雪の日の約束
翌週の水曜日。
ひろきは、会社の窓から灰色の空を眺めていた。
昼過ぎから降り始めた雨は、夕方になる頃には雪へと変わるらしい。
天気予報を確認してスマートフォンを伏せると、机の上に置かれた書類が目に入った。
明日までに仕上げなければならない資料だった。
取りかからなければならない。
分かっているのに、なかなか手が動かなかった。
仕事が嫌いなわけではない。生活のために働き、家に帰れば妻がいる。それだけで十分に幸せなはずだった。
それなのに、最近は何をしていても、心のどこかに空白があった。
子供がいないこと。
妻との会話が減ったこと。
そして、先週出会った女性のこと。
九条まさこ。
あの喫茶店で交わした会話を、ひろきは何度も思い返していた。
彼女が最後に見せた、少し寂しそうな笑顔。
誰にもつらいと言えない。
その言葉が、妙に心に残っていた。
「おい、ひろき。どうした?」
同僚の佐伯健吾が、机の横から顔をのぞかせた。
「いや、何でもない」
「ぼんやりしてるぞ。寝不足か?」
「まあ、そんなところ」
「また病院か?」
健吾は、悪気なく尋ねた。
ひろきの表情がわずかに曇る。
「ああ。来週な」
「そっか。大変だな」
健吾はそれ以上、深く聞かなかった。
「まあ、あんまり思い詰めるなよ。考えすぎても仕方ないしな」
そう言い残し、自分の席へ戻っていった。
ひろきは苦笑した。
考えすぎても仕方ない。
そんなことは、自分でも分かっている。
けれど、考えずにはいられないのだ。
十年間、何度も期待して、何度も落胆してきた。
次こそはと思うたび、心のどこかで、また駄目だったらどうしようと考えてしまう。
希望を持つことさえ、怖くなっていた。
ひろきはパソコンの画面に目を戻した。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、まなみからのメッセージだった。
『来週の病院、やっぱり一人で行こうと思う。仕事を休んでもらうのも申し訳ないし』
ひろきは画面を見つめた。
付き添うことが負担なのだろうか。
それとも、自分が一緒にいることで、まなみを余計に緊張させてしまうのだろうか。
何と返せばいいのか、すぐには分からなかった。
しばらく考えてから、返信した。
『分かった。でも、何かあったらいつでも言ってくれ』
送信したあと、ひろきはスマートフォンを伏せた。
妻を支えたい。
その気持ちは変わらない。
ただ、自分もまた、誰かに支えてほしいと思っていた。
そんな気持ちを抱くこと自体、身勝手なのだろうか。
窓の外では、雨が雪に変わり始めていた。
*
午後六時半。
ひろきは会社を出た。
まなみは今日は遅くなると言っていた。
夕食をどうするか考えながら駅へ向かっていると、先週立ち寄った喫茶店の看板が目に入った。
何となく、足が止まった。
あの女性は、今日も来ているだろうか。
そんな考えが浮かび、自分自身に苦笑した。
何を期待しているのだろう。
たった一度、話をしただけの相手だ。
名前を知っているだけで、どんな人間なのかもよく分からない。
それなのに、もう一度会いたいと思っている。
ひろきは、しばらく店の前に立っていた。
そして、扉を開けた。
ベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
店員が笑顔で迎えてくれた。
店内を見渡す。
窓際の席は空いていた。
ひろきは、少しだけ残念な気持ちになった。
自分でも、その感情に戸惑った。
コーヒーを注文し、カウンターに近い席へ座る。
今日は一人で飲んで帰ろう。
そう決めたときだった。
「……ひろきさん?」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、入口にまさこが立っていた。
落ち着いた色のコートを着て、手には小さな傘を持っている。
彼女も驚いたような顔をしていた。
「九条さん」
「やっぱり、ひろきさんですよね」
「はい。お久しぶりです」
まさこは、少し迷ってから笑った。
「ここ、座ってもいいですか?」
「もちろんです」
彼女が向かいの席に腰を下ろした。
それだけのことなのに、ひろきの胸には不思議な安堵が広がった。
また会えた。
その事実が、思っていた以上に嬉しかった。
*
「今日は、お仕事帰りですか?」
まさこが尋ねた。
「ええ。九条さんも?」
「私は買い物の帰りです。少しだけ寄って帰ろうと思って」
「そうなんですね」
店員が水を運んできた。
まさこはコーヒーを注文し、両手を膝の上に置いた。
「この前は、ありがとうございました」
「え?」
「話を聞いてもらったことです」
彼女は照れたように笑った。
「初対面の人に、あんな話をするなんて思っていませんでした」
「僕もです」
ひろきは正直に答えた。
「普段、あまり人に話さないので」
「私もですよ」
二人は、少しだけ笑った。
それから、まさこは窓の外を見た。
「私、治療のことを考えると、最近は病院へ行く前から疲れてしまうんです」
ひろきは黙って聞いていた。
「結果がどうなるか分からないのに、期待してしまうんです。今度こそ、今度こそって」
彼女の指先が、テーブルの上で小さく動いた。
「でも、駄目だったとき、また最初から立ち直らなければならないでしょう?」
「……そうですね」
「それが、もうしんどくて」
まさこは、そこで言葉を切った。
ひろきは、自分の胸の中にある感情が、少しずつ形になっていくのを感じていた。
この人は、自分と似ている。
もちろん、まったく同じではない。
家庭も、仕事も、育ってきた環境も違う。
けれど、誰にも見せられない弱さを抱え、それでも日常を続けなければならないという苦しさは、よく分かった。
「僕も、病院の日が近づくと、落ち着かなくなります」
ひろきは言った。
「妻には言わないですけどね。妻のほうが、もっとつらいだろうと思うので」
「……優しいんですね」
まさこが言った。
ひろきは、首を横に振った。
「優しいというか、言えないだけです」
その言葉に、まさこは静かにうなずいた。
「私も、そうかもしれません」
会話が途切れた。
けれど、気まずさはなかった。
沈黙していても、何かを無理に話さなくてもいい。
ひろきにとって、それは久しぶりの感覚だった。
*
コーヒーが運ばれてきた。
まさこはカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。
「ひろきさんは、奥さんと仲がいいんですか?」
突然の質問だった。
ひろきは少し考えた。
「……悪くはないと思います」
「悪くはない?」
「妻のことは大切です。でも、最近は、何を話せばいいのか分からなくなることがあります」
まさこは、視線を落とした。
「分かる気がします」
「九条さんも?」
「はい。夫婦なのに、話すことが必要なことばかりになってしまって」
病院の予定。
家の用事。
仕事の話。
生活を続けるための会話はある。
しかし、心の奥にある思いを話すことは、ほとんどなくなっていた。
「本当は、何でもない話をしたいんです」
まさこが言った。
「今日、こんなことがあったとか。こんなものを見つけたとか。そういう話を、何も考えずにしたいんです」
ひろきは、彼女を見つめた。
「……僕もです」
まさこは、少し驚いたように笑った。
「同じですね」
「そうですね」
二人の間に、また沈黙が訪れた。
窓の外では、雪が降り始めていた。
街灯の光に照らされた雪が、ゆっくりと地面へ落ちていく。
まさこは、しばらくその景色を眺めていた。
「私、こんなふうに話せる相手がいるとは思いませんでした」
ひろきは、すぐには答えられなかった。
自分も同じだったからだ。
彼女と話していると、自分が夫として、男として、何かを証明しなければならないという焦りを、少しだけ忘れられた。
ただ、一人の人間として、話を聞いてもらえている。
それが嬉しかった。
そして、その嬉しさに甘えてはいけないという気持ちも、どこかにあった。
まなみを裏切りたいわけではない。
妻を捨てたいわけでもない。
それなのに、目の前の女性と話す時間が終わってほしくないと思っている。
その矛盾に、ひろきはまだ名前をつけられなかった。
*
午後七時半。
まさこが時計を見た。
「そろそろ帰らないと」
「そうですね」
二人は会計を済ませ、店の外へ出た。
雪は、先ほどよりも少し強くなっていた。
まさこは傘を開いた。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
ひろきは、何か言いたい気持ちになった。
また会いたい。
そう伝えれば、彼女はどう思うだろう。
ただ話をするだけだ。
そう自分に言い聞かせることはできる。
けれど、本当にそれだけなのだろうか。
ひろきは迷った。
まさこもまた、何かを待っているように、彼の顔を見ていた。
「……また、ここで会えたらいいですね」
ひろきは言った。
まさこは、少しだけ目を見開いた。
それから、柔らかく笑った。
「はい。私も、そう思います」
約束と呼ぶには、あまりにも曖昧な言葉だった。
日時も決めていない。
連絡先を交換したわけでもない。
次に会える保証など、どこにもなかった。
それでも二人は、互いの顔を見て、もう一度だけ笑った。
「それでは」
「お気をつけて」
まさこが歩き出した。
ひろきは、その後ろ姿を見送った。
彼女の傘が、雪の向こうへ遠ざかっていく。
やがて見えなくなったところで、ひろきは小さく息を吐いた。
不思議な時間だった。
家に帰れば、いつもの生活が待っている。
妻がいて、食卓があって、明日の仕事がある。
何も変わらない。
そう思っていた。
しかし、帰り道を歩くひろきの胸には、久しぶりに小さな期待が生まれていた。
明日、何かが起こるわけではない。
人生が急に変わるわけでもない。
それでも、もう一度、あの人と話したい。
その思いだけが、冷たい夜の中で、妙に温かかった。
*
同じ夜。
九条家の書斎で、しんいちは一枚の書類を見つめていた。
それは、以前から依頼していた男性不妊に関する検査結果だった。
医師から説明を受けた内容は、決して楽観できるものではなかった。
しんいち自身の生殖能力に、重大な問題がある可能性が高い。
これまで、彼はまさこの身体に原因があるのではないかと考えていた。
しかし、そうではなかった。
自分に原因がある。
その事実を認めることは、彼にとって簡単ではなかった。
九条家の男として、跡継ぎを残すことは当然の責務だと教えられてきた。
それができないかもしれない。
しんいちは、書類を机に置いた。
そして、窓の外を見た。
雪が降っている。
彼は、妻の顔を思い浮かべた。
まさこは、子供を欲しがっている。
自分との間に子供ができる可能性が低いと知ったら、彼女はどうするだろう。
離婚を望むだろうか。
それとも、この家から逃げ出すだろうか。
しんいちは、目を閉じた。
彼にとって、まさこへの愛情が最優先ではなかった。
九条家を存続させること。
そのために、子供を残すこと。
それが、彼の人生の中心にあった。
もし、自分以外の男との間に子供が生まれたとしても。
その子供を、自分の子として育てることができるなら。
九条家の未来を守れるのなら。
しんいちは、そこまで考えてから、ゆっくりと目を開いた。
まだ、何も決まってはいない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
この家では、愛情よりも優先されるものがある。
そして、その価値観が、やがて三人の人生を大きく変えることになる。
雪は、夜が更けても降り続いていた。




