第9話:孤立無援の鉄鋼砦
赤土の峡谷を突破した第7小隊の前に現れたのは、煙を上げて崩壊する西方国境の要衝──『鉄鋼砦』!
堅牢を誇った第1防衛区の外壁は無残に砕け散り、至るところに散乱する主を失った鎧と、冷たく風化した白い灰の山。
押し寄せる数千の灰燼種の大軍勢によって、生き残った守備兵たちは内郭の「第二城門」へと追い詰められ、風前の灯火となっていた!
国家防衛線の凄惨な現実を目撃したカナタ。
絶望に包まれる戦場を前に、隊長クロードが下した命令は──「敵のケツから馬車ごと突っ込むぞッ!!」
赤土の切り立った断崖が急速に後方へと遠ざかり、重装軍用馬車は広大な平野部へと飛び出した。
車輪が跳ね上げる土煙の先、視界を塞ぐ巨岩が途切れた瞬間、車内に吹き込んできたのは──鼻腔を突き刺すような、濃厚な焦燥と腐食の臭気だった。
燃え盛る木材の煙と、生命の体温を奪い去った絶対零度の冷気。
相反する二つの気配が混ざり合い、生暖かい風となって窓の隙間から滑り込んでくる。
「っ……、う……」
客室の小窓に手をかけ、外を見つめていたカナタの喉から、押し殺した呻きが漏れた。
息が詰まる。胸の奥底を冷たい鉄の塊で殴りつけられたかのような衝撃が、全身の血を凍りつかせた。
地平線の中心にそびえ立っていたのは、かつて西方国境の要衝として誇られていたはずの黒鉄の巨城──西方国境第3区『鉄鋼砦』だった。
だが、そこに鎮座していたのは、王国を守護する堅牢な防壁などではなかった。
外郭を取り囲んでいたはずの、高さ二十メートルを超える巨大な黒鉄の城壁。
その第1防衛区の外壁が、まるで超巨大な怪物の手爪で乱暴に薙ぎ払われたかのように、中央から無残にへし折られていたのだ。
へし折られた鋼鉄の裂け目からは、赤黒い炎とドス黒い煙が幾重にも立ち上り、鉛色の雲海を焦がしている。
それだけではない。折れた外壁の周囲には、絶対零度の冷気が巻き起こした不吉な白い竜巻がいくつも渦を巻き、大気中に死の白灰を撒き散らしていた。
「……第1防衛区が、完全にへし折られてるにゃ……」
屋根への昇降ハッチから半身を乗り出していたフェリが、呆然と呟いた。
青いショートヘアが風に乱れ、その頭頂部に生えた青い三角耳が、信じられないものを見たかのようにペタリと後方へ伏せられる。
「あんな分厚い装甲板、通常の灰燼種が何百体群がったってビクともしない頑丈さのはずだにゃ……! それを、一撃で叩き割ったって言うのかにゃ……!?」
フェリの震える声に、答える者はいなかった。
馬車が猛スピードで街道を直進するにつれ、戦場の生々しい爪痕が、否応なしにカナタたちの瞳へと焼き付けられていく。
街道の左右には、粉々に踏み砕かれた魔導バリケードの残骸が散乱していた。
大砲の砲身はへし曲げられ、迎撃用の矢倉は跡形もなく倒壊している。
そして──何よりもカナタの胸を抉ったのは、大地に転がる武具の数々だった。
主を失った鋼鉄の兜。
爪痕によって深く抉られた胸当て。
その鎧の隙間から、まるで砂時計が割れたかのように、サラサラとこぼれ落ちているのは──真っ白な灰の山だった。
肉体も、骨も、血の一滴すら残されていない。
生命の熱を根こそぎ奪い去られた人間が辿り着く、残酷すぎる終着点。
風が吹き抜けるたび、鎧の主であったはずの兵士たちの残骸が、冷たい白灰の煙となって大気の中へと虚しく霧散していく。
「あぁ……そんな……」
エレナが口元を手で覆い、悲痛な喘ぎを漏らした。
柔らかなアーモンド形の瞳が激しく揺れ、胸元に抱いた『医療用短杖』を握る白い指先が、白く鬱血するほど強く引き絞られている。
「こんなにも大勢の方が……手当をする間もなく、灰に呑まれてしまうなんて……」
カナタは、腰の太刀『不知火』の鞘を強く握り締めた。
昨夜、故郷の寒村で見た地獄。
父ソウマが灰となって風に消えていった、あの絶望の夜。
だが、目の前に広がる光景は、一村の悲劇などとは比較にならない規模の、圧倒的な「戦争の暴力」だった。
何十人、何百人という正規の訓練を受けた兵士たちが、必死に国を守ろうと刃を構え、そして成す術もなく熱を奪われて消え去っていったのだ。
「……空気が重いのう」
カナタの首元で、コハクが身をすくめて低く唸り声を上げた。
ふかふかの純白の毛並みが、戦場に漂う濃密な死の気配に逆立っている。
「無念の怨嗟と、凍てつく死灰の臭気で満ちておるわ。……この地を覆っておる冷気、ただの群れの仕業ではないぞ。もっと巨大な、芯まで凍りつかせるような怪異の残滓がこびりついておる」
「……シエル、上はどうなってる!」
御者台から、クロードの低く重い怒号が飛んだ。
四頭の巨馬の手綱を握りしめ、前方を睨み据える男の黒い双眸には、一切の動揺の色はない。だが、その顎のラインは鋼のように硬く引き結ばれていた。
屋根の上、激しい突風の中で背筋を伸ばし、索敵を行っていたシエルが身を乗り出した。
銀白髪のポニーテールが激しく風に舞う。
彼女の陶器のような横顔は冷徹そのものだったが、その長いエルフ耳が、四方から届く微細な振動と冷気の気流を捉えて、ピクッ、ピクリと小刻みに、鋭利に跳ね上がっていた。
「……状況報告」
シエルの静謐な声が、風を裂いて車内へと届く。
「外郭第1防衛区、生命反応──皆無。全滅と推測」
「くそっ……やっぱりか!」
フェリが歯噛みする。
「……だが、完全陥落ではない」
シエルは双眸を細め、さらに奥──内郭の防衛ラインへと視線を射抜いた。
「生存反応、確認。内郭の『第二城門』奥……砦の司令塔および地下区画へ退避。残存兵力、およそ百五十。重傷者多数」
「生き残ってる人がいるんですね……!」
カナタが身を乗り出す。
「……肯定。しかし、状況は最悪」
シエルの長い耳が、再びピクピクと緊張に震えた。
「第二城門の目前……敵性存在、超密集。四足型、人型、歩行甲殻型……雑多な群れの混成部隊。総数、およそ三千」
「さ、三千……!?」
カナタの喉から息が漏れた。
三千。
先ほど赤土の峡谷で遭遇した灰狼の群れが、三十体ほどだった。
それでも馬車が横転しかけ、全員が死力を尽くしてようやく突破したのだ。その百倍もの異形が、今、砦の内郭の門前にひしめき合っている。
カナタが窓から身を乗り出して目を凝らすと、果たしてその光景が見えた。
黒鉄の第二城門の前に広がる広大な広場が、まるで黒い泥の海のように蠢いていた。
爛々と青白く光る無数の核。
骨を剥き出しにした異形たちが、何重もの波となって第二城門へと殺到している。
ズズゥン! ガガガガッ! と、分厚い鉄扉を力任せに叩き割ろうとする衝撃音が、遠く離れたここまで響いてくる。
城門の上の胸壁からは、辛うじて生き残った守備兵たちが、弓や魔導銃、火炎壺を投げ落として必死に応戦していた。
だが、その攻撃はあまりにも疎らだった。
矢を番える兵士の腕には、黒灰色の斑点──体温を奪われ、皮膚が壊死しかけている『灰化痕』が痛々しく広がっているのが見えた。
極限の疲労、武器の摩耗、そして仲間を失った絶望。
彼らの防衛線が崩壊するのは、もはや時間の問題だった。あと数分、いや数秒で第二城門がへし折られ、黒泥の津波が内郭へ雪崩れ込むのは明白だった。
「あの様子では、砦内の救護所もすでに限界のはずです……!」
エレナが悲痛な声を張り上げた。
彼女は『医療用短杖』を両手で握り締め、胸の前で祈るように抱き込んでいる。
「第1防衛区があれほど破壊されているのなら、備蓄されていた高濃度の中和薬も、包帯も、物資のほとんどが瓦礫の下に埋もれてしまっているはず……! 灰化の侵食は、一度始まれば刻一刻と心臓へ向かって進行します。一刻も早く助けに入らなければ……手遅れになって、助かるはずの命まで灰になってしまいます!」
「アタイたちのナワバリ(砦)を、好き放題荒らしやがって……!」
フェリが両手の二丁拳銃を握り直し、ギリッと奥歯を鳴らした。
青い三角耳がピーンと怒りで逆立ち、お尻のあたりから伸びたふさふさの青い尻尾が、ボワッと二倍近くに膨らみ、激しく左右へ空気を叩いている。
「新兵、ボーッとしてる暇はないにゃ! アタイのマガジン、まだ満タンで残ってるにゃ! あんなドブ泥ども、後ろから蜂の巣にして穴だらけにしてやるにゃ!」
「フェリさん……」
カナタは彼女の横顔を見つめた。
強がりを言っているが、三千という途方もない数への恐怖がないはずがない。
それでも、彼女は逃げ出そうとはしていない。仲間を救うために、怒りを力に変えて立ち上がろうとしている。
恐怖は、カナタの胸の中にも確かにあった。
足先が冷たくなり、心臓が早鐘を打っている。
けれど──。
先ほど、赤土の峡谷で放った不知火の感触が、手のひらの奥底に鮮明に残っていた。
薪割りの呼吸。丹田に落とし込んだ白銀の熱。
仲間たちが繋いでくれた隙を捉え、大型灰獣を両断したあの瞬間、自分の中の火は確かに死の灰を光へと還したのだ。
城壁の上で、震える手で弓を引き絞る兵士たちの姿が脳裏に焼き付いている。
見殺しになど、できるはずがない。
父ソウマが、自分の命を投げ打ってまでカナタを生かしてくれたように。
自分もまた、この手にある刃で、誰かの命を繋ぎ止めたい。
「……吸って、吐いて、丹田に落とす……」
カナタは小さく呟き、深く冷気を吸い込んだ。
下腹部に力を込めると、心臓の奥底で、小さな白銀の火種がカッと熱を帯びた。
震えていた指先から冷えが抜け、確かな温もりが不知火の柄へと伝わっていく。
「クロード隊長」
カナタは御者台の背中へ向けて、真っ直ぐに声をかけた。
「行きましょう。あの人たちを……このまま見殺しにはできません!」
その言葉を聞いた瞬間──。
御者台の上で手綱を握り締めていたクロードが、獰猛な笑い声を上げた。
「ハッ! よくぞ言った、カナタ!」
男が振り返った。
その鋭い黒い双眸には、恐れなど微塵も存在しなかった。
十星天刃・第7席『黒炎』。
数々の死線を潜り抜け、絶望の戦場をその身一つで焼き尽くしてきた歴戦の猛獣の光が、爛々と燃え盛っていた。
「当たり前だ! このまま指くわえて見物するために、ここまで馬車をぶっ飛ばしてきたわけじゃねえ! あそこの連中を皆殺しにされたら、夜天守護騎士団の看板に傷がつくだろうがよ!」
クロードは大太刀の柄を鷲掴みにし、長鞭を両手で力強く引き絞った。
「シエル! 屋根から降りてハッチを閉めろ! フェリ、弾薬の予備を抱えとけ! エレナ、車体の障壁を最大出力で維持しろ!」
「了解にゃ!」
「……御意」
「はい、任せてください!」
三人が瞬時に応じ、それぞれの配置へとつく。
シエルが身軽にハッチから滑り降りて頑丈なカンヌキを落とし、エレナが『医療用短杖』を正面へと構えて蒼光を励起させる。
カナタの首元では、コハクが「カッカッカ! こうでなくては面白くないわ!」と牙を剥いて豪快に笑っていた。
「おい、お前ら! 舌噛むんじゃねえぞ!」
クロードの筋骨隆々の背中から、ドス黒い炎の陽炎がボウッと噴き上がった。
男の野太い怒号が、戦場の轟音をすべて圧殺して響き渡る。
「第二城門がブチ破られる前にな──敵のケツから、馬車ごと突っ込むぞォォッッ!!!!」
バチィィィィィィンッッッッ!!!!
長鞭が、空気を切り裂いて四頭の巨馬の背中を力任せに叩いた。
ヒヒィィィィンッ! とけたたましい嘶きが大地を揺るがす。
四頭の巨馬の胸元から青白いアウラの光膜が爆発し、蹄が大地を抉る。
ゴオォォォォォォッッ!!
重装軍用馬車は凄まじい地響きを立てて跳ね上がり、三千の灰燼種が蠢く黒泥の包囲陣へ向けて──最高速度で突撃を開始した!
第9話をお読みいただき、本当にありがとうございました!
赤土の峡谷を抜けた第7小隊の目の前に広がっていたのは、第1防衛区が粉砕され、三千もの灰燼種に包囲された鉄鋼砦の地獄絵図!
散乱する武具と冷たく風化した白灰の山に息を呑みながらも、命を救うために不知火を握り締めたカナタ。
そして、絶望的な包囲陣を前に、隊長クロードの「敵のケツから馬車ごと突っ込む」という豪快極まりない突入命令が下されました!
第10話はクロードの黒炎が三千の包囲網を焼き払い、フェリの狙撃とシエルの暗殺が炸裂!
孤立した生存者部隊を救出するため、重装馬車が死線の中を駆け抜けます!
どうぞお楽しみに!




