もう一度、会いたい
約束の日曜日。
ひろきとまなみは、久しぶりに二人で外食をすることになった。
行き先は、結婚して間もない頃によく通っていたイタリアンレストランだった。
駅から少し離れた、小さな店。
店内には木のテーブルが並び、窓際には季節の花が飾られている。以前と変わらない店構えに、ひろきは懐かしさを覚えた。
「まだあったんだね、ここ」
まなみが嬉しそうに言った。
「ああ。ずいぶん久しぶりだな」
「最後に来たの、いつだっけ?」
「……五年くらい前かな」
「そんなに?」
まなみは驚いたように目を丸くしたあと、笑った。
「もっと来てた気がする」
ひろきも笑った。
けれど、二人とも、それ以上は思い出せなかった。
かつては何度も通った場所なのに、最後に来た日のことさえ曖昧になっている。
それが、二人の過ごしてきた年月を表しているような気がした。
*
「何にする?」
メニューを開いたまなみが尋ねた。
「俺はいつものパスタかな」
「ひろき、昔からそれ好きだよね」
「まなみも、いつも同じの頼んでただろ」
「私は今日は違うのにする」
「珍しいな」
「たまにはね」
そんな些細な会話が続いた。
治療の予定も、検査結果も、妊娠の可能性も、今日は話題にしなかった。
ひろきは、久しぶりに肩の力が抜けるのを感じていた。
まなみも、穏やかな表情をしている。
食事が運ばれてくると、彼女は一口食べて、懐かしそうに目を細めた。
「おいしい」
「前と変わってないな」
「うん。なんか、安心する」
その言葉を聞いて、ひろきは彼女を見つめた。
まなみが安心できる場所。
自分と過ごす時間が、そんな場所であってほしいと思った。
そう願っていたはずだった。
「ねえ、ひろき」
「ん?」
「最近、私たち、こういう時間がなかったね」
「そうだな」
「二人で出かけても、病院の帰りだったり、何かのついでだったり」
まなみはフォークを置いた。
「私、いつからか、何をするにも治療のことを考えてた。今日食べていいものとか、次の通院までに気をつけることとか。生理が来たら落ち込んで、来なかったら期待して……」
そこで言葉を切った。
「ごめんね。せっかく楽しい話をしてたのに」
「謝らなくていいよ」
ひろきは答えた。
「俺だって、同じだから」
それは嘘ではなかった。
ひろきも何度も期待し、何度も失望してきた。
子供が欲しかった。
まなみと二人で、家族を作りたかった。
その願いがかなわないことは、彼にとっても苦しいことだった。
ただ、彼には、もう一つの苦しみがあった。
それを、まなみには話せなかった。
「ねえ、ひろき」
まなみが顔を上げた。
「私たち、これからどうなるんだろうね」
ひろきは、すぐには答えられなかった。
「子供ができなかったら、私たち、どうやって生きていけばいいんだろう」
「……子供がいなくても、二人で生きていけるだろ」
ようやく口にした言葉だった。
まなみは、少しだけ驚いたような顔をした。
「ひろきは、そう思う?」
「思うよ」
「本当に?」
その問いに、ひろきは目を伏せた。
本当は、分からなかった。
子供のいる未来を、何度も思い描いてきた。
自分が父親になること。
まなみが母親になること。
家族三人で食卓を囲み、休日には公園へ出かけること。
そんな未来を諦めることができるのか、自分でも分からなかった。
それでも、まなみを安心させたかった。
「少なくとも、まなみと一緒にいたいと思ってる」
ひろきは言った。
それは、彼の中に残っている確かな気持ちだった。
まなみはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……ありがとう」
その笑顔を見て、ひろきは胸が痛くなった。
彼女は、自分の言葉を信じようとしている。
自分もまた、信じたいと思っている。
なのに、心のどこかに、別の女性の姿が浮かんでいた。
まさこ。
彼女と話しているとき、自分は何を感じていたのだろう。
夫婦としての責任も、将来への不安も、一瞬だけ忘れていた。
ただ、目の前にいる人の言葉を聞き、自分の言葉を返す。
それだけの時間が、ひどく心地よかった。
ひろきは、その感覚を思い出すたびに、自分が嫌になった。
目の前には、自分を信じている妻がいる。
その妻との未来を語りながら、別の女性に会いたいと思っている。
自分は、いったい何を望んでいるのだろう。
*
帰り道、二人は駅まで並んで歩いた。
冬の風は冷たかったが、空は晴れていた。
「今日は楽しかった」
まなみが言った。
「俺も」
「また来ようね」
「ああ」
まなみは、そっとひろきの腕に触れた。
若い頃には、何も考えずにできたことだった。
最近は、こうして触れ合うことさえ、互いに少し遠慮してしまう。
ひろきは彼女の手を握った。
まなみは一瞬だけ驚いたあと、握り返した。
その手は、思っていたよりも冷たかった。
ひろきは、彼女を温めるように、少しだけ力を込めた。
まなみは何も言わなかった。
ただ、二人はそのまま歩いた。
ひろきは思った。
もう一度、やり直せるのかもしれない。
今までの時間を取り戻すことはできなくても、これからの時間を変えることはできるのかもしれない。
まなみと話そう。
治療のことだけではなく、二人が本当はどう生きたいのか。
子供がいる未来だけではなく、子供がいない未来についても。
そうすれば、少しずつでも、二人の距離を縮められるのではないか。
けれど、その決意は、家に帰り着く頃には、別の感情に揺さぶられていた。
まさこに会いたい。
その思いが、消えていなかったからだ。
*
数日後。
仕事を終えたひろきは、駅から自宅へ向かう途中で足を止めた。
目の前には、あのカフェへ続く道があった。
ここを曲がれば、数分で着く。
別に、行く必要はない。
まさこと会う約束などしていない。
彼女がいるとも限らない。
それなのに、足が動かなかった。
ひろきは腕時計を見た。
まだ、帰宅を急ぐほど遅い時間ではない。
妻には、仕事が少し長引いたと伝えればいい。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
また嘘をつこうとしている。
まだ何も起きていない。
そう言い聞かせていたはずなのに、今は、自分から会いに行こうとしている。
偶然ではない。
自分の意思だ。
ひろきは目を閉じた。
帰ろう。
そう思った。
けれど、しばらくして目を開けたとき、彼はカフェへ向かう道を歩き始めていた。
*
店内は、以前と変わらない静けさに包まれていた。
ひろきは入口のそばで立ち止まり、客席を見渡した。
窓際の席。
そこに、まさこがいた。
彼女は一人でカップを持ち、窓の外を眺めていた。
ひろきの胸が、強く打った。
会いたかった。
そう思った自分を、もう否定できなかった。
まさこが気配に気づき、顔を上げた。
そして、ひろきを見つけた。
一瞬、驚いたように目を見開く。
それから、ゆっくりと笑った。
「……ひろきさん」
名前を呼ばれただけだった。
それだけなのに、ひろきの中にあった緊張が、少しずつほどけていく。
「こんばんは」
「こんばんは。お久しぶりですね」
「そうですね」
ひろきは、彼女の向かいの席を見た。
「座ってもいいですか?」
「もちろんです」
ひろきは椅子を引き、腰を下ろした。
店員が水を運んでくる。
何か注文をしなければならない。
いつもなら簡単にできることなのに、ひろきは、何を頼めばいいのかさえ一瞬分からなくなった。
まさこが小さく笑った。
「今日は、何を飲まれますか?」
「……いつものコーヒーで」
「私も、いつものです」
その言葉に、二人は顔を見合わせた。
まるで、以前から何度もここで会っていたかのような会話だった。
実際には、まだ数えるほどしか会っていない。
それでも、ひろきには、彼女と過ごした時間が妙に鮮明に残っていた。
「今日は、お仕事帰りですか?」
「ええ。まさこさんは?」
「私も、少し用事があって。その帰りです」
「そうなんですね」
ありふれた会話だった。
けれど、その言葉の間に流れる沈黙は、以前ほど気まずくなかった。
むしろ、二人とも、その静けさを壊したくないようだった。
コーヒーが運ばれてくる。
ひろきはカップを持ち上げた。
「実は……また会えたらいいなと思っていたんです」
口にしてから、息が止まりそうになった。
言ってしまった。
曖昧な約束を、はっきりした願いに変えてしまった。
まさこはカップを置いた。
しばらく、何も言わなかった。
ひろきは視線を落とした。
「すみません。変なことを言いましたね」
「いいえ」
まさこは静かに首を振った。
「私も、またお話しできたらいいなと思っていました」
その言葉に、ひろきは顔を上げた。
彼女は、笑っていなかった。
ただ、まっすぐにひろきを見つめていた。
「家では、なかなか話せないことってありますよね」
「……ありますね」
「相手が悪いわけじゃないのに、話せなくなってしまうこともある」
まさこは、窓の外へ視線を移した。
「私、時々、自分が何を望んでいるのか分からなくなるんです」
「子供のことですか?」
「それもあります。でも、それだけじゃなくて」
彼女は、少しだけ言葉を探した。
「誰かに、私の気持ちを聞いてほしいんだと思います。答えを出してほしいわけでも、何かを変えてほしいわけでもなくて。ただ、私がどう感じているのかを、聞いてほしい」
ひろきは黙って聞いていた。
「九条家の妻として、子供を産むことを期待されている自分がいます。でも、私自身は……時々、何も考えずに笑っていた頃の自分に戻りたくなるんです」
まさこは、苦笑した。
「贅沢ですよね。子供が欲しいと思っているのに、こんなことを考えるなんて」
「贅沢なんかじゃないと思います」
ひろきは、すぐに答えた。
「子供が欲しいことと、自分自身の人生を大切にしたいことは、別の話でしょう」
まさこは、ゆっくりとひろきを見た。
「……そう言ってもらえると、少し楽になります」
ひろきは、その表情から目を離せなかった。
自分の言葉が、彼女の心に届いた。
それが嬉しかった。
同時に、自分の言葉を必要としてくれる彼女の存在が、たまらなく大切に思えた。
その気持ちが、どこへ向かおうとしているのか。
ひろきは、もう気づき始めていた。
*
店を出たとき、外はすっかり暗くなっていた。
「今日は、ありがとうございました」
まさこが言った。
「こちらこそ」
「お話しできて、よかったです」
「俺もです」
ひろきは、もう少し一緒にいたいと思った。
けれど、何と言えばいいのか分からなかった。
まさこも、すぐには立ち去らなかった。
二人の間に、短い沈黙が流れる。
「また……」
ひろきが言いかけた。
まさこが、ほんの少し顔を上げた。
「また、ここで会えたらいいですね」
以前と同じ言葉だった。
けれど、今度は違っていた。
偶然を願うだけの言葉ではない。
二人とも、もう一度会いたいと思っていることを、知っていた。
「ええ」
ひろきは答えた。
「また、会えたら」
まさこは微笑み、駅の方へ歩き始めた。
ひろきは、その後ろ姿を見送った。
追いかけることはしなかった。
手を伸ばすこともしなかった。
ただ、彼女が見えなくなるまで、そこに立っていた。
そして、ようやく自分の気持ちを認めた。
彼女に会いたかった。
話がしたかった。
彼女の前では、自分が何者であるかを説明しなくてもいいような気がした。
それが、どれほど危ういことなのか。
ひろきは、まだ本当の意味では理解していなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
今日、彼は自分の意思で、この場所へ来た。
誰かに誘われたわけではない。
偶然、通りかかったわけでもない。
自分が望んだから、ここへ来たのだ。
ひろきはスマートフォンを取り出した。
まなみからメッセージが届いていた。
『今日は遅くなる? 夕飯、どうする?』
画面を見つめたまま、ひろきは動けなかった。
妻が待っている。
帰るべき場所がある。
自分を信じてくれている人がいる。
それなのに、自分は今、別の女性と過ごした時間を、失いたくないと思っている。
ひろきは、返信を打ち始めた。
『少し遅くなる。夕飯は外で済ませるよ』
送信する直前、指が止まった。
正直に言うべきだった。
誰と会っていたのか。
何を話していたのか。
なぜ、その人に会いたかったのか。
けれど、今の自分には、何一つ説明できない気がした。
ひろきは、メッセージを送信した。
画面が暗くなる。
冬の空気が、頬に冷たく触れた。
彼は、ゆっくりと歩き始めた。
まだ、何も起きていない。
そう言い聞かせることはできる。
しかし、本当は分かっていた。
何も起きていないのではない。
何かが始まることを、自分が望み始めているのだ。
その事実だけは、もうごまかせなかった。
### 次回 第9話「連絡先」
偶然の再会を重ねるだけでは、二人の関係は続かない。
ひろきは、まさこと連絡先を交換したいと思い始める。
一方、九条家では、しんいちが医師に再び会い、自分の検査結果について詳しく聞く決意を固めていた。
それぞれが、口にできなかった本音へ近づいていく。
そして、ひろきがまさこに差し出す小さな申し出が、二人の関係を次の段階へ進めることになる。




