第一話 かすみ、と名付けられた夜
誰かの、声がします。
重い瞼を、ゆっくりと持ち上げました。目に映ったのは、見知らぬ天井でした。太い梁が渡された、古めかしい木の天井。それなのに、灯りだけは行灯のものではありません。白く、それでいて柔らかい光が、頭上からまっすぐに落ちてきています。
どうしてでしょう、体がひどく重たく感じられました。指先まで冷えているのに、額にはじっとりと汗が滲んでいます。まるで長い長い熱にうかされていたような、そんな気だるさでした。
静寂の中に、どこかから低く唸るような音が響いています。虫の音とも、風の音とも違う、聞いたことのない音でした。かすかに漂う匂いも、香でも白粉でもない、香ばしく、それでいてどこか苦みを帯びたものでした。
「大丈夫ですか」
声のする方へ、わたくしはゆっくりと顔を向けます。若い男の人が、こちらを覗き込んでいました。
その姿に、思わず息を呑みました。髷を結っておらず、髪は短く整えられています。纏っているのも、見たことのない仕立ての着物──いいえ、着物というより、もっと簡素な、体に沿った不思議な形の衣でした。腰には、白い前掛けのようなものを着けています。日に焼けた肌と、困惑しながらもこちらを気遣う眼差しだけは、不思議と人の温もりを感じさせるものでした。
身を起こそうとして、掌に触れた感触だけは、覚えのあるものでした。畳です。それだけが、辛うじてわたくしを繋ぎとめてくれる、確かなものでした。
衿元に触れた指先に、何か小さく硬いものの感触がありました。ただ、それが何であるのか、確かめる余裕は、今のわたくしにはありませんでした。
見回した部屋は、八畳ほどの広さでしょうか。畳の上に、見たこともない拵えの卓と、脚の細い椅子がいくつも並んでいます。木の色は古びていますが、造りそのものは、これまで目にしたどんな座敷とも違うものでした。部屋の隅には、小さな棚があり、何か古い品々が並べて飾られているのが見えます。壺、書付、そして──何か、小さな光るもの。目を凝らそうとしましたが、まだ頭がうまく働きません。
脇には広い廊下が続いていて、その先に、庭がぼんやりと見えました。松の枝影、椿らしき低木、遠くに石灯籠らしき影。夜風にそよぐ気配だけが、かすかに廊下を渡ってきます。懐かしいような、それでいてどこか歪んで見えるような、不思議な眺めでした。
「ここは……」
声が、掠れました。自分のものとは思えないほど、頼りない声でした。
「大丈夫ですか?ここは……その、僕の家です。えっと……実家のカフェで」
カフェ、という言葉の意味がわたくしには分かりません。それだけではなく、自分が今どこにいるのか、なぜここにいるのか、何一つ分からないのです。
深く思い出そうとしても、何も出てきません。ついさっきまで、誰かの傍にいたはずです。温かい手を、握っていたはずです。それなのに、その相手の顔さえも、朧げにしか浮かんできません。
「わたくしは……」
名を、名乗ろうとしました。でも、それに続く言葉が出てきません。
「わたくしは、誰……なのでしょう」
声にした途端、底知れない怯えが込み上げてきました。名前も、ここがどこかも、なぜここにいるのかも──何一つ、分からないのです。指先が震えているのに気づき、慌てて袖の中に隠しました。
目の前に立つ男の人は、しばらくわたくしの纏う着物を見つめていました。裾から袖にかけて、淡い霞のような文様があしらわれています。
「うーん。名前が分からないなら……かすみ、って呼んでもいいですか?お召しになられている、その着物の柄から」
かすみ。
その響きを胸の内で繰り返した時、なぜか目の奥が熱くなりました。理由は分かりません。それでも、その名は、どこか懐かしいもののように思えたのです。
「では、かすみ……そう、呼んでくださいますか」
小さく頷くと、男の人は少しだけほっとしたような顔をしました。
「僕は和真といいます。あの、驚かせてしまってすみません。実は……」
和真様は、言葉を選びながら、ぽつぽつと話し始めました。祖父から教わった手順で、夜遅くにアイスコーヒーの仕込みをしていたこと。作業の合間、棚に飾ってあった古い簪に、何気なく手を伸ばしてしまったこと。
「触れた瞬間、簪が急に小刻みに震えだして……眩い光を放ったと思ったら、僕の足元に、あなた……いや、かすみさんが倒れていたんです」
簪。
その一言に、なぜか胸の奥がぎゅっと締め付けられました。理由は分かりません。ただ、聞き覚えのない話のはずなのに、どこかで知っていたような、そんな感覚がありました。
「わたくしは……その、簪から」
「はい。信じられないと思いますけど……」
和真様も、まだ半信半疑という顔をしていました。無理もありません。わたくし自身、今この身に何が起きたのか、まるで分からないのですから。
簪、という言葉が、なぜか胸の奥に小さな棘のように刺さっていました。誰かに贈られた記憶があるような、それでいて、誰からだったのか、どうしても思い出せない。もどかしさだけが、じわりと広がっていきます。
わたくしは一体、何を失って、ここにいるのだろう。
──そう思った、その時でした。
「──っ、けほ、けほっ」
喉の奥から、堪えきれない咳がこみ上げてきました。乾いた咳ではありません。胸の底に何かが絡みついているような、重く湿った咳でした。息をするたびに、肺の奥がひやりと冷たくなります。
「だ……大丈夫ですか?!」
和真様が、慌てて背に手を添えてくれました。その手のひらの温もりに、少しだけ咳が治まっていきます。
「……失礼、いたしました」
息を整えながら、わたくしは俯きました。なぜ、こんな咳が出るのでしょう。体のどこかに、消えない痛みが眠っているような、そんな感覚がありました。理由は分かりません。ただ、この体が何かを抱えていることだけは、確かなようでした。
和真様は、しばらく黙ってわたくしを見つめていました。それから、静かに口を開きました。
「記憶がないことも、体調のことも……僕一人じゃ、正直どうにもできないです。知り合いに、こういうことに詳しい人がいるんです。明日にでも、相談してみてもいいですか?」
その声には、戸惑いながらも、放っておけないという意志がありました。見ず知らずの相手に、これほどまで親身になってくれる人がいるとは、正直なところ、思ってもみないことでした。
「よろしいのでしょうか。見ず知らずの、わたくしなどに」
「いや……見ず知らずだからこそ、余計に……僕は放っておけないんです」
和真様は、そう言って小さく笑いました。理屈になっていないその答えに、なぜかわたくしの胸は、少しだけ軽くなったのです。
名も、居場所も、何もかもを失ったこの身に、それでも差し伸べられる手がありました。見知らぬ場所、見知らぬ言葉、見知らぬ道具に囲まれながら、それでも恐怖より先に、小さな安堵が胸の内を満たしていくのを感じます。不思議なことでした。何もかもを忘れてしまったはずなのに、この人の手だけは、どこかで知っていたもののように、すんなりと受け入れられたのです。
窓の外では、庭の木々が夜風に揺れる気配がしています。松の匂いなのか、それとも別の何かなのか、かすかに漂う夜の香りが、乱れた心を少しだけ落ち着かせてくれました。遠くで、また例の低い唸り音が響きます。恐ろしいはずのその音にすら、次第に耳が慣れていくのを感じました。
わたくしは一体、何者だったのでしょう。それでも今は、この温もりに縋っていたい──そう思わずにはいられませんでした。




