第三話 かすみ、頬を染める午後
そう……確か、智子様がお帰りになった翌朝のことです。
その日は、カフェの定休日でした。開け放たれた障子の向こうから、鳥の声だけが聞こえてくる、いつもより静かな朝でした。
「かすみさん、おはよう」
台所の方から、和真様のお声がしました。朝餉の支度をしながら、いつものように声をかけてくださる、その響きにも、わたくしはこの一週間ですっかり慣れました。
「おはようございんす」
卓を拭く手を止め、頭を下げました。もうすっかり板についた朝の所作でしたが、この家の暮らしに馴染んできたことを、ふと嬉しく思う自分もいました。
「あの、かすみさん?今日って、時間あります?」
和真様は、少し照れくさそうに、それでいてどこか改まったお顔で仰いました。
「智子さんも、これから少しずつ働いてもらうならって言ってたし……その、かすみさんの服とか、ちゃんと揃えに行きたいなって……」
「服、でありんすか」
祖母様に頂いた普段着とエプロンは、今もありがたく使わせていただいておりました。それ以上の何が必要なのか、わたくしにはすぐには分かりませんでした。
「うん。もし、かすみさんが……店に立つなら、もう少しちゃんとした物があった方がいいし……?あと、それだけじゃなくて」
和真様は、そこで少し言葉を濁されました。何か、言い出しにくいことがおありのようでした。
「下のものとか、そういうのも……祖母ちゃんに頼りっぱなしなの、かすみさんも気まずいでしょ」
その一言に、わたくしは思わず頬が熱くなるのを感じました。祖母様のご厚意に甘えていたことは確かでしたが、面と向かって言われると、途端に恥ずかしさが込み上げてきました。
「そ、それは……その通りでありんすが」
「だから、今日は二人で行きませんか。駅前に、色々揃うお店があるので」
二人で、という言葉に、わたくしの胸は小さく跳ねました。この一週間、和真様のお傍で過ごす時間は幾度もありましたが、こうして外へ、二人だけで出かけるのは初めてのことでした。
「よろしいのでありんすか。わちきなどのために、貴重な休みの日を」
「貴重な休みだからこそ、ですよ?」
和真様は、そう仰って小さく笑われました。その笑みに、わたくしはまた、あの夜と同じように、胸の奥が緩んでいくのを感じました。
「では……お言葉に甘えさせていただきんす」
窓の外では、朝の光が庭の松の葉先を白く光らせていました。今日という日が、これまでとは少し違う一日になる。そんな予感だけを胸に、わたくしは静かに頷いたのでした。
◇◆◇
カフェから駅前へは、和真様が運転する車で向かいました。
車という乗り物に乗るのは初めてで、わたくしは終始落ち着かない心地でした。動く座敷とでも言うのでしょうか。窓の外の景色が、目にも留まらぬ速さで流れていく様子に、思わず声を上げそうになるのを堪えました。
「大丈夫ですか、酔ったりしてませんか?」
「い、いいえ……ただ、あまりの速さに、肝を潰しんした」
和真様は、その返事に小さく笑いました。
駅前に着くと、そこには見たこともない賑わいが広がっていました。色とりどりの看板、絶え間なく行き交う人々、そして道の傍らに立つ、赤・黄・青と光を変える不思議な柱。
「あれは……何でありんしょう」
「信号ですよ。赤は止まれ、青は進んでいい、っていう合図です」
言われてみれば、なるほど、人も車も、その色に合わせて動きを止め、また動き出していました。よくできた仕組みだと、素直に感心しました。
さらに歩みを進めると、壁のように大きな箱から、冷えた飲み物がするりと出てくる様子を目にしました。
「自動販売機です。お金を入れると、好きな飲み物が出てくるんですよ」
「まるで、からくりでありんすね」
その一つ一つに目を見張るわたくしを、和真様は急かすでもなく、傍らでゆっくりと見守ってくださいました。
「ほら?こっちです。かすみさんに合いそうな店、何軒か目星つけてあるので」
迷いのない足取りで、商店街の奥へと進む和真様の背に、わたくしは少し驚きました。
「よくご存知でありんすね、この辺りのお店を」
「まあ、その……昔、紬の買い物によく付き合わされてたので。服とか、下着とかも……」
少し気まずそうに言うその横顔に、わたくしは思わず微笑んでしまいました。幼馴染という間柄の深さを、そんな一言からも感じさせられました。
「紬様は、良き幼馴染をお持ちでありんすね」
「……かすみさんも、そのうち会う機会増えると思いますよ」
和真様は、そう言うと、少し足を速めました。その横顔に浮かんだものが何であったのか、わたくしにはまだ、うまく読み取れずにいました。
◇◆◇
和真様が案内してくださったのは、若い女性向けの品を多く扱う、小さな洋服店でした。
「まずは仕事着から選びましょうか?エプロンの下に着る物なので、動きやすい物がいいと思います」
和真様は、迷いのない手つきで、いくつかの品を選び出してくださいました。袖の短い、簡素な仕立ての衣。裾から袖にかけて、余計な飾りのないその作りに、わたくしはどこか安堵を覚えました。
「これなら、卓を拭いたり、器を運んだりする時も、動きやすいと思います」
「ありがたく存じんす。……このような、体に沿った衣は、まだ少し落ち着きんせんが」
試着室から出た姿を、和真様はしげしげと眺められました。その眼差しに、わたくしは思わず頬を熱くしました。
「うん、似合ってます!!それにしましょう」
普段着も、同じように二、三着お選びいただきました。
ひとしきり品を選び終えた頃、和真様は店の奥の一角に目をやり、ふと足を止められました。棚に並ぶ、見たこともない小さな品々。淡い色合いの、薄い布で仕立てられたそれが何であるのか、わたくしにはすぐには分かりませんでした。
「あの、こっちは……その、下着なんですけど」
和真様は、珍しく歯切れの悪い口調で仰いました。
「さすがに、これは……店員さんに聞いた方がいいと思うので。僕はあっちで待ってますね」
そう言うと、和真様は逃げるように、離れた場所へと向かわれました。その背に、わたくしは戸惑いながらも、小さく頭を下げました。
入れ替わりに近づいてきた女性の店員が、にこやかに声をかけてくださいました。
「お客様、下着はどのような物をお探しですか」
問われて、わたくしは少し言葉を選びました。
「祖母様に、動きやすい質素な品を幾つか頂いておりんす。ただ、このように……飾りのついた華やかな物は、まだ身につけたことがありんせん」
正直にそう申しますと、店員は微笑んで頷かれ、レースやリボンのあしらわれた品々を、幾つか見せてくださいました。
淡い色の生地に、繊細な縁取りが施された品々を目にする度、わたくしの頬は熱くなる一方でした。理由も分からぬまま、こうして身を飾ることには、どこか覚えがあるような、そんな感覚がありました。けれどそれは、あくまで表に纏う着物や帯を彩ることだったような気がします。肌に最も近い所にまで、これほどの手間と美しさを凝らすというこの時代の心遣いに、驚きと戸惑いが入り混じりました。
会計を終えて店を出ると、和真様が所在なさげに立っていらっしゃいました。
「お、終わりました?」
「はい……お待たせしんした」
互いに、どこか気まずい沈黙が流れました。それでも、その気まずさの中に、不思議な温かさがあることに、わたくしは気づいておりました。見ず知らずのわたくしのために、恥を忍んでまで付き添ってくださる。その心遣いが、じんわりと胸に染み渡っていくのでした。
◇◆◇
カフェに戻ったのは、夕暮れ時のことでした。
庭の松の影が、廊下に長く伸びていました。玄関の障子を開けると、そこには思いがけない方が待っておいででした。
「和真、遅かったじゃん!!どこ行ってたの?」
紬様でした。腕を組み、努めて明るい調子で仰っていましたが、その眼差しの奥に、何か落ち着かないものが揺れているのを、わたくしは感じ取りました。
「あ、紬。今日は……」
「駅前で見たって、常連さんから聞いたよ?かすみさんと二人で、洋服店に入っていくとこ」
和真様は、一瞬言葉に詰まられました。
「智子さんに、これから店を手伝ってもらうならって言われたから。かすみさんには、仕事着とか、色々必要だったし?」
「ふうん。そう……なんだ」
紬様は、短くそう仰ると、それ以上多くを語られませんでした。ただ、わたくしの手にした紙袋へ、ちらりと目をやられた、その一瞬だけ、笑みの奥に翳りが差したように見えました。
「まぁ、紬。せっかく来たんだし、お茶でも飲んでいきなよ?」
和真様がそう仰ると、紬様は「うん」と頷いて、いつもの朗らかな笑みを浮かべ直されました。何事もなかったかのように、卓に着かれるその後ろ姿を、わたくしはしばらく見つめておりました。
紬様が何を思って、あの一瞬、目を伏せられたのか。わたくしには、まだ分かりませんでした。ただ、根付を見つめられた時と同じ、小さな翳りだけが、胸のどこかにそっと残ったのでした。




