第14話 壁の飾りつけってWallcoveringって言うらしいです
氷室本家――前会長からの呼び出しを受けた日の夜。
シェアハウスのリビングは、かつてないほどの緊張感に包まれていた。
テーブルの上には、本家の広大な見取り図と、篠宮さんがまとめ上げた『前会長・氷室厳の性格・嗜好・行動パターン』に関する分厚い資料が広げられている。
「いい? お祖父様は、ただの口うるさい老害じゃないわ」
氷室社長が、資料の束をトントンと指先で叩きながら静かに口を開いた。普段の快活さや余裕は消え、その横顔には冷徹な経営者としての真剣な光が宿っている。
「人を見る目が、異常なまでに厳しいの。能力だけじゃない。その人間が何を背負い、どれほどの覚悟を持っているのかを、視線一つで見抜いてしまう。根底にあるのは『上に立つ者は孤独であってはいけない、魂を預けられる真の伴侶が必要だ』という強烈な信念よ。中途半端な覚悟の男なんて、一瞬で見破られて社会的に消されるわ」
「つまり……」
社長の言葉を引き継ぐように、篠宮さんが冷静なトーンで分析を続ける。
「悠真くんには、ただの『偽装夫』ではなく、『氷室家の婿として相応しい、完璧な経歴と品格を持つ理想の伴侶』を、本家の邸宅内で1秒の隙もなく演じ切ってもらう必要があります」
篠宮さんが俺を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、俺の命すら預けろと言わんばかりの強い信頼と、わずかな不安が入り混じっていた。
「悠真くん。これは、私たちの関係を……いえ、私たちの全てを守るための、最大の試練です」
お2人の関係――氷室社長と篠宮さんという、この世で最も尊き百合の園。それを根本から破壊しようと目論む最大のノイズ、それが前会長だ。
俺の奥底で、壁としての狂気的な防衛本能が激しく燃え上がった。
「お任せください」
俺は背筋を伸ばし、一片の迷いもなく力強く宣言した。
「お2人の尊い百合の園を蹂躙しようとするなら、相手が絶対権力者だろうが神だろうが関係ありません。俺が鋼の城壁となって、あらゆる視線と圧力を全弾防ぎ切ってみせます!」
真顔で狂気的な忠誠を誓う俺を見て、氷室社長と篠宮さんは、一瞬ぽかんと目を丸くした後、ふふっと同時に吹き出した。
緊張で張り詰めていた空気がふわりと緩む。
2人は顔を見合わせ、互いの瞳に映る俺の滑稽で、けれど頼もしい姿を確認し合うように、優しく微笑み合った。
(……素晴らしい。俺という共有の盾を前にして、お2人の精神的なスクラムがより一層強固になっている! 決戦を前にして、互いへの信頼を深めるための潤滑油になれるとは……壁冥利に尽きる!)
「ありがとう、悠真。あなたのそういうところ、本当に助かるわ」
「ええ。悠真くんのその『絶対に折れない』ところ……私たちは、誰よりも信じていますから」
社長が俺の右手を、篠宮さんが左手を、テーブルの上でそっと握りしめた。
右から伝わる力強い温もりと、左から伝わるしっとりとした熱。二つの異なるベクトルの愛情が、俺の両腕を伝って全身に活力を与えていく。
「よしっ! そうと決まれば、まずは外見の完全武装からよ。実はお祖父様に呼び出されることを見越して、最高級のテーラーにスーツをオーダーしておいたの。悠真の健康診断のデータと、いつも着ているスーツのサイズ、それに『澪の日常的な観察データ』をテーラーの職人に渡して、完璧な寸法を割り出させたわ。今週末、本家に乗り込む直前に最終フィッティングに行くわよ!」
「ええ。悠真くんの肩幅から歩幅、筋肉のつき方まで、毎日見ている私がミリ単位で把握していますから、ベースはもう完成しています」
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そして、決戦となる週末の昼下がり。
俺たち3人は、都内の一等地に店を構える、完全予約制の高級VIPテーラーを訪れていた。
ここは氷室社長の行きつけであり、各界のVIPの『戦闘服』を仕立てている名店らしい。
「凛花様、お待ちしておりました。相馬様のオーダー品、すでに仮縫いを終えて仕上がっております」
白髪の初老の店主が、深々と頭を下げる。
氷室社長は、いずれ来るであろうこの日を想定し、会社の身体データと、篠宮さんの『ストーカー一歩手前の恐るべき観察眼』を駆使して、俺に一切気づかれることなく秘密裏に最高級スリーピーススーツをオーダーメイドしていたのだ。
「ええ。ベースは完璧だと思うけど、今日は最終フィッティングよ。お祖父様の厳しい目に耐えうる最高の『エリートの夫』に仕上げるから、数ミリ単位の調整をお願いね」
「かしこまりました」
そこからの2時間は、氷室社長と篠宮さんによる『理想の夫・最終コーディネートデート』と化した。
店主が俺にスーツを着せ、シルエットを完璧にするための微調整(ピン打ち)を行っていく。その傍らで、2人が楽しそうにネクタイやシャツなどの小物を選んでいくのだ。
「凛花、ネクタイはこの少し落ち着いたボルドーなんてどうでしょう? 悠真くんの知性を演出してくれると思います」
「あー、それいいね! シャツは少しだけ襟の高いものを合わせて、私の夫としての威圧感も出してもらおうかな」
「ふふっ、カフスボタンは私が選びますね」
あーでもない、こーでもないと、2人が俺の周りを歩き回りながら小物を合わせていく。俺の体にネクタイや小物を当てるたびに、2人の指先が俺の胸元や肩でかすかに触れ合い、その度に極上の百合波動が俺のセンサーをチリチリと刺激する。
(なるほど……! お2人は今、俺というトルソー(マネキン)を使って、実質的な『夫婦の買い物デート』を満喫しているんだな! 俺に着せているように見せかけて、実はお互いの好みをすり合わせるという高度なコミュニケーション! 俺の肉体は、お2人の尊き愛の営みを加速させる最高級のハンガーになれたぞ!)
至近距離で浴び続ける極上の百合波動を、乾いた細胞の隅々にまで充填させながら、俺はプロの店主によるスタイリングに身を任せた。
そして。
店内の工房で急ぎの最終調整(仕上げ縫い)が完了し、「……お待たせいたしました」と試着室のカーテンが静かに開かれる。
俺は、俺の体躯に合わせてミリ単位で計算し尽くされた、極上のスリーピーススーツを身に纏い、一歩前に出た。
普段の『気配を消す総務部の平社員』のオーラは、そこには微塵もなかった。
細胞の隅々まで充填された極上の百合波動をエネルギーに変換し、前会長という規格外の圧力を想定した【完全防衛・絶対守護壁モード(本家仕様)】が、俺の肉体で無意識に起動していたのだ。背筋はピンと伸び、肩幅は広く見え、視線は一切のブレを持たない。氷室社長と篠宮さんをあらゆる外敵から守り抜くという『絶対防壁としての覚悟』が、仕立ての良いスーツと化学反応を起こし、驚くほど洗練されたエリート特有の覇気を放っていた。
「…………っ」
ソファーでお茶を飲んでいた氷室社長と篠宮さんが、言葉を失ってフリーズした。
社長が持っていたティーカップがカチャリと音を立ててソーサーに置かれ、篠宮さんの手からボルドーのネクタイがポロリと床に落ちる。
俺の【百合センサー】が、2人の異常な生体反応を瞬時に捉えた。
社長の瞳孔が限界まで開き、普段の凛とした顔が首筋まで真っ赤に染まっている。篠宮さんに至っては、無意識に両手で口元を覆い、荒い呼吸を隠すように肩を震わせていた。社長の心拍数が平常時の約一・八倍に、篠宮さんの呼吸数が1分間に24回まで跳ね上がっているのが、空間の微小な振動から伝わってくる。
(間違いない……! お2人は今、俺が着ているこの極上のスーツを『自分たちのパートナー(互い)』が男装して着た姿を脳内で合成して、強烈に興奮しているんだ! 氷室社長のイケメンスーツ姿を想像して赤面する篠宮さんと、篠宮さんのクールな男装姿を想像してダメージを受ける氷室社長! 互いに視線を交わし、無言で『(私のパートナー、最高すぎない?)』と同意し合っている! これだ……これこそが着せ替えイベントの真髄! 俺というハンガーが上等であればあるほど、お2人が脳内で合成している『理想のパートナーの姿』の解像度は際限なく上がっていくッ!!)
俺はこれ以上ない手応えを感じ、さらに胸を張り、より一層イケメン特有の『壁としての圧』を放ってみせた。
「……嘘、でしょ。私の旦那、カッコよすぎ……?」
「……凛花。これは、本家に行く前に私がおかしくなってしまいそうです……っ」
2人の口から漏れた小さな声すらも、俺の耳には『互いへの限界化した賛辞』として都合よく変換されていた。
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コーディネートが完全に終わり、店を出た俺たちは並んで大通りを歩いていた。
俺を中心に、右に氷室社長、左に篠宮さんといういつもの布陣だ。しかし、周囲の反応が明らかに普段とは違った。
すれ違う女性客や、オープンカフェの店員たちが、チラチラと頬を染めて俺の方を……正確には、俺を含むこの『洗練されたスリーピースの男と、それに寄り添う極上の美女2人』という絵画のような光景を、熱っぽい視線で見つめているのだ。
「……ねえ、澪」
「ええ、凛花。分かっています」
ピリッ、と。
両脇から、恐ろしいほど純度の高い【百合の完全同期波動】が噴き上がるのを感じた。
バシッ、という音すらしそうな勢いで、氷室社長が俺の右腕に、篠宮さんが俺の左腕に、寸分の狂いもない同じタイミングでガッチリと密着して腕を組んできたのだ。
普段の『周囲を誤魔化すためのカモフラージュ』ではない。2人の柔らかな感触が、腕に食い込むほどの強さで密着している。
「私たちの夫に、気安く見惚れないでよね……」
社長が周囲のモブ女性たちをギロリと睨みつけ、強烈な牽制のオーラを放つ。
「悠真くんは、誰にも渡しませんから……」
篠宮さんもまた、絶対零度の微笑みを周囲に振りまきながら、俺の腕を自身の胸元へと深く引き寄せた。
(おおっ……! なんという凄まじい百合の感情共鳴! 周囲の女性たちが俺(=2人が愛を込めてコーディネートした『理想のパートナーの器』)を見つめた瞬間、お2人の「自分たちだけの神聖な百合空間を部外者に汚されたくない」という防衛本能が、言葉も交わさずに完全同期したんだ! これぞ夫婦の防衛陣形『ダブル・ユリ・シールド』! お互いの感情の波長が完全にリンクしているからこそ成せる、究極の百合的連携技……!)
両腕の極上の感触と、2人から放たれる凄まじい威圧感に胃を痛めながらも、俺は1人で勝手に納得し、待機させていた黒塗りのハイヤーへと乗り込んだ。
――そのまま車に揺られること数10分。
俺たち3人は、都内の閑静な高級住宅街の一角、周囲を圧倒するような石造りの高い壁と、重厚な鉄格子の門の前に立っていた。
氷室本家。
門の向こうからは、見えない重圧が物理的な風となって吹き付けてくるようだ。
「……行くわよ」
氷室社長が小さく深呼吸をし、震えそうになる声の奥に強い意志を込めて呟いた。
俺は無言のまま一歩前に出て、完璧なスーツの袖口をわずかに整えながら、2人に力強くエスコートの手を差し出した。
「行きましょう。俺が、全てを防ぎ切ります」
社長と篠宮さんが、顔を見合わせて力強く頷き、俺の両手から差し出された掌に、それぞれの手をそっと重ねる。
究極の百合夫婦と、それを守る鋼の壁。
最強の布陣で、俺たちはついに絶対権力者の待つ城へと足を踏み入れた。
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