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ひろきの人生の寄り道  作者: こうた
第一章 閉ざされた夫婦

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2/20

名前のない疲労

朝、目覚まし時計が鳴る五分前に、まなみは目を覚ました。


カーテンの隙間から差し込む光は弱く、窓ガラスの向こうには、昨夜降った雪が薄く残っていた。


隣では、ひろきがまだ眠っている。


まなみは彼の寝顔を見つめた。


結婚したばかりの頃は、朝起きると彼の顔がすぐ近くにあることが嬉しかった。


休日には、わざと寝たふりをして、ひろきが起きるのを待ったこともある。目が合えば笑い、くだらない話をして、二人で布団から出られなくなる。


そんな朝が、確かにあった。


今は、目覚ましが鳴る前から、その日の予定を考えている。


午前中は授業が三時間。昼休みには生徒の相談。放課後は職員会議。


帰宅したら夕食の準備をして、来週の病院のことを確認する。


考えただけで、身体が重くなった。


まなみはゆっくりとベッドから出た。


洗面所で顔を洗い、鏡を見る。


疲れた顔をしている。


そう思った。


教師になってから、仕事の忙しさには慣れていた。生徒の問題に頭を悩ませることも、保護者から厳しい言葉を受けることもある。


それでも、学校では気持ちを切り替えられた。


生徒たちの前では、教師でいられた。


けれど、不妊治療については、気持ちを切り替える方法が分からなかった。


検査結果が良ければ期待する。


悪ければ落ち込む。


次こそはと思いながら、また病院へ向かう。


その繰り返しだった。


いつまで続くのだろう。


何度、その問いを心の中で繰り返したか分からない。


答えは出なかった。


*


「昨日、雪降ったんだな」


朝食を食べながら、ひろきが窓の外を見た。


「うん。夜中に少しだけね」


「帰り、道が凍ってるかもしれないな」


「気をつけてね」


食卓には、焼いた鮭と味噌汁、卵焼きが並んでいた。


いつもと変わらない朝だった。


まなみは箸を動かしながら、ひろきの様子をうかがった。


彼はいつも通りに見えた。


仕事のことを考えているのか、スマートフォンで天気予報を確認している。


この人も疲れているのだろう。


まなみには分かっていた。


ひろきだって、子供が欲しくないわけではない。


むしろ、子供の話題が出るたびに、彼が一瞬だけ黙ることに気づいていた。


親戚からの何気ない質問。


会社の同僚の子供の話。


テレビに映る家族の姿。


ひろきは決して不機嫌にならない。ただ、ほんの少しだけ表情が変わる。


まなみは、その変化を見るたびに胸が苦しくなった。


「ねえ、ひろき」


「ん?」


「今度の病院なんだけど……」


言いかけて、まなみは言葉を止めた。


「どうした?」


「ううん。何でもない」


ひろきは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


まなみは、味噌汁を一口飲んだ。


本当は、聞いてほしかった。


治療を続けるのが怖い。


また期待して、また駄目だったらどうしよう。


それでも、やめたら一生後悔するのではないか。


そんな気持ちを、誰かに受け止めてほしかった。


しかし、口に出せば、ひろきまで苦しめる気がした。


彼も同じように子供を望んでいる。


自分が弱音を吐けば、彼の希望まで奪ってしまうのではないか。


そう考えると、何も言えなかった。


「そろそろ行くよ」


ひろきが立ち上がった。


「うん。いってらっしゃい」


「まなみも、無理するなよ」


その言葉に、まなみは顔を上げた。


ひろきは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。


「ありがとう」


彼が玄関を出ていく。


扉が閉まる音を聞いた瞬間、まなみは小さく息を吐いた。


無理をするな。


そう言われるたびに、どうすれば無理をせずに生きられるのか、分からなくなる。


子供が欲しいという願いを捨てれば、楽になるのだろうか。


でも、それはできなかった。


自分の腕の中に赤ん坊を抱く日を、まだ諦められない。


だから今日も、まなみは教師として家を出る。


胸の中にある疲労を、誰にも見せないまま。


*


その日の夕方、まなみは職員室で授業の準備をしていた。


「先生、ちょっといいですか?」


声をかけてきたのは、二年生の女子生徒だった。


「どうしたの?」


「進路のことで、相談したいことがあって」


「うん。座って」


まなみは笑顔で椅子を勧めた。


生徒は進路への不安を話し始めた。


成績のこと。親の期待。友達との比較。


自分だけが取り残されているような気がするのだという。


まなみは、その言葉を聞きながら、少しだけ胸が痛くなった。


人は、自分と他人を比べてしまう。


頭では分かっていても、気持ちは簡単には割り切れない。


「焦らなくてもいいんだよ」


まなみは穏やかに言った。


「周りと同じ速さで進まなくても、あなたの人生が駄目になるわけじゃないから」


生徒は、少し考えてからうなずいた。


「先生、ありがとうございます」


そう言って、笑顔で職員室を出ていった。


まなみは、その背中を見送った。


周りと同じ速さで進まなくてもいい。


その言葉を、自分自身にも言ってあげられたらいいのに。


結婚して、子供を産み、家庭を築く。


それが当たり前だと思っていた。


友人たちは、次々と母親になっていった。


子供の写真を見せてくれる友人。育児の大変さを話す同僚。休日に家族で出かける人たち。


まなみは、彼女たちの幸せを羨ましいと思う。


同時に、そんな自分を嫌いになりそうになる。


誰かの幸せを、素直に喜べない自分。


子供が欲しいと願いながら、治療を続けることに疲れている自分。


夫を愛しているのに、身体を求められると気持ちが追いつかない自分。


いったい、自分はどうなってしまったのだろう。


まなみは机の上の資料を整えた。


泣きたくはなかった。


まだ仕事が残っている。


今日も帰れば、ひろきが待っている。


いつも通りの妻でいなければならない。


*


夜、帰宅したまなみは、ひろきと向かい合って夕食を食べていた。


「今日、学校で何かあった?」


ひろきが尋ねた。


「生徒の進路相談があったくらいかな」


「大変だな、先生も」


「そうでもないよ。話を聞くだけだから」


まなみは笑った。


ひろきは、それ以上聞かなかった。


食事を終え、食器を片づける。


風呂に入り、寝室へ向かう。


いつもの夜だった。


ただ、寝室の明かりを消す前に、ひろきがまなみの手に触れた。


「まなみ」


「なに?」


「最近、疲れてるよな」


まなみは答えられなかった。


「治療のこともあるし、仕事もあるし。無理してないか?」


「……大丈夫だよ」


口から出たのは、いつもの言葉だった。


大丈夫。


その言葉を使えば、会話を終わらせることができる。


心配をかけずに済む。


自分の気持ちを説明しなくてもいい。


「そっか」


ひろきは、少しだけ寂しそうに笑った。


その表情を見て、まなみは後悔した。


本当は、大丈夫ではない。


疲れている。


苦しい。


子供が欲しい。


でも、もう何も考えたくない夜もある。


ひろきのことは好きなのに、身体を重ねることを考えるだけで、気持ちが重くなることもある。


そんな自分を、ひろきに知られたくなかった。


知られたら、彼は傷つくだろう。


自分を責めるかもしれない。


夫婦の間に、今よりも深い溝ができるかもしれない。


だから、まなみは彼の手を握り返した。


「ひろきのこと、嫌いになったわけじゃないからね」


ひろきが驚いたように彼女を見た。


「え?」


「ただ……ちょっと疲れてるだけ」


それが、今のまなみに言える精いっぱいだった。


ひろきは、彼女の手をそっと握ったまま、うなずいた。


「分かった。ゆっくり休もう」


「うん」


まなみは目を閉じた。


ひろきの手は温かかった。


その温かさが嫌なわけではない。


むしろ、安心する。


ただ、その先にあるものを考えると、心が追いつかなくなる。


夫を愛する気持ちと、応えられない身体。


母親になりたい願いと、もう傷つきたくない気持ち。


どちらも本当の自分だった。


その夜、まなみは眠りにつくまで、ずっと目を閉じていた。


隣にいる夫に、何も言えないまま。


そして、ひろきもまた、妻の手を握りながら、自分の中にある孤独を見つめていた。


二人は同じ家にいた。


同じ未来を願っていたはずだった。


それなのに、いつからか、その願いが二人を結びつけるものではなく、二人を追い詰めるものになってしまったのだろう。


窓の外では、昨夜の雪が少しずつ溶け始めていた。


けれど、二人の心に積もったものは、まだ溶けそうになかった。


そして翌日、ひろきは仕事帰りに立ち寄った喫茶店で、一人の女性と出会うことになる。


その女性の名前は、九条まさこ。


彼女もまた、誰にも言えない孤独を抱えていた。


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