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ひろきの人生の寄り道  作者: こうた
第一章 閉ざされた夫婦

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9/20

第9話 連絡先

まさこと別れてから、三日が過ぎた。


ひろきは、何度もあの夜のことを思い返していた。


店を出たときの彼女の表情。  言葉を選びながら、自分の気持ちを話してくれた声。  そして、別れ際に交わした約束とも呼べない約束。


『また、ここで会えたらいいですね』


あの言葉を思い出すたび、胸の奥が少しだけ温かくなった。


また会いたい。


その気持ちは、日を追うごとに強くなっていた。


だが、ひろきには分かっていた。


もう一度会うためには、また偶然を待つしかない。


彼女がいつ店に来るのかも知らない。  どこに住んでいるのかも、普段どんな生活を送っているのかも、詳しくは知らなかった。


それでも、彼女のことを知りたいと思った。


何が好きなのか。  休日には何をしているのか。  どんなときに笑い、どんなときに泣きたくなるのか。


そんなことを考えている自分に気づくたび、ひろきは困惑した。


自分は、いつからこんなふうになってしまったのだろう。


ただ話を聞いてもらいたかっただけではなかったのか。


孤独を分かち合える相手が欲しかっただけではなかったのか。


それなのに、今は彼女のことをもっと知りたいと思っている。


その願いは、少しずつ形を変えていた。


*


「最近、機嫌がいいね」


夕食の席で、まなみが言った。


ひろきは箸を止めた。


「そうか?」


「うん。前より、ぼんやりしている時間が減った気がする」


「そうかな」


「この前、二人で出かけたからかな」


まなみは、少し照れくさそうに笑った。


「私、また行きたいな。ああいうところ」


「ああ。また行こう」


ひろきは答えた。


その言葉に嘘はなかった。


まなみと過ごす時間も、大切にしたいと思っている。


妻との関係を壊したいわけではない。


むしろ、できることなら、以前のような夫婦に戻りたかった。


互いの気持ちを遠慮なく話し、何気ないことで笑い合い、手をつなぐことに理由など必要なかった頃に。


けれど、まなみが笑っている姿を見ながら、ひろきの頭には、別の女性の顔も浮かんでいた。


まさこにも、笑っていてほしい。


自分の言葉で彼女の表情が和らぐなら、また話を聞いてあげたい。


そう思った。


その瞬間、ひろきは箸を置いた。


自分は何を考えているのだろう。


妻を大切にしたいという気持ちと、別の女性を気にかける気持ち。


二つの感情が、同じ胸の中に存在している。


どちらかが嘘なのだろうか。


それとも、人の心は、そんなに単純なものではないのだろうか。


「ひろき?」


「ん?」


「どうしたの?」


「いや、何でもないよ」


また、その言葉を使ってしまった。


まなみは少しだけ彼を見つめたが、やがて食事に戻った。


ひろきは、妻の顔を見られなかった。


*


翌日の夕方。


しんいちは、病院の診察室に座っていた。


机の上には、前回の検査結果が置かれている。


医師は書類を確認しながら、慎重な口調で話し始めた。


「前回の検査では、精子の数や運動性などに、妊娠を難しくする所見が認められました」


しんいちは黙って聞いていた。


「ただし、一度の検査だけで、自然妊娠の可能性が完全にないと判断することはできません。再検査を行い、必要に応じて追加の検査も検討しましょう」


「……では、子供を授かる可能性はあるのですか」


「可能性を現時点で断定することはできません。結果を詳しく評価したうえで、今後の選択肢を考えていく必要があります」


しんいちは、膝の上で両手を組んだ。


子供を授かる可能性が、完全に閉ざされたわけではない。


その言葉に、わずかな希望を感じた。


同時に、これまでの自分を振り返らずにはいられなかった。


まさこが検査を受け、治療を受け、結果に傷ついてきた八年間。


自分は、その苦しみをどこまで理解していただろうか。


彼女の身体に原因があるのだと、どこかで決めつけていなかったか。


九条家の跡継ぎを望む父の言葉を、当然の責務として受け入れていなかったか。


しんいちは、医師に尋ねた。


「妻には、どのように説明すればよいでしょうか」


「検査結果をそのまま、正直に伝えてあげてください。ご夫婦で一緒に説明を聞くこともできます。治療をどうするかは、お二人で考えていくことが大切です」


正直に。


その言葉が、しんいちの胸に重く落ちた。


まさこには、真実を知る権利がある。


自分の身体についてのことなのだから、隠しておくべきではない。


そう分かっていた。


しかし、同時に恐れてもいた。


もし、まさこが自分との結婚生活に意味を見いだせなくなったら。


もし、子供を授かれない自分を、彼女が責めたら。


いや、本当に恐れているのは、それだけなのだろうか。


しんいちは、初めて考えた。


自分は、まさこに愛されたいのか。


それとも、九条家を継ぐ子供を産んでくれる妻を必要としているだけなのか。


答えは、すぐには出なかった。


*


その夜、九条家の食卓には、いつもどおりの料理が並んでいた。


宗一郎は、食事を終えると、しんいちに向かって言った。


「来月、親族が集まる。跡継ぎの話も、そろそろ具体的に考えなければならん」


しんいちは、箸を置いた。


「父さん。その話ですが……」


「何だ」


「子供のことは、私とまさこで考えさせてください」


宗一郎の眉が動いた。


「九条家の問題だぞ」


「分かっています」


「分かっているなら、悠長なことを言っている場合ではない」


しんいちは、しばらく父の顔を見つめていた。


これまでなら、反論しなかっただろう。


父の言葉は、九条家を守るためのものだった。


その責任を負うのは、自分だと思っていた。


だが、今は違った。


「まさこも、一人の人間です」


宗一郎は黙った。


「子供を産むためだけに結婚したわけではありません。少なくとも、私はそう思っています」


「ならば、跡継ぎはどうする」


「それを考える前に、私自身が向き合わなければならないことがあります」


しんいちは、検査結果のことを口にしようとした。


しかし、言葉が喉につかえた。


まだ、まさこにも伝えていない。


先に父へ話すことではないと思った。


「……近いうちに、まさこと話します」


それだけを告げ、しんいちは席を立った。


宗一郎は、何も言わなかった。


ただ、その背中を、長い間見つめていた。


*


数日後。


ひろきは、再びカフェを訪れた。


今度は、偶然を装うことさえしなかった。


仕事を終えたあと、まっすぐ店へ向かったのだ。


店内を見渡す。


まさこはいなかった。


ひろきは、窓際の席に座った。


コーヒーを注文し、スマートフォンをテーブルに置く。


来るかどうかも分からない人を待っている。


自分でも、ばかげていると思った。


もし、まさこが来なかったら。


これから先も、こうして何度も足を運ぶのだろうか。


彼女に会いたいという気持ちを、どこまで大きくしてしまうのだろうか。


コーヒーを一口飲んだとき、入口のベルが鳴った。


ひろきは顔を上げた。


まさこだった。


彼女は店内を見渡し、ひろきを見つけると、驚いたように立ち止まった。


「ひろきさん?」


「こんばんは」


「こんばんは。……また、お会いしましたね」


「ええ」


まさこは少し迷ったあと、彼の向かいに座った。


「今日は、お仕事帰りですか?」


「そうです。まさこさんは?」


「買い物の帰りです」


短い会話を交わしたあと、二人は笑った。


それだけで、ひろきは来てよかったと思った。


だが、同時に、これ以上は曖昧なままにしておけないとも感じていた。


いつまでも偶然を待つわけにはいかない。


彼女と話したいのなら、そう伝えるべきではないか。


もちろん、彼女が望まないなら、そこで終わりにすればいい。


ひろきはカップを置いた。


「まさこさん」


「はい?」


「もし、迷惑でなければ……連絡先を交換しませんか」


言葉にした瞬間、心臓が大きく鳴った。


まさこは、驚いたように彼を見た。


ひろきは慌てて付け加えた。


「いや、もちろん、無理にとは言いません。ただ、また話ができたらと思って。ここで会えるかどうか分からないですし」


言い訳のような言葉だった。


自分でも分かっていた。


本当は、ただ話がしたいだけではない。


彼女とつながっていたい。


今日会えなくても、彼女がどこかで暮らしていることを感じていたい。


その願いを、まだ正直に言うことはできなかった。


まさこは、テーブルの上に視線を落とした。


しばらく考えているようだった。


ひろきは、返事を待った。


断られても仕方がない。


そう思おうとしたとき、まさこが顔を上げた。


「……私も、またお話しできたらと思っていました」


彼女は、少しだけためらいながら微笑んだ。


「連絡先、交換しましょう」


ひろきは、ほっと息をついた。


「ありがとうございます」


二人はスマートフォンを取り出した。


電話番号を伝え、連絡先を登録する。


画面に表示された名前を、ひろきは見つめた。


九条まさこ。


これまでは、心の中で思い返すだけだった名前が、今は自分のスマートフォンの中にある。


いつでも連絡できる。


そう思っただけで、嬉しさが込み上げた。


そして、その嬉しさに気づいた瞬間、胸の奥に罪悪感が生まれた。


まなみの連絡先も、同じように登録されている。


妻の名前を見れば、二人で過ごした年月を思い出す。


まさこの名前を見れば、これから話せるかもしれない時間を想像する。


ひろきはスマートフォンを伏せた。


自分は、何をしているのだろう。


答えは分かっていた。


それでも、もう引き返す決意を固めることはできなかった。


*


帰り際、二人は店の前で立ち止まった。


「今日は、ありがとうございました」


まさこが言った。


「こちらこそ」


「また、連絡してもいいですか?」


「もちろんです」


ひろきは答えた。


まさこは微笑んだ。


「では、また」


「ええ。また」


彼女が歩き去ったあと、ひろきはしばらくその場に立っていた。


スマートフォンが、ポケットの中で小さな重みを持っている。


たった一つ、連絡先が増えただけだ。


誰かと知り合い、連絡先を交換する。


それ自体は、何も特別なことではない。


けれど、ひろきにとっては違った。


これからは、偶然に頼らなくても、まさこと話せる。


彼女が何かを話したいとき、自分に連絡をくれるかもしれない。


自分が寂しいとき、彼女に言葉を届けることもできる。


その可能性が、ひろきの心を満たしていた。


家に帰ると、まなみがリビングにいた。


「おかえり。今日は少し遅かったね」


「ああ。ちょっと寄り道してた」


ひろきは、そう答えた。


まなみは何気なく尋ねた。


「どこに?」


ひろきは、一瞬だけ言葉に詰まった。


正直に答えることもできた。


カフェに行っていた、と。


そこで知り合った女性と、話をしていた、と。


連絡先を交換した、と。


だが、ひろきは答えなかった。


「駅の近くで、コーヒーを飲んでた」


「そうなんだ」


まなみは、それ以上尋ねなかった。


ひろきは、ほっとした。


しかし、その安堵はすぐに苦しさへと変わった。


妻は、疑っていない。


自分の言葉を、そのまま信じている。


その信頼を利用して、自分は秘密を増やしている。


ひろきは、ポケットの中のスマートフォンを意識した。


そこには、まさこの名前がある。


そして、その名前を消したいとは思わなかった。


たった一つの連絡先が、ひろきの人生を変える最初の鍵になろうとしていた。


### 次回 第10話「優しい嘘」


連絡先を交換した翌日、まさこから短いメッセージが届く。


その一通に、ひろきの心は大きく揺れる。


一方、しんいちは、ついに自分の検査結果をまさこへ伝える決意をする。


三人はそれぞれ、相手を傷つけたくないという思いを抱えている。


しかし、誰かを傷つけないためについた嘘が、必ずしも誰かを守るとは限らない。


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