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ひろきの人生の寄り道  作者: こうた
第一章 閉ざされた夫婦

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3/20

九条家の妻

午後六時二十分。


ひろきは、会社を出たあと、駅前の商店街を歩いていた。


十二月の風は冷たかった。


コートの襟を立て、足早に帰ろうとしたところで、スマートフォンが震えた。


まなみからだった。


『今日、少し遅くなります。先にご飯を食べていてね』


短いメッセージだった。


ひろきは返信を打つ。


『了解。気をつけて帰ってきて』


送信して、スマートフォンをポケットにしまった。


夕食はどうしようか。


外で食べて帰るのもいい。家で簡単に済ませてもいい。


そんなことを考えながら歩いていると、通りの向こうに、小さな喫茶店が見えた。


昔ながらの木製の看板。大きな窓から漏れる暖色の光。窓際には観葉植物が置かれ、入口には手書きのメニューが掛かっている。


以前から気になっていた店だった。


ひろきは足を止めた。


たまには、一人でゆっくりするのも悪くない。


そう思い、扉を開けた。


小さなベルが鳴った。


*


九条まさこは、窓際の席で冷めかけたコーヒーを見つめていた。


三十二歳。


身に着けているコートも、手元のバッグも、決して安いものではない。整えられた髪と控えめな化粧。人目を引く華やかさというより、育ちのよさを感じさせる落ち着いた雰囲気があった。


しかし、彼女の表情は沈んでいた。


テーブルの上には、病院から持ち帰った書類が入った封筒が置かれている。


今日も、期待していた結果は得られなかった。


八年間。


まさこは、その年月を頭の中で数えた。


結婚して八年というわけではない。結婚生活の中で、治療に費やしてきた年月が八年になったのだ。


最初の頃は、夫も協力してくれた。


病院へ付き添い、医師の説明を聞き、治療がうまくいかなかったときには励ましてくれた。


だが、年月が過ぎるにつれて、夫の態度は変わっていった。


正確には、変わったというより、もともと持っていた考えが、はっきりと見えるようになったのかもしれない。


九条家には、守らなければならないものがある。


財産。


家名。


そして、跡継ぎ。


まさこは結婚する前から、そのことを聞かされていた。


ただ、結婚すれば、いつか自分もこの家を好きになれると思っていた。


夫婦として暮らし、子供が生まれれば、きっと家族になれる。


そう信じていた。


けれど、現実は違った。


夫の九条しんいちは四十九歳。


穏やかで、声を荒らげることはほとんどない。高価なものを与え、生活に不自由させることもなかった。


しかし、夫婦の間に必要な温もりは、驚くほど少なかった。


しんいちは性に対して関心が薄く、まさこと身体を重ねることも、子供を授かるための行為として捉えていた。


まさこは、夫を嫌っているわけではない。


感謝している部分もある。


だが、妻として大切にされているという実感が、どうしても持てなかった。


彼女はコーヒーカップを持ち上げた。


苦みだけが、舌に残った。


「……疲れた」


誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。


そのときだった。


入口のベルが鳴った。


*


ひろきは店内を見渡し、カウンターから少し離れた席に座った。


「いらっしゃいませ」


店員の女性が水を運んできた。


「ブレンドコーヒーと、何か軽く食べられるものをお願いします」


「サンドイッチでしたら、すぐにご用意できます」


「じゃあ、それで」


注文を終え、ひろきはコートを脱いだ。


店内には客が数人いた。


仕事帰りらしい男性。ノートを広げる若い女性。そして、窓際に座る一人の女性。


ふと、その女性と目が合った。


女性はすぐに視線をそらした。


ひろきも、何となく気まずさを感じてメニューへ目を落とした。


だが、しばらくすると、再び視線を感じた。


顔を上げると、女性が困ったような表情でこちらを見ていた。


「あの……」


女性が声をかけてきた。


「はい?」


「すみません。こちらのお店、よく来られるんですか?」


突然の質問に、ひろきは少し戸惑った。


「いえ、今日が初めてです」


「そうなんですね」


女性は、ほっとしたように笑った。


「実は、いつも一人で来ているので、少し気になってしまって」


「そうなんですか」


ひろきは曖昧に笑った。


何を話せばいいのか分からなかった。


すると、女性はテーブルの上の封筒に目を落とした。


「ごめんなさい。変なことを聞いてしまって」


「いえ、そんなことないですよ」


会話はそこで終わるはずだった。


しかし、女性の顔に浮かんだ疲れた表情が、ひろきの心に引っかかった。


どこか、自分と似ている。


そんな気がした。


もちろん、初対面の人間の何が分かるわけでもない。


それでも、笑顔の奥に何かを隠しているような、そんな雰囲気があった。


「……何かあったんですか?」


気がつけば、ひろきは尋ねていた。


女性は驚いたように顔を上げた。


「え?」


「あ、すみません。余計なことを聞きました」


「いえ……」


女性は少し迷ってから、言った。


「今日は、病院へ行ってきたんです」


「病院ですか」


「はい」


彼女は封筒を指先で押さえた。


「不妊治療の病院です」


その言葉を聞いた瞬間、ひろきの表情が変わった。


女性も、それに気づいた。


「もしかして……」


彼女は、言いかけて口を閉じた。


ひろきは、しばらく黙っていた。


初対面の相手に話すようなことではない。


そう思った。


しかし、胸の奥にしまい込んできた言葉が、不意に口をついて出た。


「うちも、なんです」


女性は、じっとひろきを見つめた。


「……そうなんですね」


「はい」


それ以上、二人は何も言わなかった。


店内には、コーヒーを淹れる音と、静かな音楽が流れていた。


ひろきは、初めて会ったばかりの女性に、自分のことを話してしまったのが不思議だった。


普段なら、他人に家庭の事情を話すことはない。


会社の同僚にも、詳しいことは伝えていない。


まなみの気持ちを考えれば、なおさらだった。


それなのに、この女性には、少しだけ話してもいいような気がした。


「長いんですか?」


女性が尋ねた。


「ええ。もう十年になります」


女性の目が、わずかに揺れた。


「十年……」


「そちらは?」


「八年です」


彼女は小さく笑った。


「長いですよね」


ひろきはうなずいた。


「本当に」


その一言には、二人が経験してきた年月が詰まっているようだった。


*


「私、九条まさこと申します」


女性は、少し姿勢を正して言った。


「ひろきです」


それだけの自己紹介だった。


まさこは、彼が自分と同じように治療を続けていると知り、少しだけ心が軽くなった。


誰かに分かってほしかった。


何をしても結果が出ないこと。


周りから悪気なく投げかけられる言葉が、思いのほか心に刺さること。


そして、子供を望む気持ちが強いほど、治療をやめるという選択が怖くなること。


夫に話せばいい。


そう思う人もいるだろう。


しかし、まさこには、夫に言えないことがあった。


夫婦の間には、最初から愛情よりも家の事情が優先されていた。


しんいちは、子供を望んでいる。


それは間違いない。


ただ、彼が望んでいるのは、まさこと二人で育てる子供というより、九条家を継ぐ子供なのではないか。


そう感じることがあった。


その違いを考えるたび、まさこは自分が何のために結婚したのか分からなくなった。


「九条さんは……」


ひろきが言葉を探しながら尋ねた。


「治療のこと、旦那さんと話されていますか?」


まさこは、少しだけ笑った。


「話していますよ。必要なことは」


「必要なこと?」


「次はいつ病院へ行くとか、どんな治療をするかとか。そういうことです」


彼女は窓の外を見た。


「でも、本当につらいときに、つらいとは言えないんです」


ひろきは何も言わなかった。


「言ったところで、何かが変わるわけではありませんから」


その言葉を聞いて、ひろきは胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。


自分も、同じだった。


まなみに、治療がつらいと伝えることはできる。


しかし、自分自身が苦しいと伝えることは、ほとんどなかった。


妻だって苦しんでいる。


自分だけが弱音を吐くわけにはいかない。


そう思っていた。


けれど、目の前の女性も、同じように誰にも言えない思いを抱えている。


その事実が、ひろきの心を少しだけ緩めた。


「……分かる気がします」


彼は言った。


「全部は分からないですけど」


まさこは、ゆっくりとうなずいた。


「それで十分です」


窓の外を、冷たい風が吹き抜けた。


街灯の光が、濡れた道路に反射している。


まだ、二人は互いのことをほとんど知らない。


家庭の事情も、結婚に至った経緯も、これまで何を諦めてきたのかも。


ただ、同じ言葉を口にした。


長いですね。


本当に。


その短い会話が、二人の間に小さな橋を架けていた。


やがて、ひろきのサンドイッチが運ばれてきた。


まさこは時計を確認した。


「あ……もう、こんな時間」


「お帰りですか?」


「はい。主人が待っていますから」


その言葉を口にしたとき、まさこの表情がほんの少しだけ曇った。


ひろきは気づかなかった。


彼女はバッグを手に取り、立ち上がった。


「今日は、お話しできてよかったです」


「こちらこそ」


「また、どこかでお会いしたら……」


まさこは一瞬だけ迷い、それから微笑んだ。


「お話ししてもいいですか?」


「もちろんです」


ひろきは答えた。


まさこは軽く頭を下げ、店を出ていった。


扉のベルが鳴る。


ひろきは、しばらく入口を見つめていた。


不思議な人だった。


美しい女性だと思った。


それ以上に、彼女の言葉が心に残っていた。


つらいときに、つらいと言えない。


自分も、そうだった。


ひろきは冷めかけたコーヒーを飲んだ。


苦みが口の中に広がる。


それなのに、先ほどまで感じていた孤独が、ほんの少しだけ薄らいでいることに気づいた。


その理由を、彼はまだ考えないことにした。


ただ、もう一度会って話してみたい。


そう思った。


*


同じ頃、九条家の屋敷では、しんいちが書斎で新聞を読んでいた。


まさこが帰宅したのは、午後七時を過ぎた頃だった。


「ただいま帰りました」


「おかえり」


しんいちは新聞から目を上げた。


「病院はどうだった?」


まさこは、ほんの一瞬だけ動きを止めた。


「……今回も、難しいそうです」


「そうか」


しんいちは新聞を畳んだ。


「次の予定は?」


「まだ決まっていません。先生と相談してからです」


「分かった。必要なことがあれば言いなさい」


「はい」


会話は、それで終わった。


しんいちは再び新聞を開いた。


まさこは廊下を歩きながら、そっと息を吐いた。


この家は広い。


客間も、書斎も、使われていない部屋もある。


何不自由ない暮らしだと、周囲の人間は言う。


それでも、まさこには、自分の居場所が分からなかった。


そして彼女は、まだ知らなかった。


夫のしんいちが、すでに自分の秘密に気づき始めていることを。


書斎の中で、しんいちは新聞を見つめたまま、廊下の足音が遠ざかるのを聞いていた。


彼の表情には、怒りも嫉妬もなかった。


ただ、ある考えだけが、静かに胸の中にあった。


――九条家に、子供を残さなければならない。


そのためなら、何を許し、何を捨てるべきなのか。


しんいちは、まだ答えを口にしなかった。


冬の夜は、深く静かに更けていった。


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