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ひろきの人生の寄り道  作者: こうた
第一章 閉ざされた夫婦

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同じ傷を持つ

十二月の半ば。


街路樹の葉はほとんど落ち、夕方になると、街は早々に夜の色へと沈んでいった。


ひろきは仕事を終えると、いつもの駅へ向かう道を少しだけ変えた。


理由は、自分でもわかっていた。


あの喫茶店に行きたい。


そして、できることなら、あの女性に会いたい。


九条まさこ。


名前を思い浮かべただけで、胸の奥に小さな熱が生まれた。


もちろん、恋愛感情などと呼べるものではない。少なくとも、ひろきはそう自分に言い聞かせていた。


ただ、彼女と話しているときだけは、自分の人生がうまくいっていないことを、無理に隠さなくてもよかった。


それが、ひろきにとっては何よりも大きかった。


喫茶店の扉を開けると、カウンターの奥で店主が顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


店内には数人の客がいた。


ひろきは、窓際の席に目を向けた。


そこに、まさこがいた。


彼女は両手でコーヒーカップを包み込み、窓の外を眺めていた。


ひろきに気づくと、少し驚いた顔をしたあと、穏やかに微笑んだ。


「こんにちは」


「こんにちは。……また、会えましたね」


「そうですね」


まさこはそう言って、向かいの椅子を軽く引いた。


「よかったら、どうぞ」


その言葉に、ひろきは一瞬だけためらった。


彼女が自分を待っていたわけではない。


偶然、同じ場所にいただけだ。


それでも、隣に座るのではなく、向かい合って話せることが、なぜかうれしかった。


「ありがとうございます」


ひろきはコーヒーを注文し、椅子に腰を下ろした。


しばらく、二人は他愛のない話をした。


仕事のこと。


年末の忙しさ。


寒さが厳しくなってきたこと。


どれも、特別な話題ではなかった。


けれど、ひろきは気づいていた。


まさこと話している間、自分は彼女の言葉を急かさなかった。


無理に笑わせようともしなかった。


沈黙が訪れても、何かを言わなければと焦ることもなかった。


ただ、そこにいることが自然だった。


「ひろきさんは……」


まさこが、ふいに口を開いた。


「奥さんと、今でも仲がいいんですか?」


予想していなかった質問だった。


ひろきはカップに視線を落とした。


「仲が悪いわけじゃないんです」


「はい」


「一緒にご飯も食べますし、普通に話もします。仕事の愚痴を聞いたり、休日に買い物へ行ったりもします」


そこまで話して、ひろきは苦笑した。


「でも、夫婦というより……長く一緒に暮らしている家族、という感じなのかもしれません」


まさこは黙って聞いていた。


「子供が欲しくて、治療を始めて。最初の頃は、二人で頑張ろうって話していたんです。いつかきっと、って」


「……私たちも、そうでした」


「でも、何年も続けていると、少しずつ変わってしまうんですよね」


ひろきは言葉を選びながら続けた。


「検査の日程を確認して、薬のことを話して、次の通院はいつで。夫婦の会話が、いつの間にか予定表みたいになってしまって」


まさこは、膝の上で指を組んだ。


「わかります」


その一言は、静かだった。


しかし、ひろきには、その短い言葉の中に、彼女が過ごしてきた長い年月が詰まっているように思えた。


「本当は、妻もつらいんだと思います。身体の負担もあるし、期待して、駄目だったら落ち込んで。その繰り返しですから」


「ひろきさんも、つらいでしょう?」


まさこが尋ねた。


ひろきは、すぐには答えられなかった。


自分のつらさを言葉にすることに、慣れていなかった。


男なのだから、妻を支えなければならない。


自分まで弱音を吐いたら、二人とも倒れてしまう。


そんなふうに考えていた。


「……つらいです」


やがて、ひろきは小さく答えた。


「正直に言うと、何がつらいのか、自分でもわからなくなることがあります」


まさこは目を伏せた。


「子供ができないことなのか。それとも、子供ができないことで、二人の関係まで変わってしまったことなのか」


ひろきはカップを持ち上げた。


コーヒーは、もう少し冷めていた。


「それに、こんなことを考える自分が嫌になるんです。妻だって頑張っているのに、自分の寂しさばかり考えている気がして」


まさこは、ゆっくりと顔を上げた。


「自分の寂しさを感じることまで、悪いことにしなくてもいいんじゃないでしょうか」


その言葉に、ひろきは彼女を見つめた。


「……そう思いますか?」


「はい。誰かを大切に思うことと、自分が寂しくないことは、同じじゃないと思うんです」


まさこの声は、かすかに震えていた。


「私も、ずっとそうでしたから」


彼女は窓の外へ視線を向けた。


「子供が欲しいんです。本当に、欲しいんです。だから、どんなに苦しくても、頑張らなきゃいけないと思っていました」


彼女の指先が、カップの縁をなぞった。


「でも、ときどき思うんです。私は、子供を産むためだけに生きているのかなって」


ひろきは何も言わなかった。


慰めの言葉を探そうとしたが、見つからなかった。


きっと、簡単な言葉をかけるべきではないのだと思った。


「夫は悪い人ではありません。私にひどいことをするわけでもないんです。ただ……私たちの結婚には、最初から大きな目的がありました」


「目的?」


「九条家を継ぐ子供を産むことです」


まさこは、寂しそうに笑った。


「もちろん、それだけがすべてではないはずです。でも、結婚してから何年も経つと、何のために結婚したのか、その答えが少しずつ一つに絞られていくんです」


ひろきは、彼女の言葉を胸の中で繰り返した。


子供を持つために結婚したわけではない。


けれど、子供ができないことで、結婚そのものの意味まで問われてしまう。


それは、ひろきにも覚えのある苦しみだった。


「まさこさんは……自分のために生きていると感じること、ありますか?」


尋ねてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。


しかし、まさこは怒らなかった。


むしろ、困ったように微笑んだ。


「最近は、あまりありません」


その答えが、ひろきには痛かった。


彼女もまた、自分の人生をどこかに置き忘れてしまった人なのだ。


そして、おそらく自分も。


窓の外では、細かな雪が舞い始めていた。


まさこはそれに気づき、目を細めた。


「雪ですね」


「この前も降っていましたね」


「ええ。あの日、ひろきさんと話せてよかったです」


思いがけない言葉だった。


ひろきは、すぐに返事ができなかった。


自分だけが、彼女との時間を大切に思っていたわけではない。


そのことが、うれしかった。


そして同時に、少し怖かった。


彼女の言葉が、これから自分の中でどんな意味を持ってしまうのか。


考えたくなかった。


それでも、考えずにはいられなかった。


「僕もです」


ひろきは、ようやく答えた。


「まさこさんと話していると、無理に大丈夫なふりをしなくてもいい気がするんです」


まさこは、しばらく彼を見つめていた。


その瞳には、喜びとも悲しみともつかない色が浮かんでいた。


「私も、同じです」


その一言で、二人の間にあった距離が、ほんの少しだけ変わった。


何かが始まったわけではない。


約束を交わしたわけでもない。


ただ、誰にも見せられなかった自分の弱さを、相手が知っている。


それだけのことだった。


けれど、人はときに、その「それだけのこと」に救われてしまう。


そして、救われた相手を、いつの間にか特別な存在だと思い始める。


それが正しいことなのか。


許されることなのか。


二人には、まだわからなかった。


*


午後六時過ぎ。


ひろきは、まさこと一緒に店を出た。


外は冷え込んでいた。


駅へ向かう道は、帰宅する人々で混み合っている。


「今日は、ありがとうございました」


まさこが言った。


「こちらこそ」


二人は、駅の手前で立ち止まった。


それぞれの帰る場所は違う。


ひろきには、まなみが待つ家がある。


まさこには、九条家という大きな家がある。


帰らなければならない場所があるからこそ、二人は今、ここで別れなければならなかった。


「また、お会いできたらいいですね」


まさこが言った。


以前と同じ言葉だった。


けれど、今回は少しだけ違って聞こえた。


「……はい」


ひろきは答えた。


まさこは軽く頭を下げ、人波の中へ歩いていった。


ひろきは、その背中を追わなかった。


追ってはいけないと思った。


彼女が振り返ることを、心のどこかで期待しながら。


*


家に帰ると、まなみは台所に立っていた。


「おかえり。遅かったね」


「うん。ちょっと仕事が長引いて」


嘘だった。


仕事は、いつもどおりの時間に終わっていた。


まなみは「そう」とだけ答え、鍋の火を弱めた。


ひろきは、その横顔を見つめた。


彼女も疲れている。


毎日、仕事をして、治療のことを考えて、期待と不安を抱えながら生きている。


そんな妻を、自分は愛している。


その気持ちは嘘ではなかった。


それなのに。


今日、まさこと話していた時間を思い出すと、胸の奥が温かくなる。


誰にも言えなかった寂しさを、誰かがわかってくれた。


その感覚が、まだ身体の中に残っていた。


「ひろき?」


まなみの声で、我に返った。


「どうしたの?」


「いや、なんでもない」


「疲れてる?」


「ちょっとね」


まなみは心配そうに彼を見た。


「無理しないでね」


その言葉に、ひろきの胸が痛んだ。


優しい妻だった。


自分を気遣ってくれる妻だった。


それなのに、自分は今、別の女性のことを考えている。


ひろきは、まなみの肩に手を置こうとした。


けれど、触れる直前で、わずかに手が止まった。


まなみは気づかなかった。


「ご飯、もうすぐできるから」


そう言って、再び台所へ向き直った。


ひろきは、自分の手を見つめた。


何もしていない。


まだ、何も。


そう言い聞かせることができる。


けれど、心はもう、何も起きていない場所には戻れない気がした。


その夜、ひろきはなかなか眠れなかった。


隣では、まなみが静かな寝息を立てている。


ひろきは天井を見つめながら、まさこの言葉を思い出していた。


――自分の寂しさを感じることまで、悪いことにしなくてもいいんじゃないでしょうか。


その言葉は、彼を救ってくれた。


しかし同時に、これから自分が踏み出そうとする一歩に、言い訳を与えてしまうかもしれなかった。


ひろきは目を閉じた。


自分は、ただ話をしたいだけだ。


もう一度、彼女と話したいだけなのだ。


そう繰り返しながら。


冬の夜は、静かに更けていった。


次回 第六話「夫の秘密」


九条しんいちは、男性不妊の検査結果を前に、長い時間、動けずにいた。


子供ができなかった原因は、妻だけにあるのではなかった。


九条家が守り続けてきた血筋。その存続を何よりも重んじてきた男にとって、検査結果は人生の前提を覆すものだった。


しんいちは、妻に真実を告げるべきなのか。


それとも、九条家を守るために、別の道を選ぶべきなのか。


彼が選び始めた道は、ひろきとまさこの関係にも、やがて影を落としていく。


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