薄雲、消えた遊女
あの夜のことを、わたくしは幾度となく思い返してきました。
こうして、あなたの隣で穏やかな朝を迎えられるようになった今でも、ふと目を閉じれば、雨の音と行灯の灯りが、鮮やかに蘇ります。
言葉を交わさずとも、あなたのそばにいるだけで心穏やかでいられます。もう咳に怯えることも、この想いを人目から隠す必要もありません。わたくしの過去のすべてを知った上で、それでもなお、あなたは全てを受け入れてくれました。そんな朝を迎えられる日が来るとは、あの頃のわたくしには、思いも寄りませんでした。あれは、わたくしがまだ「薄雲」であった頃──もう二百年も昔の、遠い夜の話です。
◇◆◇◆◇
行灯の灯が、静かに揺れていました。
障子の向こうで、雨が降り続けています。かすかな音を立てて、屋根を叩く雨粒の音だけが、この部屋に残された時間を数えているようでした。
「眞之介様」
わたくしは、隣に横たわるその方の頬に、そっと指先を這わせました。武家の子息らしい、涼やかな寝顔。この方のお傍にいられるのは、今宵が最後になる。そのことを、眞之介様はまだご存知ありません。
縁談のことは、風の噂で耳にしていました。由緒ある家柄の御息女との縁組。眞之介様の口からは、一度も語られたことはありませんでした。話せば、わたくしを苦しめると分かっていらしたのでしょう。それでいい、と思っていました。語らぬのは、わたくしを想ってのことだと分かっていたからです。
そしてもう一つ、眞之介様のご存知ないことがあります。
このところ、咳が止まりません。夜半、床に伏せる度に、胸の奥で何かが軋むような音がしました。手拭いに咲いた赤い染みを、誰にも見せぬよう、幾度となく隠してきました。医者の顔色を見れば、多くを聞かずとも分かります。この病は、治りません。桜の咲く頃までは、もたないでしょう。
ただ妹分の糸理だけには、隠しきれませんでした。
「姉さん、近頃ずっと顔色が優れんせんね」
三日前の夜、糸理はそう言って、わたくしの背をさすってくれました。気丈な妹に、これ以上心配をかけたくはありません。けれど、それを隠し通せるほど、糸理は鈍い娘ではありませんでした。
「大したことはありんせんよ。それより、そなたはどうざんす。惣一郎さんとのお話、進んでいるのでありんすか」
わたくしが話をそらすと、糸理は少し頬を赤らめました。呉服問屋の若旦那である惣一郎は、気弱で頼りなさげな人ですが、糸理には過ぎるほど誠実に接してくれているといいます。この苦界から、一人でも多く抜け出してほしい。それが、わたくしの本心でした。
「姉さんも、いつか」
糸理がそう言いかけた時、わたくしは笑って首を振りました。いつか、なんて言葉は、今のわたくしには似合いません。それを口にする資格すら、もう残されていないのですから。
今宵、眞之介様がここへいらっしゃると聞いた時、わたくしは迷いました。会えば、別れが辛くなる。ですが、それでも会わずにはいられませんでした。会わなければ、後悔だけが残ると分かっていたからです。
初めて眞之介様と出会ったのは、二年前の花見の頃でした。座敷に呼ばれ三味線を弾いていると、末席で盃を傾けていらした眞之介様と、ふと目が合いました。武家らしからぬ、はにかんだような笑み。あの時はまだ、この想いがどこへ向かうのかも知りませんでした。
わたくしのもとへ、通うてくださるようになったのは、それからすぐのことです。眞之介様は他の客のように贅を尽くすでもなく、ただ静かにわたくしの話を聞き、たまに拙い和歌を詠んでは照れたように笑っていらっしゃいました。身分も、生きる世界も違うわたくしたちが、こうして惹かれ合うことに、道理などなかったのかもしれません。それでも、心は理屈では動かせませんでした。
「近頃、痩せたのではないか」
着物越しに肩を抱かれながら、眞之介様がぽつりと仰いました。その声には、隠しきれない案じる色がありました。
「気のせいでありんしょう。眞之介様こそ、お忙しいのではありんせんか」
わたくしは、努めて明るく答えました。縁談のことを、この方の口から聞かされたくはありません。聞けば、涙を堪えられなくなります。今宵だけは、ただの想い人同士でいたかったのです。
「お前と、こうしていられるのは、幸せなことだ」
その言葉に、わたくしは微笑みだけを返しました。応える言葉を選べば、声が震えてしまいそうだったからです。
しばらくは、言葉少なに寄り添っていました。雨の音だけが、部屋を満たしていきます。やがて眞之介様の息が、規則正しいものに変わりました。
眠られたのです。
わたくしは、闇の中でそっと身を起こしました。眞之介様の寝顔を、時をかけて見つめます。この顔を、忘れずにいられるでしょうか。次に目を覚まされた時、わたくしはもうこの世にいないかもしれないというのに。
「もう一度、あなたに会えて良かった」
声には出さず、唇だけでそう紡ぎました。それから、簪をそっと髪から抜きます。眞之介様が、去年の暮れに贈ってくださったものです。銀の細工に、小さな蝶がとまっています。それを、眠る眞之介様の枕元に、そっと置きました。
「これだけは、あなたのもとに」
言葉にできなかったことは、たくさんありました。桜の下で待っていてほしいとも、生まれ変わったら、今度こそ添い遂げたいとも。けれど、それを口にすれば、眞之介様はきっと目を覚まされてしまいます。目を覚まされては、この決心が崩れてしまうから。
だから、ただ黙って、その手に自分の手を重ねました。
温かい。この温もりを、覚えておきたい。
瞼が重くなります。雨の音が、少しずつ遠くなっていきます。
これが、最後の夜になる。そんな予感だけを胸に、わたくしはゆっくりと目を閉じました。
◇◆◇◆◇
──あの夜、そのまま二度と目覚めることはないのだと、わたくしは思っていました。
けれど、目を閉じたその先で、わたくしを待っていたものは、覚悟していたものとは、まるで違うものだったのです。




