第9話 連絡先
まさこと別れてから、三日が過ぎた。
ひろきは、何度もあの夜のことを思い返していた。
店を出たときの彼女の表情。 言葉を選びながら、自分の気持ちを話してくれた声。 そして、別れ際に交わした約束とも呼べない約束。
『また、ここで会えたらいいですね』
あの言葉を思い出すたび、胸の奥が少しだけ温かくなった。
また会いたい。
その気持ちは、日を追うごとに強くなっていた。
だが、ひろきには分かっていた。
もう一度会うためには、また偶然を待つしかない。
彼女がいつ店に来るのかも知らない。 どこに住んでいるのかも、普段どんな生活を送っているのかも、詳しくは知らなかった。
それでも、彼女のことを知りたいと思った。
何が好きなのか。 休日には何をしているのか。 どんなときに笑い、どんなときに泣きたくなるのか。
そんなことを考えている自分に気づくたび、ひろきは困惑した。
自分は、いつからこんなふうになってしまったのだろう。
ただ話を聞いてもらいたかっただけではなかったのか。
孤独を分かち合える相手が欲しかっただけではなかったのか。
それなのに、今は彼女のことをもっと知りたいと思っている。
その願いは、少しずつ形を変えていた。
*
「最近、機嫌がいいね」
夕食の席で、まなみが言った。
ひろきは箸を止めた。
「そうか?」
「うん。前より、ぼんやりしている時間が減った気がする」
「そうかな」
「この前、二人で出かけたからかな」
まなみは、少し照れくさそうに笑った。
「私、また行きたいな。ああいうところ」
「ああ。また行こう」
ひろきは答えた。
その言葉に嘘はなかった。
まなみと過ごす時間も、大切にしたいと思っている。
妻との関係を壊したいわけではない。
むしろ、できることなら、以前のような夫婦に戻りたかった。
互いの気持ちを遠慮なく話し、何気ないことで笑い合い、手をつなぐことに理由など必要なかった頃に。
けれど、まなみが笑っている姿を見ながら、ひろきの頭には、別の女性の顔も浮かんでいた。
まさこにも、笑っていてほしい。
自分の言葉で彼女の表情が和らぐなら、また話を聞いてあげたい。
そう思った。
その瞬間、ひろきは箸を置いた。
自分は何を考えているのだろう。
妻を大切にしたいという気持ちと、別の女性を気にかける気持ち。
二つの感情が、同じ胸の中に存在している。
どちらかが嘘なのだろうか。
それとも、人の心は、そんなに単純なものではないのだろうか。
「ひろき?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
また、その言葉を使ってしまった。
まなみは少しだけ彼を見つめたが、やがて食事に戻った。
ひろきは、妻の顔を見られなかった。
*
翌日の夕方。
しんいちは、病院の診察室に座っていた。
机の上には、前回の検査結果が置かれている。
医師は書類を確認しながら、慎重な口調で話し始めた。
「前回の検査では、精子の数や運動性などに、妊娠を難しくする所見が認められました」
しんいちは黙って聞いていた。
「ただし、一度の検査だけで、自然妊娠の可能性が完全にないと判断することはできません。再検査を行い、必要に応じて追加の検査も検討しましょう」
「……では、子供を授かる可能性はあるのですか」
「可能性を現時点で断定することはできません。結果を詳しく評価したうえで、今後の選択肢を考えていく必要があります」
しんいちは、膝の上で両手を組んだ。
子供を授かる可能性が、完全に閉ざされたわけではない。
その言葉に、わずかな希望を感じた。
同時に、これまでの自分を振り返らずにはいられなかった。
まさこが検査を受け、治療を受け、結果に傷ついてきた八年間。
自分は、その苦しみをどこまで理解していただろうか。
彼女の身体に原因があるのだと、どこかで決めつけていなかったか。
九条家の跡継ぎを望む父の言葉を、当然の責務として受け入れていなかったか。
しんいちは、医師に尋ねた。
「妻には、どのように説明すればよいでしょうか」
「検査結果をそのまま、正直に伝えてあげてください。ご夫婦で一緒に説明を聞くこともできます。治療をどうするかは、お二人で考えていくことが大切です」
正直に。
その言葉が、しんいちの胸に重く落ちた。
まさこには、真実を知る権利がある。
自分の身体についてのことなのだから、隠しておくべきではない。
そう分かっていた。
しかし、同時に恐れてもいた。
もし、まさこが自分との結婚生活に意味を見いだせなくなったら。
もし、子供を授かれない自分を、彼女が責めたら。
いや、本当に恐れているのは、それだけなのだろうか。
しんいちは、初めて考えた。
自分は、まさこに愛されたいのか。
それとも、九条家を継ぐ子供を産んでくれる妻を必要としているだけなのか。
答えは、すぐには出なかった。
*
その夜、九条家の食卓には、いつもどおりの料理が並んでいた。
宗一郎は、食事を終えると、しんいちに向かって言った。
「来月、親族が集まる。跡継ぎの話も、そろそろ具体的に考えなければならん」
しんいちは、箸を置いた。
「父さん。その話ですが……」
「何だ」
「子供のことは、私とまさこで考えさせてください」
宗一郎の眉が動いた。
「九条家の問題だぞ」
「分かっています」
「分かっているなら、悠長なことを言っている場合ではない」
しんいちは、しばらく父の顔を見つめていた。
これまでなら、反論しなかっただろう。
父の言葉は、九条家を守るためのものだった。
その責任を負うのは、自分だと思っていた。
だが、今は違った。
「まさこも、一人の人間です」
宗一郎は黙った。
「子供を産むためだけに結婚したわけではありません。少なくとも、私はそう思っています」
「ならば、跡継ぎはどうする」
「それを考える前に、私自身が向き合わなければならないことがあります」
しんいちは、検査結果のことを口にしようとした。
しかし、言葉が喉につかえた。
まだ、まさこにも伝えていない。
先に父へ話すことではないと思った。
「……近いうちに、まさこと話します」
それだけを告げ、しんいちは席を立った。
宗一郎は、何も言わなかった。
ただ、その背中を、長い間見つめていた。
*
数日後。
ひろきは、再びカフェを訪れた。
今度は、偶然を装うことさえしなかった。
仕事を終えたあと、まっすぐ店へ向かったのだ。
店内を見渡す。
まさこはいなかった。
ひろきは、窓際の席に座った。
コーヒーを注文し、スマートフォンをテーブルに置く。
来るかどうかも分からない人を待っている。
自分でも、ばかげていると思った。
もし、まさこが来なかったら。
これから先も、こうして何度も足を運ぶのだろうか。
彼女に会いたいという気持ちを、どこまで大きくしてしまうのだろうか。
コーヒーを一口飲んだとき、入口のベルが鳴った。
ひろきは顔を上げた。
まさこだった。
彼女は店内を見渡し、ひろきを見つけると、驚いたように立ち止まった。
「ひろきさん?」
「こんばんは」
「こんばんは。……また、お会いしましたね」
「ええ」
まさこは少し迷ったあと、彼の向かいに座った。
「今日は、お仕事帰りですか?」
「そうです。まさこさんは?」
「買い物の帰りです」
短い会話を交わしたあと、二人は笑った。
それだけで、ひろきは来てよかったと思った。
だが、同時に、これ以上は曖昧なままにしておけないとも感じていた。
いつまでも偶然を待つわけにはいかない。
彼女と話したいのなら、そう伝えるべきではないか。
もちろん、彼女が望まないなら、そこで終わりにすればいい。
ひろきはカップを置いた。
「まさこさん」
「はい?」
「もし、迷惑でなければ……連絡先を交換しませんか」
言葉にした瞬間、心臓が大きく鳴った。
まさこは、驚いたように彼を見た。
ひろきは慌てて付け加えた。
「いや、もちろん、無理にとは言いません。ただ、また話ができたらと思って。ここで会えるかどうか分からないですし」
言い訳のような言葉だった。
自分でも分かっていた。
本当は、ただ話がしたいだけではない。
彼女とつながっていたい。
今日会えなくても、彼女がどこかで暮らしていることを感じていたい。
その願いを、まだ正直に言うことはできなかった。
まさこは、テーブルの上に視線を落とした。
しばらく考えているようだった。
ひろきは、返事を待った。
断られても仕方がない。
そう思おうとしたとき、まさこが顔を上げた。
「……私も、またお話しできたらと思っていました」
彼女は、少しだけためらいながら微笑んだ。
「連絡先、交換しましょう」
ひろきは、ほっと息をついた。
「ありがとうございます」
二人はスマートフォンを取り出した。
電話番号を伝え、連絡先を登録する。
画面に表示された名前を、ひろきは見つめた。
九条まさこ。
これまでは、心の中で思い返すだけだった名前が、今は自分のスマートフォンの中にある。
いつでも連絡できる。
そう思っただけで、嬉しさが込み上げた。
そして、その嬉しさに気づいた瞬間、胸の奥に罪悪感が生まれた。
まなみの連絡先も、同じように登録されている。
妻の名前を見れば、二人で過ごした年月を思い出す。
まさこの名前を見れば、これから話せるかもしれない時間を想像する。
ひろきはスマートフォンを伏せた。
自分は、何をしているのだろう。
答えは分かっていた。
それでも、もう引き返す決意を固めることはできなかった。
*
帰り際、二人は店の前で立ち止まった。
「今日は、ありがとうございました」
まさこが言った。
「こちらこそ」
「また、連絡してもいいですか?」
「もちろんです」
ひろきは答えた。
まさこは微笑んだ。
「では、また」
「ええ。また」
彼女が歩き去ったあと、ひろきはしばらくその場に立っていた。
スマートフォンが、ポケットの中で小さな重みを持っている。
たった一つ、連絡先が増えただけだ。
誰かと知り合い、連絡先を交換する。
それ自体は、何も特別なことではない。
けれど、ひろきにとっては違った。
これからは、偶然に頼らなくても、まさこと話せる。
彼女が何かを話したいとき、自分に連絡をくれるかもしれない。
自分が寂しいとき、彼女に言葉を届けることもできる。
その可能性が、ひろきの心を満たしていた。
家に帰ると、まなみがリビングにいた。
「おかえり。今日は少し遅かったね」
「ああ。ちょっと寄り道してた」
ひろきは、そう答えた。
まなみは何気なく尋ねた。
「どこに?」
ひろきは、一瞬だけ言葉に詰まった。
正直に答えることもできた。
カフェに行っていた、と。
そこで知り合った女性と、話をしていた、と。
連絡先を交換した、と。
だが、ひろきは答えなかった。
「駅の近くで、コーヒーを飲んでた」
「そうなんだ」
まなみは、それ以上尋ねなかった。
ひろきは、ほっとした。
しかし、その安堵はすぐに苦しさへと変わった。
妻は、疑っていない。
自分の言葉を、そのまま信じている。
その信頼を利用して、自分は秘密を増やしている。
ひろきは、ポケットの中のスマートフォンを意識した。
そこには、まさこの名前がある。
そして、その名前を消したいとは思わなかった。
たった一つの連絡先が、ひろきの人生を変える最初の鍵になろうとしていた。
### 次回 第10話「優しい嘘」
連絡先を交換した翌日、まさこから短いメッセージが届く。
その一通に、ひろきの心は大きく揺れる。
一方、しんいちは、ついに自分の検査結果をまさこへ伝える決意をする。
三人はそれぞれ、相手を傷つけたくないという思いを抱えている。
しかし、誰かを傷つけないためについた嘘が、必ずしも誰かを守るとは限らない。




