第13話 壁の尊き日常と、終わりを告げる絶対君主の呼び出し
篠宮家での見合い騒動から数日後。休日の昼下がり、俺たち3人は役員用社宅であるシェアハウスのリビングで、遅めのブランチを楽しんでいた。
テーブルの中央には、山盛りの『澪の特製からあげ』が鎮座している。もちろん、そのメインディッシュが持つポテンシャルを200%引き出すための完璧な炊き加減のご飯と、出汁の効いた味噌汁は、この俺、相馬悠真の力作だ。
「んーっ! やっぱり澪のからあげと、悠真のお味噌汁の組み合わせは最高だね!」
「ふふっ、ありがとうございます凛花。悠真くんも、いつも美味しいお味噌汁をありがとう」
「いえ。俺はただ、お2人の極上の食卓を影から支える土台であり、壁ですから」
氷室社長と篠宮さんの尊いやり取りを視界の端に収めながら、俺は静かに白米を咀嚼する。壁としての至福の時間だ。
しかし、今日の2人はどうも様子がおかしい。食事が終わるや否や、2人は示し合わせたかのように立ち上がり、俺が座っている3人掛けのソファーの両脇に腰を下ろしたのだ。
「……あの、お2人とも。少し距離が近いような気がするのですが」
「そんなことないよ。ねえ、悠真」
氷室社長が、普段の凛とした姿からは想像もつかないほど甘い声を出して、俺の右腕に自分の身体を密着させてきた。
ほのかに香る柑橘系のシャンプーの匂い。そして、腕にじんわりと伝わってくる社長の柔らかい体温に、俺の心臓は激しい警鐘を鳴らし始める。
「今回は、悠真がすっごく頑張ってくれたから。今日はお疲れ様会ってことで、私たちが悠真を限界まで甘やかしてあげる」
「そうです。悠真くんには本当に助けられましたから。さあ、遠慮しないでくださいね」
左側からは、篠宮さんが慈愛に満ちた聖母のような笑みを浮かべて、俺の左腕にそっと手を添えてきた。
右から氷室社長、左から篠宮さん。
極上の美女2人に両脇をがっちりとホールドされ、俺は身動きが取れなくなってしまった。
「悠真、私の膝に頭乗せていいよ。ほら、膝枕!」
「それなら私は、悠真くんの耳かきをしてあげますね。さあ、頭をこちらへ」
社長がポンポンと自分の太ももを叩き、篠宮さんが竹の耳かきを取り出して微笑む。
その瞬間、俺の【百合センサー】がけたたましく反応した。
俺を両脇から挟み込む2人が、膝枕と耳かきを促そうと、両側から俺の顔を覗き込むように身を乗り出してきたのだ。右の頬からわずか数センチの位置に社長の端正な顔が、左の頬のすぐ側に篠宮さんの微笑みがある。
社長の柑橘系のシャンプーの香りと、篠宮さんのフローラル系の香水が、俺の鼻先で完璧な黄金比(六対四)でブレンドされるのを嗅覚が捉えた。さらに、ソファーの背もたれに沿って回された2人の腕が、俺の背後で微かに触れ合い、俺の顔の真ん前で交わされる視線の仰角が、普段の業務時とは全く違う『湿度90%の熱帯夜』のそれに変化している。
(なるほど……! 2人はお互いを甘やかすための『クッション(練習台)』として俺を媒介にしているんだな! 以前の俺なら尊き百合の間に物理的に挟まるなど万死に値するノイズだと激怒していただろうが今の俺は違う! お互いへの嫉妬心を介した百合を観測して以来俺は気づいてしまったのだ俺という障害物を間に挟むことでしか得られないより高度で屈折した『間接的百合』の形があるということに! つまり社長も篠宮さんも本当はお互いに膝枕や耳かきをしてイチャイチャしたいがいきなり互いにやるのは照れくさいからこそ俺という無害な壁を間に挟むことで間接的なスキンシップを楽しんでいるに違いない! ならば今の俺はノイズではない2人の愛の波動を増幅させるための『伝導体』だ2人がお互いにイチャつくための踏み台になれるなんて壁としてこれ以上の誉れはない……ッ!!)
俺は極度の緊張と歓喜で暴れ出しそうになる心臓を押さえつけ、呼吸すらも薄くして自我を消し飛ばす。冷や汗を流しながらも、壁としての役目を全うすべく微動だにせず耐え続けた。
右耳に吹きかかる社長の甘い吐息と、左耳から鼓膜をくすぐる篠宮さんの吐息。二つの異なる波長の音声が脳内でステレオ再生され、俺という音響設備(壁)を通して2人が間接的に愛を囁き合っている事実が、全身の毛穴をブチ開けていく。この致死量の百合空間を至近距離で浴び続けるのは、至福であり拷問だった。
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「師匠ーっ! 遊びに来ましたよー!」
俺の理性が限界を迎えそうになっていたその時、ガチャリと玄関のドアが開き、元気な声とともにリビングへ乱入してくる影があった。
篠宮さんの妹であり、俺の壁としての同志――いや、先日の事件ですっかり俺への認識を歪ませてしまった厄介な火種、篠宮雫だった。
合鍵を使って堂々と侵入してきた彼女は、ソファーで挟み撃ちにされている俺を見るなり、パッと目を輝かせて突撃してきた。
「師匠! 私、決めました! 今日から師匠の第二夫人になります! お姉ちゃんたちだけ師匠を独占するなんてズルいです!」
「……は?」
俺が素っ頓狂な声を上げるより早く、雫は俺の右膝にガシッと抱きついてきた。
その瞬間、リビングの空気が氷点下まで凍りついた。
両脇にいた社長と篠宮さんの目がスッと据わり、空気がピリッと張り詰める。瞬時に『夫を守る絶対防衛スクラム』が組まれるのを感じた。
「雫。悠真はもう事実上『私たちの夫』なの。年少者は下がってなさい」
社長がいつもの少年っぽさを完全に消し去り、本気の独占欲を滲ませた低い声で言い放つ。
「そうよ雫。いくら私の妹でも、私の旦那様に手を出すのはお姉ちゃん許しません」
篠宮さんも、優しい笑顔の裏に強烈なヤンデレ波動を漂わせて雫を威圧する。
「だ、旦那様……? お姉ちゃんは、まだ婚約中じゃなかったっけ……?」
雫がたじろぎながらツッコミを入れる。確かに、篠宮さんとの偽装設定は『将来を託せる婚約者』だったはずだ。
「ええ、そうよ。でも……気持ちの上では、もうとっくに夫婦ですから」
篠宮さんが黒い笑顔で返し、設定をフライングするほどの異常な独占欲を見せつける。
その光景に、俺の【百合センサー】はさらにインフレを起こし、限界を突破した。
(なるほど……! 雫が俺に抱きついたのは俺が目当てじゃない大好きな姉の気を引くための『当てつけ』だな! それに対する社長と篠宮さんの怒りも夫婦の聖域を荒らされたことへの防衛本能に他ならない! 社長の首筋の脈拍が通常より一・五倍速くなり篠宮さんの瞳孔がかつてないほど収縮しているのが俺の特等席からハッキリと見て取れる! つまり俺という『当て馬』に外部から強い刺激が加わったことで氷室社長と篠宮さんの夫婦としての結束がかつてないほど強固になっているのだ俺が間に挟まりサンドバッグになることでお2人の【百合夫婦】の純度が極限まで高まっているこれぞ壁の真骨頂……ッ!!)
自分が1人の男としてマジのトーンで奪い合われている事実には一切気づかず、俺はただ、百合夫婦の絆を深めるための完璧な壁になれたことに酔いしれ、恍惚とした表情を浮かべていた。
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ピリリリリリリッ!
3人の女たちが火花を散らす修羅場がピークに達した瞬間、鋭い電子音がリビングに響き渡った。
社長のスマートフォンだ。
画面に表示された文字を見た瞬間、社長の顔からスッと血の気が引き、部屋の空気が一気に張り詰めた。
そこに表示されていたのは、『氷室本家』。
社長の祖父であり、この会社の絶対権力者である前会長の秘書からの直通電話だった。
「……はい、氷室です」
社長がスピーカーフォンにして電話に出る。
電話の向こうから聞こえてきたのは、冷徹で威厳のある重低音――前会長本人の声だった。
『凛花。お前が同居しているという総務部の平社員――事実婚の夫とやらを連れて、今週末に本家へ来い』
その言葉に、篠宮さんが息を呑む。
実家の脅威とは別格の『本家』の恐ろしさに、雫でさえも言葉を失っていた。
『お前たちの関係が真実か、その男が氷室の名にふさわしいか、私が直接見極めてやる。もし偽りであれば、即座に社長解任の手続きを取る。以上だ』
一方的に電話が切られ、ツー、ツーという無機質な電子音だけがリビングに残された。
重苦しい沈黙が降りる。
社長解任。それは、社長と篠宮さんの関係を根本から破壊する絶対的な死刑宣告だ。
俺は、襲いくる猛烈な胃痛をこらえながらも、静かに腹の底で覚悟の炎を燃やした。
(ついに来たか。お2人の尊い関係を阻む最大のノイズ、前会長)
氷室家という巨大な権力。しかし、恐れることはない。
推しの幸せを邪魔する奴は、たとえこの世の支配者であっても許さない。
俺はただの壁だ。
壁は、外敵から城を守るためにこそ存在する。
「……ご安心ください、お2人とも。週末のスケジュールは空けておきます」
俺は立ち上がり、怯える2人の前に立って、静かに、かつ狂気的な覚悟を込めて告げた。
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※本作はすでに全20話まで執筆済みです。毎日「朝7:00」と「夜19:00」の1日2回、完結まで毎日更新します。ぜひ明日もお待ちしております!




