルのダメージではない。生身の限界を、とうに超えているのだ。
「……悠真くん?」
「……すみません。少し、横になります」
俺はエプロンを取り落とし、逃げるように自分の部屋へと向かった。
後ろから2人が何か声をかけていたが、それに答える余裕すら、今の俺には残されていなかった。
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リビングに取り残された氷室と篠宮は、バタンと閉ざされた相馬の部屋のドアを、呆然と見つめていた。
いつもなら、絶対に食い下がってでも台所に立とうとする彼が、背中を丸めて逃げるように姿を消した。その異常すぎる行動に、2人の心臓が警鐘を鳴らす。
「ねえ……悠真、明らかに様子がおかしかったわよね」
氷室の声が震えていた。
「……はい。顔色も真っ青でしたし、さっき、足元がふらついて……」
篠宮は、ギュッと自分の胸元を握りしめた。
2人の脳裏に、昨夜の記憶がフラッシュバックする。
極寒の暗闇の中。自分たちは恐怖と寒さに負け、ただの1人の弱い女として、彼という人間にすがりついてしまった。彼は文句一つ言わず、微動だにせず、一晩中2人を温め続けてくれた。
「私たち……」
氷室が、ポツリとこぼす。
「彼に、甘えすぎていたんじゃないかしら。彼の『壁になりたい』っていう言葉を都合よく盾にして……彼という人間を、限界まですり減らしてしまったんじゃないの……?」
「……っ!」
篠宮の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
かつて2人は誓ったはずだ。「2人で彼の城壁になる」と。
だが昨夜の自分たちは、その連帯すら忘れ、ただ個別に彼へ依存し、その優しさを貪り食ってしまっただけではないか。
強い罪悪感と、それ以上に「彼を失いたくない」という切実な愛おしさが、2人の胸を鋭く締め付ける。
「……悠真!」
「悠真くん!」
2人は弾かれたように駆け出し、相馬の部屋のドアへと向かった。
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「……っ、がっ……あ……」
自室のベッドの横。床にうずくまった俺は、胃袋を両手で強く押さえ込みながら、脂汗を流していた。
痛い。息ができない。壁に穴が空くどころか、俺の胃に本物の大穴が開きかけている。
「悠真! 開けるわよ!」
ドアノブがガチャリと回り、社長と篠宮さんが血相を変えて部屋に踏み込んできた。
床で丸まる俺の姿を見て、2人の顔からスッと血の気が引くのがわかった。
(ダメだ……お2人に、こんな惨めな顔を見せるわけには……!)
俺は最後の力を振り絞り、顔を上げて、いつもの「ただの透明な壁」としての、感情を殺した笑みを顔に貼り付けようとした。
「だ、大丈夫ですよ……。お2人の尊い姿を見れば、俺の胃なんて、すぐに……」
だが、その言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
ぷつり、と。
何かが切れる音がした。
限界を突破したダメージが全身を駆け巡り、俺の視界は唐突に、完全な暗闇へと沈み込んでいった。
「――悠真っ!?」
「悠真くん!!」
薄れゆく意識の最期。
絶対に崩れないはずだった「壁」が崩落した絶望の音に混じって、愛する2人の悲痛な叫びが、遠くから聞こえたような気がした。
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※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!




