名前のない疲労
朝、目覚まし時計が鳴る五分前に、まなみは目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は弱く、窓ガラスの向こうには、昨夜降った雪が薄く残っていた。
隣では、ひろきがまだ眠っている。
まなみは彼の寝顔を見つめた。
結婚したばかりの頃は、朝起きると彼の顔がすぐ近くにあることが嬉しかった。
休日には、わざと寝たふりをして、ひろきが起きるのを待ったこともある。目が合えば笑い、くだらない話をして、二人で布団から出られなくなる。
そんな朝が、確かにあった。
今は、目覚ましが鳴る前から、その日の予定を考えている。
午前中は授業が三時間。昼休みには生徒の相談。放課後は職員会議。
帰宅したら夕食の準備をして、来週の病院のことを確認する。
考えただけで、身体が重くなった。
まなみはゆっくりとベッドから出た。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
疲れた顔をしている。
そう思った。
教師になってから、仕事の忙しさには慣れていた。生徒の問題に頭を悩ませることも、保護者から厳しい言葉を受けることもある。
それでも、学校では気持ちを切り替えられた。
生徒たちの前では、教師でいられた。
けれど、不妊治療については、気持ちを切り替える方法が分からなかった。
検査結果が良ければ期待する。
悪ければ落ち込む。
次こそはと思いながら、また病院へ向かう。
その繰り返しだった。
いつまで続くのだろう。
何度、その問いを心の中で繰り返したか分からない。
答えは出なかった。
*
「昨日、雪降ったんだな」
朝食を食べながら、ひろきが窓の外を見た。
「うん。夜中に少しだけね」
「帰り、道が凍ってるかもしれないな」
「気をつけてね」
食卓には、焼いた鮭と味噌汁、卵焼きが並んでいた。
いつもと変わらない朝だった。
まなみは箸を動かしながら、ひろきの様子をうかがった。
彼はいつも通りに見えた。
仕事のことを考えているのか、スマートフォンで天気予報を確認している。
この人も疲れているのだろう。
まなみには分かっていた。
ひろきだって、子供が欲しくないわけではない。
むしろ、子供の話題が出るたびに、彼が一瞬だけ黙ることに気づいていた。
親戚からの何気ない質問。
会社の同僚の子供の話。
テレビに映る家族の姿。
ひろきは決して不機嫌にならない。ただ、ほんの少しだけ表情が変わる。
まなみは、その変化を見るたびに胸が苦しくなった。
「ねえ、ひろき」
「ん?」
「今度の病院なんだけど……」
言いかけて、まなみは言葉を止めた。
「どうした?」
「ううん。何でもない」
ひろきは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
まなみは、味噌汁を一口飲んだ。
本当は、聞いてほしかった。
治療を続けるのが怖い。
また期待して、また駄目だったらどうしよう。
それでも、やめたら一生後悔するのではないか。
そんな気持ちを、誰かに受け止めてほしかった。
しかし、口に出せば、ひろきまで苦しめる気がした。
彼も同じように子供を望んでいる。
自分が弱音を吐けば、彼の希望まで奪ってしまうのではないか。
そう考えると、何も言えなかった。
「そろそろ行くよ」
ひろきが立ち上がった。
「うん。いってらっしゃい」
「まなみも、無理するなよ」
その言葉に、まなみは顔を上げた。
ひろきは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。
「ありがとう」
彼が玄関を出ていく。
扉が閉まる音を聞いた瞬間、まなみは小さく息を吐いた。
無理をするな。
そう言われるたびに、どうすれば無理をせずに生きられるのか、分からなくなる。
子供が欲しいという願いを捨てれば、楽になるのだろうか。
でも、それはできなかった。
自分の腕の中に赤ん坊を抱く日を、まだ諦められない。
だから今日も、まなみは教師として家を出る。
胸の中にある疲労を、誰にも見せないまま。
*
その日の夕方、まなみは職員室で授業の準備をしていた。
「先生、ちょっといいですか?」
声をかけてきたのは、二年生の女子生徒だった。
「どうしたの?」
「進路のことで、相談したいことがあって」
「うん。座って」
まなみは笑顔で椅子を勧めた。
生徒は進路への不安を話し始めた。
成績のこと。親の期待。友達との比較。
自分だけが取り残されているような気がするのだという。
まなみは、その言葉を聞きながら、少しだけ胸が痛くなった。
人は、自分と他人を比べてしまう。
頭では分かっていても、気持ちは簡単には割り切れない。
「焦らなくてもいいんだよ」
まなみは穏やかに言った。
「周りと同じ速さで進まなくても、あなたの人生が駄目になるわけじゃないから」
生徒は、少し考えてからうなずいた。
「先生、ありがとうございます」
そう言って、笑顔で職員室を出ていった。
まなみは、その背中を見送った。
周りと同じ速さで進まなくてもいい。
その言葉を、自分自身にも言ってあげられたらいいのに。
結婚して、子供を産み、家庭を築く。
それが当たり前だと思っていた。
友人たちは、次々と母親になっていった。
子供の写真を見せてくれる友人。育児の大変さを話す同僚。休日に家族で出かける人たち。
まなみは、彼女たちの幸せを羨ましいと思う。
同時に、そんな自分を嫌いになりそうになる。
誰かの幸せを、素直に喜べない自分。
子供が欲しいと願いながら、治療を続けることに疲れている自分。
夫を愛しているのに、身体を求められると気持ちが追いつかない自分。
いったい、自分はどうなってしまったのだろう。
まなみは机の上の資料を整えた。
泣きたくはなかった。
まだ仕事が残っている。
今日も帰れば、ひろきが待っている。
いつも通りの妻でいなければならない。
*
夜、帰宅したまなみは、ひろきと向かい合って夕食を食べていた。
「今日、学校で何かあった?」
ひろきが尋ねた。
「生徒の進路相談があったくらいかな」
「大変だな、先生も」
「そうでもないよ。話を聞くだけだから」
まなみは笑った。
ひろきは、それ以上聞かなかった。
食事を終え、食器を片づける。
風呂に入り、寝室へ向かう。
いつもの夜だった。
ただ、寝室の明かりを消す前に、ひろきがまなみの手に触れた。
「まなみ」
「なに?」
「最近、疲れてるよな」
まなみは答えられなかった。
「治療のこともあるし、仕事もあるし。無理してないか?」
「……大丈夫だよ」
口から出たのは、いつもの言葉だった。
大丈夫。
その言葉を使えば、会話を終わらせることができる。
心配をかけずに済む。
自分の気持ちを説明しなくてもいい。
「そっか」
ひろきは、少しだけ寂しそうに笑った。
その表情を見て、まなみは後悔した。
本当は、大丈夫ではない。
疲れている。
苦しい。
子供が欲しい。
でも、もう何も考えたくない夜もある。
ひろきのことは好きなのに、身体を重ねることを考えるだけで、気持ちが重くなることもある。
そんな自分を、ひろきに知られたくなかった。
知られたら、彼は傷つくだろう。
自分を責めるかもしれない。
夫婦の間に、今よりも深い溝ができるかもしれない。
だから、まなみは彼の手を握り返した。
「ひろきのこと、嫌いになったわけじゃないからね」
ひろきが驚いたように彼女を見た。
「え?」
「ただ……ちょっと疲れてるだけ」
それが、今のまなみに言える精いっぱいだった。
ひろきは、彼女の手をそっと握ったまま、うなずいた。
「分かった。ゆっくり休もう」
「うん」
まなみは目を閉じた。
ひろきの手は温かかった。
その温かさが嫌なわけではない。
むしろ、安心する。
ただ、その先にあるものを考えると、心が追いつかなくなる。
夫を愛する気持ちと、応えられない身体。
母親になりたい願いと、もう傷つきたくない気持ち。
どちらも本当の自分だった。
その夜、まなみは眠りにつくまで、ずっと目を閉じていた。
隣にいる夫に、何も言えないまま。
そして、ひろきもまた、妻の手を握りながら、自分の中にある孤独を見つめていた。
二人は同じ家にいた。
同じ未来を願っていたはずだった。
それなのに、いつからか、その願いが二人を結びつけるものではなく、二人を追い詰めるものになってしまったのだろう。
窓の外では、昨夜の雪が少しずつ溶け始めていた。
けれど、二人の心に積もったものは、まだ溶けそうになかった。
そして翌日、ひろきは仕事帰りに立ち寄った喫茶店で、一人の女性と出会うことになる。
その女性の名前は、九条まさこ。
彼女もまた、誰にも言えない孤独を抱えていた。




