第二話 かすみ、指先が覚えている
あの一週間のことを、今でも時折思い出します。
まだ何者でもなかったわたくしが、少しずつこの場所に馴染んでいった、そんな日々でした。
◇◆◇
「明日には知り合いに連絡してみます」
和真様はそう仰っていましたが、実際にその方──智子様と仰る方が、この古民家カフェにいらしたのは、それから一週間ほど後のことでした。
「智子さん、今週はどうしても手が離せないみたいで……ごめんなさい!!かすみさん、もう少しだけ待っていてもらえますか?」
電話を切った和真様は、申し訳なさそうにそう仰いました。わたくしは、慌てて首を振りました。
「和真様が謝ることではありんせん。わちきの方こそ、いつまでも厄介になってしもうて」
「いやいや!!かすみさんのこと、厄介だなんて……全然思ってないですよ?」
和真様は、少し困ったような、それでいて優しい笑みを浮かべられました。その言葉に、わたくしの胸はまた、じんわりと温かくなるのです。
名も、居場所も分からぬこの身を、これほどまでに気にかけてくださる。そのことが、まだどこか信じきれずにいる自分がいました。いつか、この温もりを失う日が来るのではないか──そんな不安が、胸の奥にひっそりと横たわっていたのです。
◇◆◇
智子さんが来られないことで、偶然生まれた一週間で、わたくしは少しずつ、この場所での暮らし方を覚えていきました。
卓を拭くこと。器を運ぶこと。豆を挽く、手回しの道具の使い方。何もかもが初めて目にするものばかりでしたが、体はなぜか、こういった立ち居振る舞いに慣れているようでした。指先が、覚えているのです。
「かすみさん、筋がいいね!!」
和真様のお祖父様が、目を細めてそう仰いました。皺の刻まれたお顔に浮かぶ笑みに、なぜか胸の奥がふっと締め付けられ、わたくしは一瞬、言葉に詰まりました。誰を思い出しているのかも、なぜ懐かしいのかも、自分では分からないのです。
「恐れ入りんす」
そう申しますと、お祖父様もお祖母様も、不思議そうに、けれどどこか懐かしそうに笑っていらっしゃいました。古風な言葉遣いが、この時代でどう聞こえるのか、わたくしにはまだよく分かりませんでした。
「無理せんでいいからね?体、まだ本調子じゃないんだから」
お祖母様がそう仰って、温かい茶を淹れてくださいました。見ず知らずのわたくしに、こうまで良くしてくださる。その温もりに触れる度、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じました。
豆を挽く手回しの道具は、初めのうちはうまく力加減が分からず、何度もお祖父様に手を取っていただきました。ごり、ごり、と豆の弾ける音が、静かな店の中に響きます。この音も、いつか懐かしく思い出す日が来るのだろうか──そんなことを、ふと考えました。
わたくしの着物姿を見かねたのでしょう。お祖母様は数日のうちに、簡素な普段着とエプロンを買い求めてきてくださいました。
「かすみさん、うちと背丈が違うから、これなら動きやすいと思って」
袖を通してみると、なるほど、体が軽く感じられました。エプロンの小さなポケットに、根付をそっと忍ばせます。懐に忍ばせていた頃とは違う心もとなさはありましたが、それでも、この温もりだけは肌身離さずにいたい──そう思わずにはいられませんでした。
夜になると、和真様は展示コーナーの品々について、少しずつお話ししてくださいました。上代家に代々伝わる品だということ、簪もその一つであること。わたくしは、その簪を見る度、なぜか胸が締め付けられるような、切ないような感覚に襲われるのでした。
「無理に思い出そうとしなくていいですよ。焦らなくても」
和真様の言葉に、わたくしはただ頷くことしかできませんでした。それでも、簪から目が離せずにいる自分に、少しだけ戸惑いを覚えていたのです。
◇◆◇
智子様がいらっしゃる少し前のことです。和真様の幼馴染だという方が、初めて店に姿を見せられました。
「和真!!ひさしぶり。今日、店番代わってあげよっか?」
「おっ!!紬か、いらっしゃい。今日は休みだったんだ?」
朗らかに笑うその方は、和真様と気安く言葉を交わしていらっしゃいました。長い付き合いなのだと、一目で分かるほどの、遠慮のない距離感でした。子供の頃から、こうして隣にいらしたのだろう──そんなことが、自然と伝わってくるやり取りでした。
わたくしに気づくと、紬様は一瞬、言葉を止められました。何か仰りたいことがあるような、それでいて、それを飲み込むような、そんな眼差しでした。
「この人が、例の……」
「うん。かすみさんって、俺たちは呼んでるんだけどさ?今、色々あって、うちで預かってるんだ」
「そう、なんだ……」
短くそう仰ると、紬様はそれ以上、多くを語られませんでした。ただ、和真様とわたくしを見比べるその眼差しだけが、わたくしの胸のどこかに、小さな棘のように残ったのです。
紬様は、それからもしばらく店に留まり、和真様と他愛のない話をしていらっしゃいました。カフェの経営のこと、お祖父様お祖母様の体調のこと。その様子を眺めていると、わたくしにはまだ知らない、二人だけの長い年月があるのだと、改めて感じさせられました。
お茶をお出ししようと、卓の傍に膝をついた時のことでした。エプロンのポケットから、紐の先がほんの少しだけ覗いたのでしょう。紬様が、ふと目を留められました。
「その根付……」
紬様の声が、僅かに掠れました。何かを確かめるような、それでいて、確かめることを躊躇うような、そんな響きでした。
「これは……」
わたくしにも、それが何であるのか、はっきりとは分かりませんでした。ただ、ポケットに入れていることだけは、なぜか当然のことのように感じていたのです。
「ううん、何でもないです。……うちにあるのと、ちょっと似てる気がして」
紬様はそう仰って、すぐに笑顔を作られました。けれど、その笑みの奥に、何か言葉を呑み込まれたような色が、確かにあったのです。
わたくしは、ポケットの根付にそっと指先を添えました。誰にもらったものかも、いつから持っていたのかも分かりません。それでも、この温もりだけは、決して手放してはならないもののように思えたのです。
◇◆◇
一週間が経った、ある週末のことでした。
「はじめまして。戸田智子と申します」
そう仰って現れたのは、白髪の交じった短い髪に、眼鏡をかけた、落ち着いた佇まいの女性でした。和真様のお祖父様お祖母様とは、長いお付き合いだと伺っております。
智子様は、卓を挟んでわたくしの向かいに腰を下ろされると、急かすでもなく、ゆっくりとお話を聞いてくださいました。記憶が戻らないこと、体の不調のこと、名も分からぬまま日々を過ごしていること──それらを、順を追って丁寧に尋ねてくださったのです。
「記憶がないこと、名前も分からないこと……大変でしたね?」
「ご迷惑をおかけしんす。わたくしのために、こうしてお時間を割いていただいて」
「迷惑だなんて、思ってませんよ?こういうお手伝いをするのが、私の仕事ですから!!」
智子様は、そう仰って柔らかく微笑まれました。それでいて、その眼差しの奥には、有無を言わせぬ芯の強さが宿っているようにも見えました。
「体のことも、身分のことも、これから少しずつ、整えていきましょうね?すぐには終わらないと思うけれど……焦らず、一つずつ」
「はい……よろしくお願い、いたしんす」
わたくしは、深く頭を下げました。智子様は、これから必要になる手続きについて、和真様にも簡単に説明してくださいましたが、それがどれほど長い道のりになるのか、この時のわたくしには、まだ分かっていませんでした。
名も、居場所も知れないこの身に、それでも、手を差し伸べてくださる方が、また一人増えました。少しずつ、拠り所ができていく──そんな予感を、その日は確かに感じていたのです。




