九条家の妻
午後六時二十分。
ひろきは、会社を出たあと、駅前の商店街を歩いていた。
十二月の風は冷たかった。
コートの襟を立て、足早に帰ろうとしたところで、スマートフォンが震えた。
まなみからだった。
『今日、少し遅くなります。先にご飯を食べていてね』
短いメッセージだった。
ひろきは返信を打つ。
『了解。気をつけて帰ってきて』
送信して、スマートフォンをポケットにしまった。
夕食はどうしようか。
外で食べて帰るのもいい。家で簡単に済ませてもいい。
そんなことを考えながら歩いていると、通りの向こうに、小さな喫茶店が見えた。
昔ながらの木製の看板。大きな窓から漏れる暖色の光。窓際には観葉植物が置かれ、入口には手書きのメニューが掛かっている。
以前から気になっていた店だった。
ひろきは足を止めた。
たまには、一人でゆっくりするのも悪くない。
そう思い、扉を開けた。
小さなベルが鳴った。
*
九条まさこは、窓際の席で冷めかけたコーヒーを見つめていた。
三十二歳。
身に着けているコートも、手元のバッグも、決して安いものではない。整えられた髪と控えめな化粧。人目を引く華やかさというより、育ちのよさを感じさせる落ち着いた雰囲気があった。
しかし、彼女の表情は沈んでいた。
テーブルの上には、病院から持ち帰った書類が入った封筒が置かれている。
今日も、期待していた結果は得られなかった。
八年間。
まさこは、その年月を頭の中で数えた。
結婚して八年というわけではない。結婚生活の中で、治療に費やしてきた年月が八年になったのだ。
最初の頃は、夫も協力してくれた。
病院へ付き添い、医師の説明を聞き、治療がうまくいかなかったときには励ましてくれた。
だが、年月が過ぎるにつれて、夫の態度は変わっていった。
正確には、変わったというより、もともと持っていた考えが、はっきりと見えるようになったのかもしれない。
九条家には、守らなければならないものがある。
財産。
家名。
そして、跡継ぎ。
まさこは結婚する前から、そのことを聞かされていた。
ただ、結婚すれば、いつか自分もこの家を好きになれると思っていた。
夫婦として暮らし、子供が生まれれば、きっと家族になれる。
そう信じていた。
けれど、現実は違った。
夫の九条しんいちは四十九歳。
穏やかで、声を荒らげることはほとんどない。高価なものを与え、生活に不自由させることもなかった。
しかし、夫婦の間に必要な温もりは、驚くほど少なかった。
しんいちは性に対して関心が薄く、まさこと身体を重ねることも、子供を授かるための行為として捉えていた。
まさこは、夫を嫌っているわけではない。
感謝している部分もある。
だが、妻として大切にされているという実感が、どうしても持てなかった。
彼女はコーヒーカップを持ち上げた。
苦みだけが、舌に残った。
「……疲れた」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
そのときだった。
入口のベルが鳴った。
*
ひろきは店内を見渡し、カウンターから少し離れた席に座った。
「いらっしゃいませ」
店員の女性が水を運んできた。
「ブレンドコーヒーと、何か軽く食べられるものをお願いします」
「サンドイッチでしたら、すぐにご用意できます」
「じゃあ、それで」
注文を終え、ひろきはコートを脱いだ。
店内には客が数人いた。
仕事帰りらしい男性。ノートを広げる若い女性。そして、窓際に座る一人の女性。
ふと、その女性と目が合った。
女性はすぐに視線をそらした。
ひろきも、何となく気まずさを感じてメニューへ目を落とした。
だが、しばらくすると、再び視線を感じた。
顔を上げると、女性が困ったような表情でこちらを見ていた。
「あの……」
女性が声をかけてきた。
「はい?」
「すみません。こちらのお店、よく来られるんですか?」
突然の質問に、ひろきは少し戸惑った。
「いえ、今日が初めてです」
「そうなんですね」
女性は、ほっとしたように笑った。
「実は、いつも一人で来ているので、少し気になってしまって」
「そうなんですか」
ひろきは曖昧に笑った。
何を話せばいいのか分からなかった。
すると、女性はテーブルの上の封筒に目を落とした。
「ごめんなさい。変なことを聞いてしまって」
「いえ、そんなことないですよ」
会話はそこで終わるはずだった。
しかし、女性の顔に浮かんだ疲れた表情が、ひろきの心に引っかかった。
どこか、自分と似ている。
そんな気がした。
もちろん、初対面の人間の何が分かるわけでもない。
それでも、笑顔の奥に何かを隠しているような、そんな雰囲気があった。
「……何かあったんですか?」
気がつけば、ひろきは尋ねていた。
女性は驚いたように顔を上げた。
「え?」
「あ、すみません。余計なことを聞きました」
「いえ……」
女性は少し迷ってから、言った。
「今日は、病院へ行ってきたんです」
「病院ですか」
「はい」
彼女は封筒を指先で押さえた。
「不妊治療の病院です」
その言葉を聞いた瞬間、ひろきの表情が変わった。
女性も、それに気づいた。
「もしかして……」
彼女は、言いかけて口を閉じた。
ひろきは、しばらく黙っていた。
初対面の相手に話すようなことではない。
そう思った。
しかし、胸の奥にしまい込んできた言葉が、不意に口をついて出た。
「うちも、なんです」
女性は、じっとひろきを見つめた。
「……そうなんですね」
「はい」
それ以上、二人は何も言わなかった。
店内には、コーヒーを淹れる音と、静かな音楽が流れていた。
ひろきは、初めて会ったばかりの女性に、自分のことを話してしまったのが不思議だった。
普段なら、他人に家庭の事情を話すことはない。
会社の同僚にも、詳しいことは伝えていない。
まなみの気持ちを考えれば、なおさらだった。
それなのに、この女性には、少しだけ話してもいいような気がした。
「長いんですか?」
女性が尋ねた。
「ええ。もう十年になります」
女性の目が、わずかに揺れた。
「十年……」
「そちらは?」
「八年です」
彼女は小さく笑った。
「長いですよね」
ひろきはうなずいた。
「本当に」
その一言には、二人が経験してきた年月が詰まっているようだった。
*
「私、九条まさこと申します」
女性は、少し姿勢を正して言った。
「ひろきです」
それだけの自己紹介だった。
まさこは、彼が自分と同じように治療を続けていると知り、少しだけ心が軽くなった。
誰かに分かってほしかった。
何をしても結果が出ないこと。
周りから悪気なく投げかけられる言葉が、思いのほか心に刺さること。
そして、子供を望む気持ちが強いほど、治療をやめるという選択が怖くなること。
夫に話せばいい。
そう思う人もいるだろう。
しかし、まさこには、夫に言えないことがあった。
夫婦の間には、最初から愛情よりも家の事情が優先されていた。
しんいちは、子供を望んでいる。
それは間違いない。
ただ、彼が望んでいるのは、まさこと二人で育てる子供というより、九条家を継ぐ子供なのではないか。
そう感じることがあった。
その違いを考えるたび、まさこは自分が何のために結婚したのか分からなくなった。
「九条さんは……」
ひろきが言葉を探しながら尋ねた。
「治療のこと、旦那さんと話されていますか?」
まさこは、少しだけ笑った。
「話していますよ。必要なことは」
「必要なこと?」
「次はいつ病院へ行くとか、どんな治療をするかとか。そういうことです」
彼女は窓の外を見た。
「でも、本当につらいときに、つらいとは言えないんです」
ひろきは何も言わなかった。
「言ったところで、何かが変わるわけではありませんから」
その言葉を聞いて、ひろきは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
自分も、同じだった。
まなみに、治療がつらいと伝えることはできる。
しかし、自分自身が苦しいと伝えることは、ほとんどなかった。
妻だって苦しんでいる。
自分だけが弱音を吐くわけにはいかない。
そう思っていた。
けれど、目の前の女性も、同じように誰にも言えない思いを抱えている。
その事実が、ひろきの心を少しだけ緩めた。
「……分かる気がします」
彼は言った。
「全部は分からないですけど」
まさこは、ゆっくりとうなずいた。
「それで十分です」
窓の外を、冷たい風が吹き抜けた。
街灯の光が、濡れた道路に反射している。
まだ、二人は互いのことをほとんど知らない。
家庭の事情も、結婚に至った経緯も、これまで何を諦めてきたのかも。
ただ、同じ言葉を口にした。
長いですね。
本当に。
その短い会話が、二人の間に小さな橋を架けていた。
やがて、ひろきのサンドイッチが運ばれてきた。
まさこは時計を確認した。
「あ……もう、こんな時間」
「お帰りですか?」
「はい。主人が待っていますから」
その言葉を口にしたとき、まさこの表情がほんの少しだけ曇った。
ひろきは気づかなかった。
彼女はバッグを手に取り、立ち上がった。
「今日は、お話しできてよかったです」
「こちらこそ」
「また、どこかでお会いしたら……」
まさこは一瞬だけ迷い、それから微笑んだ。
「お話ししてもいいですか?」
「もちろんです」
ひろきは答えた。
まさこは軽く頭を下げ、店を出ていった。
扉のベルが鳴る。
ひろきは、しばらく入口を見つめていた。
不思議な人だった。
美しい女性だと思った。
それ以上に、彼女の言葉が心に残っていた。
つらいときに、つらいと言えない。
自分も、そうだった。
ひろきは冷めかけたコーヒーを飲んだ。
苦みが口の中に広がる。
それなのに、先ほどまで感じていた孤独が、ほんの少しだけ薄らいでいることに気づいた。
その理由を、彼はまだ考えないことにした。
ただ、もう一度会って話してみたい。
そう思った。
*
同じ頃、九条家の屋敷では、しんいちが書斎で新聞を読んでいた。
まさこが帰宅したのは、午後七時を過ぎた頃だった。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
しんいちは新聞から目を上げた。
「病院はどうだった?」
まさこは、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「……今回も、難しいそうです」
「そうか」
しんいちは新聞を畳んだ。
「次の予定は?」
「まだ決まっていません。先生と相談してからです」
「分かった。必要なことがあれば言いなさい」
「はい」
会話は、それで終わった。
しんいちは再び新聞を開いた。
まさこは廊下を歩きながら、そっと息を吐いた。
この家は広い。
客間も、書斎も、使われていない部屋もある。
何不自由ない暮らしだと、周囲の人間は言う。
それでも、まさこには、自分の居場所が分からなかった。
そして彼女は、まだ知らなかった。
夫のしんいちが、すでに自分の秘密に気づき始めていることを。
書斎の中で、しんいちは新聞を見つめたまま、廊下の足音が遠ざかるのを聞いていた。
彼の表情には、怒りも嫉妬もなかった。
ただ、ある考えだけが、静かに胸の中にあった。
――九条家に、子供を残さなければならない。
そのためなら、何を許し、何を捨てるべきなのか。
しんいちは、まだ答えを口にしなかった。
冬の夜は、深く静かに更けていった。




