消えない面影
まさこに会わない日が続いていた。
それなのに、ひろきの頭から彼女の姿が消えることはなかった。
朝、駅へ向かう道を歩いているときも、会社で書類に目を通しているときも、ふとした瞬間に思い出す。
カフェの窓際の席。 白いカップから立ち上る湯気。 少し困ったように笑う彼女の顔。
そして、彼女が口にした言葉。
『自分の寂しさまで、悪いものだと思わなくてもいいんですよ』
ひろきは、その言葉を何度も思い返していた。
誰かに認めてほしかったのだろうか。
自分が苦しいことを。 妻を愛しているのに、満たされないことを。 妻が苦しんでいると知りながら、自分もまた苦しんでいることを。
そんな自分を、情けない男だと思わずに済む言葉が欲しかったのかもしれない。
けれど、まさこは彼を責めなかった。
だからこそ、ひろきは彼女に惹かれていた。
彼女の優しさが特別だったのか。 それとも、長い間、誰にも触れられなかった自分の心が、ようやく誰かに見つけてもらえたからなのか。
その違いさえ、ひろきには分からなかった。
*
「最近、何かあった?」
夕食のあと、まなみが尋ねた。
ひろきは、テーブルの上に置いていたスマートフォンから顔を上げた。
「何が?」
「なんとなく。ぼんやりしてることが多いから」
「仕事が忙しいだけだよ」
口から出た言葉は、あまりにも自然だった。
嘘をつくことに慣れていたわけではない。
ただ、説明しなくて済む言葉を選ぶことには、ずいぶん慣れてしまっていた。
仕事が忙しい。 疲れている。 少し考え事をしていた。
どれも、夫婦の間にある沈黙を埋めるには都合のいい言葉だった。
「そっか」
まなみは、それ以上尋ねなかった。
彼女は食器を重ね、流し台へ運んでいく。
その背中を見ながら、ひろきは胸の奥に小さな痛みを感じた。
以前なら、もう少し話をしていた気がする。
今日あったこと。 会社で起きた些細な出来事。 帰り道で見かけた店のこと。
そんな、何の役にも立たない話を、二人で笑いながら続けていた。
いつから、そんな時間がなくなったのだろう。
不妊治療が始まってからだろうか。
それとも、治療を始める前から、少しずつ互いの気持ちを確かめることをやめてしまっていたのだろうか。
ひろきには分からなかった。
「まなみ」
「ん?」
「今度、どこか食べに行かないか?」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
まなみは食器を持ったまま、振り返った。
「外食?」
「うん。たまには二人で」
彼女の表情が、ほんの少しだけ明るくなった。
「いいね。久しぶりだね、そういうの」
「ああ」
「どこに行こうか。昔よく行ったイタリアン、まだあるのかな」
「どうだろう。調べてみるよ」
「うん。楽しみにしてる」
まなみは笑った。
その笑顔を見た瞬間、ひろきは自分が何をしようとしているのか分からなくなった。
まなみを大切にしたい。
その気持ちは、確かに残っている。
彼女と過ごした十二年は、嘘ではない。
初めて手をつないだ日のことも、結婚式で緊張していた彼女のことも、二人で暮らし始めた小さな部屋のことも、今でも覚えている。
子供ができたら、どんな名前をつけようか。
どんな家に住もうか。
そんな未来を、二人で何度も語り合った。
その未来が思い描いたとおりにならなかったからといって、これまでの幸せまで消えてしまったわけではない。
分かっている。
分かっているのに。
ひろきの心には、もう一つの場所ができてしまっていた。
そこには、まさこがいた。
*
翌日の昼休み。
ひろきは会社の食堂で、同僚たちの話を聞きながら弁当を食べていた。
「うちの子、最近ぜんぜん言うこと聞かなくてさ」
向かいに座る佐伯健吾が、苦笑いを浮かべた。
「昨日も寝かしつけるのに一時間だよ。一時間」
「大変だな」
「大変だよ。でも、まあ、子供なんてそんなもんだろ」
健吾はそう言って笑った。
ひろきも笑顔を返した。
けれど、その言葉が胸に残った。
子供なんて、そんなもの。
何気ない言葉だった。
健吾に悪気などない。
彼にとって、子供がいる生活は、忙しくて、騒がしくて、ときには面倒なものなのだろう。
それでも、その生活は彼の日常だった。
ひろきたちが何年も願い、何度も失望し、諦めかけてはまた希望を持ってきたものが、誰かにとっては当たり前の毎日の一部なのだ。
「ひろき?」
「ん?」
「大丈夫か? 今日、静かだな」
「そうか?」
「何か悩んでるなら聞くぞ。俺でよければだけど」
健吾の言葉に、ひろきは一瞬だけ迷った。
話せるだろうか。
妻との関係に悩んでいること。 満たされない気持ちを抱えていること。 そして、その寂しさを分かってくれる女性と出会ったこと。
そこまで話してしまえば、自分が何を考えているのか、はっきりしてしまう気がした。
「いや、何でもないよ」
結局、ひろきはそう答えた。
健吾は、それ以上追及しなかった。
けれど、別れ際に一言だけ言った。
「何でもないって言ってると、本当に何でもないことまで、誰にも話せなくなるぞ」
ひろきは返事ができなかった。
*
その夜、ひろきは自宅のソファに座り、スマートフォンを手に取っていた。
連絡先の一覧を開く。
まさこの名前は、まだそこにはない。
電話番号も知らない。
次にいつ会えるのかも、分からない。
ただ、また会えたらいいですね。
あの日、二人はそう言った。
それだけだ。
約束と呼ぶには曖昧で、期待するには頼りない言葉だった。
それでも、ひろきはカフェの前を通れば、彼女がいるのではないかと思うようになっていた。
会いたい。
その気持ちを認めるまでに、ずいぶん時間がかかった。
そして、認めてしまった今は、その気持ちをどう扱えばいいのか分からなかった。
まさこに会えば、きっとまた話をするだろう。
お互いの苦しさを聞き、慰め合うのだろう。
その時間が、自分にとって大切なものになっている。
だが、それは本当に、ただの慰め合いなのだろうか。
彼女に会いたい理由は、孤独を埋めるためだけなのか。
それとも、自分が男として必要とされたいからなのか。
あるいは、妻には言えなくなった願いを、彼女なら受け止めてくれると期待しているからなのか。
ひろきはスマートフォンを伏せた。
答えは出なかった。
「……何やってるんだろうな、俺」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
そのとき、廊下からまなみの声がした。
「ひろき、お風呂、先に入る?」
「ああ。今、行くよ」
ひろきは立ち上がった。
いつもと変わらない家。
いつもと変わらない妻。
けれど、自分の心だけが、少しずつ違う場所へ向かっている。
それを、まだ引き返せると考えていた。
会わなければいい。
考えなければいい。
もう一度、妻と向き合えばいい。
そうすれば、きっと元に戻れる。
ひろきは、そう自分に言い聞かせた。
しかし、心の奥底では分かっていた。
人は、誰かを思い出すことを、簡単にはやめられない。
ましてや、その人の前でだけ、自分の弱さを隠さずにいられたのなら。
まさこは、まだ何も求めていない。
ひろきも、まだ何も約束していない。
それでも、彼女の存在は、彼の日常の中に静かに入り込んでいた。
そして、ひろきが最も恐れていたことは、彼女に惹かれていることそのものではなかった。
まさこと過ごす時間を、失いたくないと思い始めていることだった。
*
同じ頃、まなみは寝室で一人、結婚当初の写真を見ていた。
若い二人が並んで笑っている。
ひろきは少し緊張した顔をしていて、まなみは彼の腕に寄り添っていた。
あの頃は、未来がどこまでも続いているような気がしていた。
子供が生まれて、家族が増えて、年を重ねて。
何年か後には、二人で昔話をしながら笑っているのだと思っていた。
けれど、現実は違った。
治療の予定が生活を埋め、結果に一喜一憂し、期待することさえ怖くなっていった。
ひろきも、きっと苦しかったのだろう。
自分だけが苦しんでいるわけではない。
それは分かっていた。
それなのに、まなみは最近、夫の顔をまっすぐ見ることが少なくなっていた。
何かを聞かれるのが怖かった。
何も聞かれないことも、怖かった。
「ひろき……」
小さく名前を呼んでみる。
隣の部屋からは、物音ひとつ聞こえない。
まなみは写真を閉じ、枕元に置いた。
夫婦の間には、まだ言葉にできないことがたくさんある。
そして、言葉にしないままでは、いつか取り返しのつかないところまで離れてしまうのかもしれない。
彼女は、まだ知らなかった。
夫が自分に話せないことを抱え始めていることを。
そして、その秘密が、二人の関係を少しずつ変えようとしていることを。
ただ、胸の奥に残る小さな違和感だけが、静かに大きくなっていた。
冬の夜は、まだ長い。
誰もが眠りについた家の中で、三人の心はそれぞれ違う場所を向いていた。
ひろきは、消えない面影を抱えたまま。
まなみは、失いたくない日常に怯えながら。
そして、まさこは――。
九条家の寝室で、隣に眠る夫の背中を見つめていた。
夫婦であるはずなのに、何を考えているのか分からない。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、心は遠い。
まさこはそっと目を閉じた。
誰かと、ただ話がしたかった。
自分が何者であるかを忘れられる時間が欲しかった。
九条家の妻でもなく、子供を産むことを期待される女でもなく。
ただ、一人の人間として。
その願いが、いつか誰かを傷つけることになるとは、まだ想像もしていなかった。
誰もが、寂しさを抱えていた。
けれど、その寂しさが人を救うのか、それとも過ちへ導くのか。
冬は、まだその答えを明かそうとはしなかった。
次回 第8話「もう一度、会いたい」
ひろきは、まなみとの時間を取り戻そうとする。
けれど、夫婦で出かけた食事の席で、二人の間にある距離を改めて思い知らされる。
そして数日後、ひろきは再び、あのカフェの前に立つ。
偶然を期待しているのか。
それとも、自分から会いに来たのか。
その答えを、ひろき自身が一番よく分かっていた。




