第一話 十年目の夜
午後十時四十七分。
ひろきは、浴室から聞こえてくるシャワーの音を聞きながら、ソファに深く腰を沈めていた。
テレビでは、芸能人たちが家族旅行の思い出を楽しそうに語っている。画面の中には、父親の肩に乗った小さな子供と、それを笑顔で見つめる母親の姿があった。
ひろきはリモコンを手に取り、テレビを消した。
静かになったリビングに、時計の秒針だけが響く。
結婚して十二年。
妻のまなみと出会った頃、ひろきは二十六歳で、彼女は十九歳だった。
七歳の年齢差など、当時は気にならなかった。若くて、よく笑い、些細なことにも喜んでくれる彼女となら、きっと幸せな家庭を築ける。そう信じていた。
結婚したら、子供は二人くらい欲しい。
休日には家族で出かけ、子供の運動会ではビデオカメラを回す。反抗期になれば妻と顔を見合わせ、成人した子供と酒を飲む日を楽しみにする。
そんな、ごく普通の未来を想像していた。
ところが、結婚生活は思い描いていたものとは違う方向へ進んでいった。
最初の一年は、二人とも深刻には考えていなかった。
そのうち授かるだろう。
二年目には、少し不安になった。
三年目には、病院へ行くことを決めた。
そして、気がつけば十年が過ぎていた。
不妊治療にかかった費用は、もう正確には覚えていない。通院の予定に合わせて仕事を調整し、検査結果に一喜一憂し、希望を持っては落胆する。その繰り返しだった。
ひろきは、自分の手のひらを見つめた。
この手で、いつか子供を抱くのだと思っていた。
けれど、三十九歳になった今も、その経験はない。
「……何やってんだろうな、俺」
口に出してみても、答えは返ってこなかった。
浴室の扉が開いた。
「ひろき、お風呂空いたよ」
寝間着姿のまなみが、濡れた髪をタオルで拭きながら立っていた。
三十二歳になった彼女は、職場では生徒たちから頼られる高校教師だ。授業の準備に追われ、問題を起こした生徒の相談に乗り、保護者への対応に気を配る。
それでも、家に帰れば、いつも明るく笑っていた。
少なくとも、ひろきの前では。
「ありがとう。あとで入るよ」
「うん」
短い会話だった。
以前なら、まなみは隣に座ってきた。今日あった出来事を話し、職場の愚痴をこぼし、ひろきの肩にもたれかかってきた。
最近は、そういう時間が少なくなった。
嫌われたのだろうか。
そんな考えが頭をよぎることもあった。
けれど、まなみが不妊治療に疲れていることは、ひろきにも分かっていた。
仕事が終わってから病院へ向かう日。診察室で医師の説明を聞く日。期待していた結果が出ず、帰りの車の中で黙り込む日。
彼女がどれほど苦しんでいるのか、ひろきには完全には理解できない。
理解したいとは思っていた。
ただ、どう声をかければいいのか、もう分からなくなっていた。
「ねえ、ひろき」
「ん?」
「来週の病院、覚えてる?」
「ああ。木曜日だろ?」
「そう。先生が、次の治療について説明してくれるって」
「分かった。仕事、調整しておくよ」
「ありがとう」
まなみは微笑んだ。
その笑顔を見て、ひろきは胸の奥が少し痛くなった。
彼女は、まだ諦めていない。
自分も、諦めたくない。
けれど、本当にこのままでいいのだろうか。
そんな疑問を口にすることさえ、裏切りのように思えた。
まなみが寝室へ向かう。
ひろきは、その背中を見送った。
彼女を愛している。
それは間違いなかった。
しかし、愛していることと、満たされていることは、いつから別々になってしまったのだろう。
*
寝室に入ると、まなみはベッドの端に座っていた。
枕元には、明日の授業で使う資料が置かれている。彼女はそれを手に取ろうとしたが、すぐにやめた。
もう、何も考えたくなかった。
朝になれば起きて、学校へ行き、生徒たちに笑顔を向ける。
帰宅すれば家事をして、夫と夕食を食べる。
そして、病院へ通う。
その生活が嫌いなわけではない。
教師という仕事には、やりがいがある。ひろきと暮らす家も、嫌いではない。
ただ、自分が望んでいた未来だけが、どうしても手に入らなかった。
同年代の同僚が産休に入ったとき、まなみは心から祝福した。
生徒が「先生、赤ちゃんが生まれるんだって」と嬉しそうに話してくれたときも、笑顔で答えた。
おめでとう。
よかったね。
何度も口にした言葉だった。
そのたびに、自分の胸の中に小さな穴が開いていくような気がした。
誰にも見えない穴だった。
夫にも、友人にも、同僚にも。
そして、何より自分自身にも、見ないふりをしてきた穴だった。
まなみは、ベッドの上に置かれた二人分の枕を見つめた。
ひろきは優しい。
病院にも付き添ってくれる。治療費のことを責めたこともない。失敗したときも、彼女を責めずに励ましてくれた。
だからこそ、苦しかった。
自分が妻として何もできていないように思えた。
子供を産むことができない。
夫の求めに応える気力も、以前ほど残っていない。
そんな自分を、ひろきはいつまで愛してくれるのだろう。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
まなみは、慌てて首を横に振った。
考えてはいけない。
ひろきは、そんな人ではない。
そう信じたかった。
「まなみ」
寝室の入口から声がした。
ひろきが立っていた。
「そろそろ寝る?」
「うん」
まなみは資料を片づけ、布団に入った。
ひろきも隣に横になる。
同じベッドに入り、同じ天井を見つめる。
手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、二人の間には、言葉にできない何かが横たわっていた。
「おやすみ」
まなみが言った。
「おやすみ」
ひろきは答えた。
しばらくすると、まなみの呼吸がゆっくりになった。
眠ったのだろうか。
ひろきには分からなかった。
彼は目を閉じた。
性欲がなくなったわけではない。
誰かに触れたいと思うこともある。妻に求められたいと思うこともある。
けれど、まなみの疲れた顔を見ると、その気持ちを口にできなくなる。
無理をさせたくない。
苦しめたくない。
そう思う一方で、自分の中にある欲求を持て余していた。
そんな自分を、情けないとも思った。
子供が欲しい。
妻を愛している。
それでも、男として満たされたい。
三つの気持ちは、ひろきの中で矛盾したまま、どこにも行き場を見つけられずにいた。
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
天気予報では、明日の夜から雪になるという。
ひろきは、隣で眠る妻に目を向けた。
結婚したばかりの頃、二人はよく将来の話をした。
どんな家に住みたいか。
子供にはどんな名前をつけようか。
休日には、どこへ遊びに行こうか。
あの頃の二人は、未来が来ることを疑っていなかった。
今は、明日の予定を確認するだけで精いっぱいだった。
ひろきは再び目を閉じた。
眠れなかった。
そして、この夜の彼は、まだ知らなかった。
明日、偶然のように出会う一人の女性が、自分の人生に深く入り込んでくることを。
彼女もまた、同じように眠れない夜を過ごしていることを。
そして、その出会いが、ひろきの人生に忘れられない冬を刻むことになるのを。
窓の向こうで、最初の雪が静かに降り始めていた。




