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ひろきの人生の寄り道  作者: こうた
第一章 閉ざされた夫婦

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第六話 夫の秘密

九条しんいちは、書斎の机に置かれた一枚の診断書を、もう一度手に取った。


何度読み返しても、そこに書かれた内容は変わらなかった。


医師から説明を受けたときも、しんいちはほとんど質問をしなかった。


理解できなかったわけではない。


むしろ、理解できてしまったからこそ、言葉が出なかった。


自分には、子供を授かることが極めて難しい事情がある。


長年、妻のまさこに原因があるのではないかと考えていた。


もちろん、医師に責任を押しつけるようなことを言った覚えはない。それでも心のどこかで、検査を続ければ、いずれ原因が見つかり、適切な治療によって子供を授かれると信じていた。


八年間。


まさこは治療を続けてきた。


薬の副作用に悩み、検査のたびに期待と不安を繰り返し、それでも子供を望む気持ちを捨てなかった。


その姿を、しんいちは見ていた。


見ていたはずだった。


それなのに、自分自身の検査については、これまで真剣に向き合おうとしてこなかった。


「……何をしていたんだ、私は」


誰もいない書斎で、しんいちはつぶやいた。


怒りの矛先がどこに向いているのか、自分でもわからなかった。


医師に対する怒りではない。


まさこに対する怒りでもない。


自分自身に対する怒りなのだろう。


だが、そう認めたところで、何かが変わるわけではなかった。


九条家には、長い歴史がある。


代々受け継がれてきた土地、財産、事業。そして、家を継ぐ者がいることを当然とする価値観。


しんいちは、その環境で育った。


幼い頃から、父の宗一郎に言われ続けてきた。


――九条の名を絶やすな。


それは命令というより、呼吸のように自然なものだった。


家を守ること。


家の名に恥じないこと。


次の世代へ受け継ぐこと。


しんいちは、それを疑ったことがなかった。


自分が何を望んでいるのかさえ、考える必要がなかったのだ。


結婚も、まさことの生活も、跡継ぎを望むことも。


すべては九条家を存続させるための、当然の道筋だと思っていた。


しかし、今、その道筋が目の前で途切れていた。


*


「あなた、まだ起きていらしたの?」


書斎の扉が開き、まさこが顔をのぞかせた。


しんいちは、反射的に診断書を裏返した。


「ああ。少し仕事が残っていてな」


「そうですか」


まさこは、それ以上尋ねなかった。


手には、温めた紅茶のカップがあった。


「冷めないうちにどうぞ」


「ありがとう」


しんいちはカップを受け取った。


まさこは机の向かい側に立ったまま、夫の顔を見つめていた。


「最近、眠れていないのではありませんか?」


「そう見えるか?」


「ええ。食事のときも、何か考え込んでいらっしゃることが多いので」


しんいちは、妻の顔を見た。


彼女は心配しているのだろう。


少なくとも、今の表情からはそう見えた。


八年間、子供を望んできた妻。


その妻に、自分の検査結果を告げるべきなのだろうか。


いや、告げなければならない。


そう考える一方で、しんいちは言葉を飲み込んだ。


もし伝えれば、まさこはどう思うだろう。


これまでの治療は何だったのかと、悲しむかもしれない。


自分を責めてきた時間を悔やむかもしれない。


あるいは、ようやく原因がわかったと、安堵するのだろうか。


そのどれもが想像できた。


しかし、彼女が何を望んでいるのか、しんいちは知らなかった。


自分は妻のことを、どれほど理解していたのだろう。


「まさこ」


「はい」


「……君は、子供が欲しいか?」


まさこは、少しだけ目を見開いた。


「もちろんです」


迷いのない答えだった。


「結婚したときから、ずっとそう思っています」


「そうか」


「あなたも、そうでしょう?」


しんいちは返事をしなかった。


まさこはその沈黙を、夫なりの疲労だと思ったのかもしれない。


「大丈夫です。まだ、できることはあると思いますから」


そう言って微笑んだ。


その笑顔を見た瞬間、しんいちの胸に、これまで感じたことのない痛みが走った。


彼女は、まだ自分を信じている。


九条家の跡継ぎを産むために、これからも努力を続けようとしている。


しかし、その努力がどれほど報われるのか。


しんいちには、もう簡単に答えることができなかった。


「……あまり無理をするな」


「はい」


まさこは一礼し、書斎を出ていった。


扉が閉じる。


しんいちは、しばらくその場から動けなかった。


診断書を裏返す。


そこには、自分が目を背け続けてきた現実が記されていた。


彼は初めて、九条家を守ることよりも先に、妻に何を伝えるべきかを考えた。


*


翌朝。


しんいちは、朝食の席で父の宗一郎と向き合っていた。


宗一郎は七十六歳になっても、背筋が伸び、言葉に迷いがなかった。


「来月、親族を集めることにした」


「親族を?」


「九条家の今後について、そろそろ話をしておきたい」


しんいちは箸を置いた。


「今後、とは?」


「決まっているだろう。跡継ぎのことだ」


宗一郎は、当然の話をするように言った。


「まさこさんも、もう十分に努力してくれている。だが、いつまでも同じことを繰り返すわけにはいかん」


しんいちは、父の言葉を聞きながら、診断書の内容を思い出していた。


十分に努力してくれている。


その言葉の裏には、妻が責任を果たせていないという認識が、まだ残っている。


そして、父は知らない。


いや、知らないままでいるのだ。


「父さん」


「何だ」


「もし、子供を授かれなかったら、九条家はどうなるんですか?」


宗一郎の手が止まった。


「何を言っている」


「仮の話です」


「仮の話であっても、そんなことを考える必要はない」


宗一郎は、きっぱりと言った。


「九条の家を守るのは、お前の責任だ。方法を考えるのも、お前の役目だ」


しんいちは父を見つめた。


この人は、自分が子供を授かることの難しさを知ったら、何と言うのだろう。


自分を責めるのか。


まさこに責任を求めることをやめるのか。


それとも、血筋を守るためなら、どんな方法でも探せと言うのか。


しんいちは、まだ何も伝えられなかった。


「……わかりました」


そう答えると、宗一郎は満足したように新聞へ視線を戻した。


話は終わった。


少なくとも、父にとっては。


*


その日の午後。


しんいちは、仕事の合間に一人で車を走らせていた。


行き先は決めていなかった。


ただ、九条家の屋敷にいると、何もかもが自分の責任であるように感じられた。


子供を授かれないこと。


妻に真実を伝えられないこと。


父に逆らえないこと。


そして、自分が何を望んでいるのかさえわからないこと。


どれも、今まで考えずに済ませてきた問題だった。


信号待ちで車を止めたとき、しんいちは歩道を歩く親子を見た。


小さな男の子が、父親の手を引っ張っている。


何かをねだっているらしい。


父親は困った顔をしながらも、最後には笑って子供の頭をなでた。


それだけの光景だった。


けれど、しんいちは目を離せなかった。


自分は、子供が欲しいのだろうか。


それとも、九条家を守るために子供を必要としているのだろうか。


今まで、その二つを区別したことがなかった。


子供を授かることができれば、家は続く。


跡継ぎがいれば、父も安心する。


自分は責任を果たせる。


ずっと、そう考えていた。


しかし、もし本当に子供を育てることになったら。


その子を愛することができるのだろうか。


家の名を継ぐ者としてではなく、一人の人間として。


自分の子供が何を望み、何に苦しみ、どんな人生を歩みたいのか。


その気持ちを、尊重できるのだろうか。


信号が青に変わった。


後続車のクラクションが聞こえ、しんいちは我に返った。


車を発進させながら、彼は初めて思った。


九条家を守ることが、自分の人生のすべてであっていいのだろうか。


その問いに、答えはなかった。


*


夜。


九条家の書斎で、しんいちは診断書を封筒に戻した。


明日、医師にもう一度話を聞きに行こう。


自分の状態について、可能性も限界も、すべて確認しよう。


そのうえで、まさこに話す。


そう決めた。


ただし、父にはまだ伝えない。


父に話せば、九条家の問題として処理されてしまう気がした。


まずは、自分と妻の問題として考えなければならない。


そう思った。


机の上には、まさこが置いていった紅茶のカップがあった。


中身はすっかり冷めていた。


しんいちは、それを見つめた。


妻は、自分を信じている。


その信頼に応えるために、何をすべきなのか。


答えはまだ見つからなかった。


しかし、これまでのように何も考えず、家のためという言葉だけで済ませることは、もうできなかった。


しんいちは、書斎の明かりを消した。


廊下の先には、まさこの寝室がある。


彼はその扉の前で足を止めた。


中から、物音はしなかった。


声をかけようかと思った。


けれど、結局、何も言えなかった。


扉一枚の向こうにいる妻にさえ、自分の本当の気持ちを伝えられない。


それが、今の自分だった。


しんいちは静かに歩き出した。


九条家の未来を決める前に、まず自分自身の人生を見つめ直さなければならない。


そのことに、彼はようやく気づき始めていた。


### 次回 第七話「消えない面影」


ひろきは、まさこと過ごした時間を忘れられずにいた。


仕事をしていても、妻と食事をしていても、ふとした瞬間に彼女の言葉がよみがえる。


一方、まなみは夫の小さな変化に気づき始めていた。


何かが違う。


けれど、それが何なのかはわからない。


まなみは、これまで避けてきた問いを、初めて自分の中で口にする。


――私たちは、本当にこのままでいいのだろうか。


それぞれの胸に生まれた疑問は、やがて四人の運命を少しずつ変えていく。


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