第16話 壁は百合が無くても壁である
古びた客室は、深夜の冷気に沈んでいた。
前会長が用意したこの部屋は、暖房器具の類が一切なく、布団の枚数も意図的に絞られている。
さらに最悪なのは、窓から差し込むはずの月明かりすら遮断された、この息が詰まるほどの暗闇だ。
「……っ、う……」
隣で、カサリとシーツが擦れた。
篠宮さんが微かに肩を震わせている。暗闇の中で怯える彼女の指先が、無意識に隣にいる氷室社長の浴衣の袖を――生地がちぎれんばかりの力で――強く握りしめているのがわかった。暗所恐怖症である篠宮さんにとって、この環境は拷問に等しい。
(どうする……! どうすればいい……!)
俺の脳内コンピュータはフル稼働で解決策を模索していた。
篠宮さんがパニックを起こす前に、温めて安心させる必要がある。しかし、氷室社長が彼女を抱きしめれば、ただの社長と秘書の枠を超えた関係――つまり『百合夫婦』であることが、確実に存在しているであろう前会長の監視の目に露呈してしまう。
ならば、ダミーの夫である俺が抱きしめるか? いや、それはそれで『妻の部下に手を出す最低の浮気男』として即座にアウト判定を下される。
手を出せば不貞、何もしなければ無能。完全なる三すくみの詰み盤面。
(俺の役割は、お2人の尊い関係を外部のノイズから守ること……!)
俺はバッと掛け布団を跳ね除け、敷布団のど真ん中――社長と秘書の間――に仰向けで陣取った。
「悠真……?」
「悠真くん……?」
「俺が、絶縁体になります!」
暗闇の中、俺は微動だにしない壁としての矜持を胸に宣言した。
「俺という壁を挟んで密着してください! 俺の体温を通して間接的に温め合えば、物理的な接触は避けられます。これなら不貞にもならず、お2人の絆も守れるはずです!」
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「……はぁ。あなたって人は、本当に……」
氷室社長が深くため息をついた。呆れているのは間違いない。しかし、篠宮さんの震えは限界に近い。
カサリ、と再びシーツが鳴った。
「……夫が妻の部下だけを温めれば、それは言い逃れのできない浮気よ」
直後、俺の左腕に、柔らかくも力強い温もりが押し付けられた。
「社長……っ!?」
「でも、妻である私がこうして一緒に抱きつけば。夫はただ、私たち2人を支える『中柱』に見えるわよね」
強引すぎる理屈だった。だが、今の氷室社長(妻)の行動は、監視の目から見れば『夫への自然な甘え』に他ならない。
「ほら、澪。あなたも右腕を使いなさい。中柱なんだから、バランスよく支えてもらわないと」
「……いいの、凛花」
「ええ。こういう時は、頼れる夫の甲斐性を見せてもらいましょ」
モゾモゾと布団が動き、今度は右腕に控えめな温もりが触れた。篠宮さんが、遠慮がちに俺の右腕を抱き枕にするように身を寄せてきたのだ。
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両腕に極上の美女が密着している。一般男性なら理性が消し飛ぶ超絶ハーレム状態。
俺の両腕には、2人の柔らかな体温と、痛いほどに激しく打ち鳴らされる早鐘のような心音が直接伝わってきていた。
(なんという自己犠牲……! 暗所恐怖症の部下を救うため、あえて妻としてのプライドを捨て、俺のような無機物を利用するとは。間違いない、俺を挟んで交わされているこの熱と鼓動は、至高の百合の共鳴だ!)
俺は歓喜に打ち震えながら、【百合センサー】に意識を集中した。この極上の百合波動を受信し、俺の生命力に変換するのだ。
……しかし。
(……あれ?)
センサーは、全くの無音だった。
ピクリとも針が振れない。両腕から確かに激しい鼓動を感じていて、俺の脳は『これは至高の百合的興奮だ』と確信しているのに、なぜか受信機には一切の反応がないのだ。
(なぜだ!? これほどの至高の百合空間なのに、なぜ力が湧いてこない!?)
俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
(まさか……氷室厳の放っていたあの強烈な殺気のせいで、俺の受信機能が完全にバグってしまったのか!?)
原因は不明だが、絶望的な事実がそこにあった。いつもなら百合のオーラを浴びて超回復できるはずが、今夜はそれが一切使えない。
「……温かいわね、悠真」
耳元で、氷室社長が吐息混じりに囁く。
「……はい。とても、温かいです」
篠宮さんも、安心したように俺の腕の服の生地をギュッと握りしめた。
百合波動による超回復ができない以上、俺はこの強烈な動悸と、極寒のプレッシャーを、ただの生身の男の精神力だけで耐え抜かなければならない。
(俺はただの木の柱だ。痛覚も、感情もない……!)
2人の寝息が穏やかになっていく中、俺はシーツの端が破れるほど強く握りしめ、奥歯を噛み割りそうなほどの力で耐えながら、ひたすらに天井の闇を睨み続けた。
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翌朝。
廊下に面した襖が、数ミリだけ音もなく開かれた。
隙間から部屋の中を覗き込んだ氷室厳は、その光景に思わず目を見張った。
部屋の中央。
あの得体の知れない男は、両手をシーツの端に強く食い込ませ、自らは一切2人に触れないように己を縛り付けていた。その左腕には孫娘である凛花が、右腕には秘書の篠宮が、完全に安心しきった様子で身を寄せ、無防備な寝顔を晒して熟睡している。
当の男はといえば、一晩中極限の緊張状態を強いられたためか、目を固く閉じたまま完全に気絶するように眠りこけていた。
「……信じられん。保身のために秘書を見殺しにすることもできたはずだ。だがこの男は、自らを2人の間を隔てる『中柱』として差し出すことで、妻の側近すらも守り抜いたというのか……」
厳は、驚愕に目を見張った。
「自らは決して動かず、ただ2人の恐怖と寒さを和らげるための『熱源』になりきった。……なんという自己犠牲の精神、そして盤面を覆す胆力だ」
老練な経営者の眼力が、男と、彼に寄り添う2人の姿を真っ直ぐに射抜く。
「それに何より……警戒心の強い凛花とあの秘書が、非常時とはいえ、ここまで完全に男を盾として利用し、背中を預けている。……この男は、本物だ」
こうして、前会長からの最も過酷な試練は、相馬の狂気的な献身と生身の精神力によって、最高評価という予想外の形で突破されたのだった。
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