第15話 壁は百合があれば何でもできる
黒塗りのハイヤーが、分厚い木製の門をくぐり抜ける。車窓を流れていくのは、枯山水が広がる広大な日本庭園と、時代劇のセットと見紛うほどに重厚な武家屋敷のような本館だった。
これが、日本経済のトップに君臨する氷室グループの本陣。氷室本家である。
目的地が近づくにつれ、後部座席の空気が微かに変質していくのを感じていた。
社内では「氷の女帝」として君臨する氷室社長だが、膝の上で組まれた指先が先ほどから微かに震えている。無理もない。これから向かうのは、彼女に理不尽な圧力をかけ続ける本家なのだから。
すると、隣に座っていた篠宮さんが、その震える手を自身の両手でそっと包み込んだ。
――その瞬間、俺の百合センサーがカチリと起動した。
社長の指先の震えが、ピタリと止まる。
「大丈夫です、凛花。私と、悠真くんがついていますから」
「……ええ、そうね。ありがとう、澪」
声のトーンは通常の会話より2デシベル低く、互いの吐息が混ざり合うほどの至近距離。接触した手と手から、篠宮さんの平熱(36.5度)が社長の冷え切った指先へと伝播していくのが視覚的に理解できる。
(おおおっ……! なんという高純度の百合空間!)
俺はルームミラーの角度をコンマ数ミリだけ調整し、後部座席で生成される尊い熱量を直接視界に入れないよう細心の注意を払いながら、至福のエネルギーを全身の毛穴から吸収していた。氷室本家のプレッシャーという外圧が、お2人の絆をより強固なものにしている。
車が本館の車寄せで静かに停車した。
外には、黒スーツに身を包んだ屈強なSPたちや、和服姿の親族、使用人たちがズラリと並んで待ち構えている。
車外に出た瞬間、俺の肌をピリッとした明確な悪意が撫でた。彼らの視線は氷室社長や篠宮さんだけでなく、見知らぬ男である俺に向けられている。
俺の【百合阻害因子探知機能】が、即座に周囲の感情を解析する。
飛び交っているのは「次期当主の座を巡る嫉妬」「政略的な打算」、そして「社長の伴侶という座に対する値踏み」。
(なるほど、これが至高の百合を汚す泥か)
彼らのドロドロとした邪気が、車内で形成されたお2人の無菌室のような百合空間にヒビを入れようとしている。許しがたい。
俺は深く息を吐き出し、百合を守り抜くための【完全防衛・絶対守護壁モード】を起動した。
心拍数を平常時の六十に固定し、VIPテーラーで仕立てた極上のスーツの襟を正す。そして、一切の動揺を見せることなく堂々と車を降り、後部座席のドアを開けた。
「さあ、行きましょうか、凛花。篠宮さんも」
エリートの仮面を被り、完璧な15度の角度で一礼して手を差し伸べる。
氷室社長と篠宮さんは、俺の揺るぎない態度にほんの一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに安心したような柔らかい笑みを浮かべ、俺のエスコートに身を委ねてくれた。
その瞬間、並み居る親族やSPたちの間に動揺が走ったのがわかった。「あの氷室凛花が、あそこまで男に気を許しているだと……?」というどよめきが、空気の振動となって伝わってくる。
泥の視線をすべて俺という壁で弾き返しながら、俺たちは本館の奥へと歩みを進めた。
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通されたのは、本館の最も奥に位置する大広間だった。
畳敷きの広大な空間の上座に、1人の老人が座っている。和装に身を包んだ前会長、氷室厳。
部屋に入った瞬間、空気が重力を持ったようにズンと重くなった。室温が錯覚で2度は下がったように感じる。ただ座っているだけなのに、並の人間なら即座にひれ伏してしまいたくなるほどの圧倒的なプレッシャー。氷室社長でさえ、隣で微かに息を呑むのがわかった。
厳が、猛禽類のような鋭い眼光で俺を睨みつける。
「……どこの馬の骨とも分からん寄生虫が、凛花にたかっていると聞いたが。その程度の器で、氷室の重圧に耐えられると思っているのか?」
挨拶もそこそこに放たれた冷酷な言葉。それはただの威嚇ではなく、相手の魂の底まで見透かそうとする刃のような圧力だった。
しかし、俺の心にはさざ波一つ立たない。なぜなら俺はただの壁だからだ。壁は人間の言葉で傷ついたりしない。
俺が無反応であることを面白からず思ったのか、厳は標的を変え、あえて同行している篠宮さんに冷酷な言葉を投げかけた。
「お前のような得体の知れない男を引き込んだのは、そこにいる秘書の入れ知恵か? 分を弁えぬ取り巻きは、氷室の長には不要だ」
その言葉の瞬間、社長の右肩がピクッと動き、半歩前に出ようとした。
重圧に耐えながらも、大切なパートナーである篠宮さんを自らを盾にして庇おうとしたのだ。
しかし、それより0.5秒早く、篠宮さんが社長の視界の端にスッと入り込み、強い視線を送った。
言葉はない。だが、俺の百合センサーは、そのコンマ数秒の視線の交差に込められた情報量を完璧に読み取っていた。
『私が全責任を被ります。あなたは堂々としていてください』――そう告げる、自己犠牲の覚悟を決めた表情だった。
(なっ……なんという尊い自己犠牲!)
この瞬間、お2人の間に「互いを身を挺して守り合おうとする」強烈な百合波動が発生した。
(しかし、お2人のどちらかが傷つくバッドエンドなど、壁であるこの俺が絶対に許すものか!)
俺はお2人から放たれた強烈な波動を受信し、それを己の推進力へと変換した。
そして、お2人が声を上げるよりも早く、スッと一歩前に出て厳の視線を完全に遮断した。
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(ここは、ただの相馬悠真ではダメだ。篠宮さんの持つ『絶対零度の冷静さ』が必要だ)
俺は、かつて発動した【完全プロキシ(代理)モード】の篠宮バージョンを己の肉体にダウンロードした。
まばたきの回数を8秒に1回に制限し、呼吸を極限まで浅くする。顎の角度を水平に保ち、感情の起伏を完全にフラットにする。
厳から放たれる殺気めいた威圧感を、俺はただのそよ風のように涼しい顔で受け流した。
「……彼女は、凛花にとって手足であり、心の一部です」
静寂に包まれた大広間に、俺の落ち着き払った声が響く。
「妻の大切なものを守れない人間に、夫など務まるはずがない。あなたからの圧力は、妻にも、妻の隣にいる彼女にも、一切届かせませんよ」
欲も恐怖も一切ない。ただ「壁としてお2人を守る」ことだけに特化した絶対的な矜持。無機物になりきった俺の透き通るような視線を受け止めた厳は、ほんのわずかに目を見開き、纏っていた殺気をふっと和らげた。
(……ただの妻への愛だけでなく、妻の側近まで身を呈して守り抜く器のデカさ。氷室の重圧から、すべてを庇い切るというのか。本物かもしれん……)
厳がそんな甚だしい勘違いをして感心していることなど、壁である俺は知る由もない。
俺の背後では、俺に庇われた氷室社長と篠宮さんが、言葉を失ったように立ち尽くしていた。
チラリと振り返ると、お2人は顔を耳まで真っ赤に染め、互いの肩を寄せ合うようにして俺を見つめている。その瞳には、致死量を超えた凄まじい熱量が宿っており、2人の呼吸のペースが完全に同期していた。
(おおおっ! 俺の壁としての献身を見て、お2人が顔を見合わせて赤面している! 俺という外敵への警戒が、見事な吊り橋効果となってお2人の百合の絆をさらに深くしたんだ!)
全身に極上の百合波動を浴びながら、俺は内心で歓喜の涙を流していた。これだから壁はやめられない。
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大広間に、厳の低く太い声が再び響いた。
「……口先だけなら何とでも言える。その大言壮語が本物かどうか、試させてもらおう」
厳は腕を組み、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「今夜は本家に泊まっていけ。当然、夫婦の『同室』でな。……いや、そこまで豪語するなら、その秘書も同室に泊めてやろう」
「なっ……!?」
「お祖父様、いくら何でもそれは……!」
篠宮さんと氷室社長が同時に声を上げる。
「敵陣のど真ん中に、3人同室。氷室の重圧の中で、どこまでその2人の盾になりきれるか。次期当主の夫としての器、私に見せてみろ」
有無を言わさぬ命令により、俺たちは強制的に本家に宿泊することになった。
通されたのは、本館から少し離れた、古くて不気味な客間だった。
軋む廊下、薄暗い照明。古風な和室とはいえ、ここは氷室本家だ。どこに監視カメラや盗聴器が仕掛けられているか分かったものではない。
部屋に入った途端、篠宮さんの様子が急変した。
肩を抱き、ガタガタと小刻みに震え出している。かつて水族館の深海エリアに入った時と同じだ。篠宮さんは暗所やオバケの類が極端に苦手なのだ。
(なるほど……前会長は篠宮さんの弱点を知った上で、あえてこの部屋を指定したのか)
厳の悪辣な罠の構造に、俺は瞬時に気がついた。
氷室社長が、堪らず篠宮さんに駆け寄り、抱きしめて慰めようとする。
俺はハッとして、咄嗟に社長の腕を掴んで制止した。
「相馬……! 離して、澪が……!」
「ダメです」
俺は極限まで声を潜め、強い視線と首の振りだけで警告した。
ここは敵地であり、どこに盗聴器があるか分からないのだ。もしここで社長が『夫』である俺を放置して、過剰なまでに篠宮さんを庇えば、単なる上司と部下の範疇を超えた異常な執着が監視の目に留まり、偽装結婚――ひいてはお2人の真の百合関係が暴かれてしまう。
かといって、代わりに俺が篠宮さんを抱きしめれば、『妻の秘書に手を出す浮気夫』と見なされて即アウトだ。
ならば、保身のために2人して何もしないか? それもダメだ。恐怖で震える篠宮さんを見捨てれば、先ほどの「彼女ごと守り抜く」という俺の宣言が口先だけだったと証明され、結局は前会長に屈することになる。
偽装露見、浮気、あるいは見殺し。どの選択肢を取っても破滅が待っている。
暗闇の中で震える篠宮さんと、焦燥に駆られる社長。そして、見えない監視の重圧。
絶体絶命のピンチを前に、俺の胃壁が、かつてないほどの鋭い痛みを訴え始めていた。
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