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ひろきの人生の寄り道  作者: こうた
第一章 閉ざされた夫婦

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第10話 優しい嘘

朝、ひろきが目を覚ますと、隣のベッドはすでに空いていた。


まなみは、いつもどおり早く起きて、出勤の準備をしているらしい。


洗面所から水の流れる音が聞こえる。


ひろきは枕元のスマートフォンを手に取った。


新しい通知はなかった。


当たり前だ。


まさこと連絡先を交換したのは、昨夜のことだ。彼女から連絡が来ると決まったわけではない。


それでも、ひろきは画面を開き、連絡先の一覧を眺めていた。


九条まさこ。


その名前を見つめる自分に気づき、思わず苦笑した。


「何やってるんだ、俺は……」


誰かから連絡が来るのを待つ。


学生の頃には、そんな経験もあった。


好きな女性からのメールを何度も確認し、返信が来れば嬉しくなり、来なければ落ち込む。


そんな感情は、とっくに過去のものになったと思っていた。


自分は結婚している。


守るべき家庭がある。


なのに今、ひろきは、まさこからの連絡を待っていた。


「ひろき、起きてる?」


まなみの声がした。


「ああ、起きてるよ」


「朝ごはん、できてるからね」


「分かった」


ひろきはスマートフォンを伏せ、ベッドから起き上がった。


食卓には、トーストと目玉焼き、それに温かいコーヒーが用意されていた。


まなみは制服ではなく、通勤用の服に着替えている。


「今日、帰り遅くなるかもしれない」


彼女が言った。


「学校で会議があるから」


「そうか。気をつけてな」


「うん。ひろきもね」


何でもない朝だった。


互いに仕事へ出かけ、帰ってきて、夕食を食べる。


そんな日常が、これからも続いていくはずだった。


ひろきは、コーヒーを飲んだ。


いつもと同じ味だった。


けれど、その味を感じながら、彼は別のことを考えていた。


まさこは、今頃何をしているのだろう。


もう起きているのだろうか。


今日は、何か予定があるのだろうか。


そんなことを考える自分が、少し怖かった。


妻と過ごす朝の時間に、別の女性のことを考えている。


それでも、ひろきはスマートフォンを確認したい気持ちを抑えられなかった。


*


昼休み。


ひろきは会社の休憩室で弁当を食べていた。


仕事の話をする同僚たちの声を聞きながら、スマートフォンを机の上に置いている。


通知が鳴るたび、反射的に画面を見てしまう。


会社からの連絡。  ニュースの通知。  通販サイトの案内。


そのたびに、ひろきは小さく息を吐いた。


期待している。


自分でも、それを認めざるを得なかった。


午後一時を少し過ぎた頃、スマートフォンが震えた。


画面には、見覚えのある名前が表示されていた。


九条まさこ。


ひろきは、すぐには開かなかった。


周囲を見回す。


誰も自分のことなど気にしていない。


それなのに、なぜか胸が騒いだ。


やがて、画面をタップした。


『昨日はありがとうございました。久しぶりに、自分の気持ちをゆっくり話せた気がします。ひろきさんも、お仕事頑張ってくださいね』


短いメッセージだった。


特別な言葉は何もない。


会いたいとも、好きだとも書かれていない。


ただ、昨日の時間への感謝と、仕事を気遣う言葉が並んでいるだけだった。


それなのに、ひろきの顔には自然と笑みが浮かんでいた。


自分のことを気にかけてくれている。


たったそれだけのことが、嬉しかった。


ひろきは返信を打ち始めた。


『こちらこそ、ありがとうございました。私も話ができてよかったです。まさこさんも、無理しないでくださいね』


送信ボタンを押す。


すぐに返信が来るとは思っていなかった。


それでも、ひろきは画面をしばらく見つめていた。


やがて、仕事に戻らなければならない時間になった。


スマートフォンをポケットにしまい、立ち上がる。


そのとき、ひろきはふと考えた。


このやり取りを、まなみに見せられるだろうか。


誰と何を話しているのか、妻に知られて困ることがあるだろうか。


メッセージの内容だけなら、何も問題はない。


仕事を気遣う、ただの挨拶だ。


しかし、なぜ自分は、妻に見せることを考えただけで、こんなにも落ち着かなくなるのだろう。


答えは、分かっていた。


問題は、言葉の内容だけではない。


その言葉を待っていた自分の気持ちにあるのだ。


*


その日の夕方。


九条家では、まさこがリビングのソファに座っていた。


手元には、しんいちから渡された封筒がある。


「まさこ、少し話がある」


夕食のあと、しんいちがそう言ったのは、珍しいことだった。


普段、彼は家庭の話を長く続けることがない。


必要なことは伝える。


決めるべきことは決める。


それが、しんいちのやり方だった。


だからこそ、まさこは夫の表情を見て、何か重大なことがあるのだと感じた。


「どうしたの?」


しんいちは、隣の椅子に腰を下ろした。


「以前、受けた検査のことだ」


まさこは、息を止めた。


不妊治療。


その言葉を聞いただけで、身体がこわばるようになっていた。


「病院から、詳しい説明を受けてきた」


「……うん」


しんいちは、封筒から検査結果の説明書を取り出した。


「私にも、妊娠を難しくする原因があるらしい」


まさこは、すぐには意味を理解できなかった。


「え……?」


「精子の数や運動性に問題があると言われた。再検査が必要だそうだ。今の段階で、妊娠の可能性がないと決まったわけではないらしいが……」


しんいちは、言葉を切った。


まさこは、夫の顔を見つめていた。


長い間、彼女は自分の身体に原因があるのではないかと悩んできた。


何度も検査を受けた。


治療を続けた。


自分にできることを探し、結果が出ないたびに、何が悪かったのかと考えた。


それなのに、夫は今になって、自分にも原因があると告げている。


「……どうして、今まで言ってくれなかったの?」


声が震えた。


「詳しい結果を確認してから話そうと思っていた」


「いつ、検査を受けたの?」


「少し前だ」


「少し前って……」


まさこは、言葉を失った。


しんいちは、彼女の目を見られなかった。


「すまなかった」


その謝罪を聞いて、まさこは、胸の奥にたまっていたものが少しずつ崩れていくのを感じた。


怒りたかった。


どうして一人で抱え込んだのかと責めたかった。


どうして自分だけが、これまで何度も自分を責めなければならなかったのかと。


けれど、それ以上に大きかったのは、安堵だった。


自分だけの問題ではなかった。


自分の身体だけが、何かに失敗していたわけではなかった。


そのことに、まさこは救われそうになっていた。


同時に、悲しかった。


なぜ、二人で苦しみを分け合うことができなかったのだろう。


「私ね……」


まさこは、膝の上で手を握りしめた。


「ずっと、自分が悪いんだと思ってた」


しんいちは黙っていた。


「あなたの家の人たちにも、申し訳ないと思ってた。子供を授かれない私は、九条家の妻として、何か足りないんじゃないかって」


「まさこ……」


「治療がつらくても、やめたいなんて言えなかった。私が頑張らなきゃいけないんだって、ずっと思ってた」


涙が頬を伝った。


「なのに、あなたは何も言ってくれなかった」


しんいちは、うつむいた。


言い訳はできなかった。


自分もまた、家の期待に縛られていた。


跡継ぎを求める父の言葉を当然のものとして受け入れ、まさこの苦しみを、彼女自身の問題として考えていた部分があった。


自分の身体に原因がある可能性を知ったときでさえ、すぐには彼女に伝えられなかった。


その沈黙が、どれほど彼女を孤独にしていたのか。


今になって、ようやく理解し始めていた。


「本当に、すまなかった」


しんいちは、もう一度言った。


まさこは涙を拭った。


「これから、どうするの?」


「まずは再検査を受ける。それから、医師の話を二人で聞きたい」


「……うん」


「治療を続けるかどうかも、二人で考えたい。父の言うことだけで決めるのではなく、君の気持ちも聞きたい」


まさこは、夫を見つめた。


その言葉は、彼女が長い間、聞きたかったものだった。


けれど、すぐに夫を許せるわけではなかった。


これまでの年月が、言葉一つで消えるわけではない。


「私、少し考える時間が欲しい」


「ああ」


「今すぐ、何かを決めることはできない」


「分かった」


しんいちは、それ以上何も言わなかった。


まさこは立ち上がり、寝室へ向かった。


ドアを閉めたあと、彼女は壁に背中を預けた。


涙が止まらなかった。


悲しいのか、悔しいのか、それとも少しだけ救われたのか。


自分でも分からなかった。


ただ、今夜は誰かに話を聞いてほしかった。


何も説明しなくても、自分の気持ちを分かってくれる人に。


そのとき、まさこの頭に、ひろきの顔が浮かんだ。


彼なら、聞いてくれるだろうか。


そう思った自分に、まさこは戸惑った。


夫から大切な話を聞いたばかりなのに。


夫婦で向き合わなければならない問題があるのに。


なぜ、自分は別の男性のことを考えているのだろう。


まさこはスマートフォンを手に取った。


ひろきとのやり取りを開く。


短いメッセージが、画面に並んでいた。


彼は、自分を責めなかった。


九条家の妻としてではなく、一人の人間として話を聞いてくれた。


そのことが、今はどうしようもなく恋しかった。


まさこは、しばらく画面を見つめていた。


そして、文字を打ち始めた。


『少し、話を聞いてもらってもいいですか?』


送信する直前、指が止まった。


夫と向き合うべきではないのか。


自分の気持ちを、まず夫に伝えるべきではないのか。


分かっていた。


それでも、今は一人で抱えきれなかった。


まさこは、メッセージを送信した。


*


夜九時過ぎ。


ひろきは、リビングでテレビを見ていた。


まなみは入浴中だった。


スマートフォンが震えた。


画面を確認した瞬間、ひろきの表情が変わった。


まさこからだった。


『少し、話を聞いてもらってもいいですか?』


ひろきは、何度もその文章を読み返した。


何かあったのだろうか。


彼女がこんなふうに連絡してくるのは初めてだった。


ひろきは、すぐに返信した。


『もちろんです。何かありましたか?』


送信してから、彼は画面を見つめ続けた。


やがて、返信が届いた。


『夫と、不妊治療のことで話をしました。少し、気持ちが追いつかなくて』


ひろきの胸が痛んだ。


まさこも、苦しんでいる。


彼女の夫婦にも、長い間、言葉にできなかった問題があったのだろう。


話を聞いてあげたい。


今すぐにでも、そばにいてあげたい。


そう思った。


けれど、同時に、あることにも気づいていた。


彼女が自分を頼ってくれたことが、嬉しかったのだ。


自分を必要としてくれた。


自分なら話を聞いてくれると思ってくれた。


その事実が、ひろきの心を満たしていた。


彼は、返信を打った。


『つらかったですね。話したくなったら、いつでも聞きますよ』


送信する。


しばらくして、まさこから返事が届いた。


『ありがとうございます。ひろきさんにそう言ってもらえると、少し安心します』


ひろきは、目を閉じた。


その言葉が、胸に染み込んでいく。


自分もまた、誰かに必要とされたかったのだ。


夫として。  男として。  一人の人間として。


まなみを愛している。


その気持ちは、今も変わらない。


けれど、まなみとの間では、いつからか、互いを傷つけないために言葉を選ぶようになっていた。


言いたいことを飲み込み、相手の顔色をうかがい、何もなかったように日常を続ける。


それが優しさなのだと、どこかで思っていた。


だが、まさことのやり取りは違った。


彼女は、自分の気持ちを話してくれる。


自分の言葉を受け止めてくれる。


ひろきは、その時間を失いたくなかった。


そのとき、浴室のドアが開く音がした。


「ひろき、お風呂、空いたよ」


まなみの声だった。


「ああ、ありがとう」


ひろきはスマートフォンを伏せた。


画面には、まさことのメッセージが残っていた。


見られて困るような言葉は、何もない。


ただ、誰にも知られたくないと思った。


その感情こそが、二人の間に秘密が生まれ始めている証拠だった。


*


寝室に入ると、まなみはベッドに横になっていた。


「今日は疲れた?」


ひろきが尋ねると、まなみは目を閉じたまま答えた。


「うん。ちょっとね」


「明日も早いんだろ。先に寝ていいよ」


「ありがとう」


ひろきは、照明を落とした。


暗闇の中で、まなみの呼吸が少しずつ静かになっていく。


ひろきは、眠れなかった。


まさこは、今頃どうしているだろう。


少しは落ち着いただろうか。


自分に何かできることはあるだろうか。


考え始めると、止まらなかった。


やがて、ひろきは自分に問いかけた。


もし、まさこが自分を頼ってくれなくなったら。


もし、もう話をしたくないと言われたら。


自分は、寂しいと思うだろうか。


答えは、すぐに出た。


寂しい。


きっと、寂しいと思う。


その気持ちを認めたとき、ひろきは、自分がすでに一歩踏み出してしまっていることを理解した。


まだ、手をつないだわけでもない。


愛していると告げたわけでもない。


何かを約束したわけでもない。


けれど、心の中では、彼女のために空けておきたい場所ができていた。


それを、ただの友情と呼べるのか。


ひろきには、もう分からなかった。


隣では、まなみが眠っている。


長い年月をともに過ごし、これからも一緒に生きていくはずの妻。


ひろきは、そっと目を閉じた。


誰も傷つけたくない。


まなみも、まさこも。


そして、自分自身も。


そう願っていた。


しかし、誰も傷つけないために真実を隠せば、秘密は少しずつ大きくなる。


相手を安心させるための嘘は、いつしか、自分が望むものを守るための嘘へと変わっていく。


ひろきは、まだその違いに気づいていなかった。


まさこもまた、夫との問題を抱えたまま、ひろきに心を預け始めていた。


二人は、互いの孤独を理解していた。


だからこそ、相手の優しさに救われた。


そして、その優しさが、やがて誰かを傷つけることになるかもしれないという事実から、目を背けていた。


優しい嘘は、誰かを守るために生まれる。


けれど、嘘をつくことで守ろうとしたものが、本当に守りたかったものなのか。


その答えを知るには、まだ時間が必要だった。


### 次回 第11話「九条家の食卓」


しんいちの告白によって、まさこは長年抱えてきた罪悪感から、わずかに解放される。


しかし、九条家の食卓では、宗一郎が跡継ぎの問題を持ち出し、夫婦の決断を待たずに話を進めようとする。


一方、ひろきは、まさこからの相談をきっかけに、彼女の力になりたいという思いを強めていく。


誰かを支えたいという気持ちは、本当に相手のためだけのものなのか。


二人の心は、少しずつ、戻りにくい場所へ向かい始める。


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