第11話 九条家の食卓
九条家の朝食は、いつも静かだった。
長い食卓には、焼き魚、味噌汁、漬物、炊きたてのご飯が並んでいる。
まさこは箸を手に取りながら、向かいに座る夫を見た。
しんいちは、新聞を読みながら食事をしていた。
昨夜、二人は久しぶりに長い話をした。
夫にも、子供を授かることを難しくする原因がある。
その事実は、まさこの心に複雑な感情を残していた。
安堵。
怒り。
悲しみ。
そして、これまで夫に言えなかった自分の気持ちを、今度こそ伝えなければならないという思い。
しかし、朝になってみると、二人の生活は何も変わっていなかった。
「今日、病院に電話してみるわ」
まさこが言った。
しんいちは新聞から顔を上げた。
「再検査の予約か?」
「それもあるけど、私の治療についても相談したいの。今後、どうするのか、先生と話してみたい」
「そうだな。私も一緒に行こう」
まさこは少し驚いた。
「あなたも?」
「ああ。これからは、二人で話を聞いたほうがいいだろう」
その言葉に、まさこは小さく頷いた。
「……ありがとう」
素直に嬉しいと思った。
けれど、すぐに気持ちが晴れたわけではない。
これまで何年も、一人で病院へ通った。
検査結果を聞き、薬を受け取り、次の治療の日程を決めた。
帰宅してから、夫に報告する。
そんな生活を繰り返してきた。
その間、しんいちは仕事をし、家の用事をこなし、九条家の跡継ぎについて父と話し合っていた。
彼なりに責任を果たしていたのだろう。
しかし、まさこが欲しかったのは、治療費を負担してもらうことだけではなかった。
つらいときに、つらいと言えること。
結果が悪かったときに、一緒に悲しんでもらえること。
そして、子供を授かれなかったとしても、自分は妻として必要とされているのだと感じられること。
そういうことだった。
「しんいちさん」
「何だ?」
「私、まだ治療を続けるかどうか、決められないと思う」
しんいちは、箸を置いた。
「分かった。急いで決める必要はない」
「お義父さんは、納得しないと思う」
「父のことは、私が話す」
まさこは夫を見つめた。
その言葉を、信じたいと思った。
けれど、長い年月で身についた不安は、簡単には消えてくれなかった。
「約束してくれる?」
しんいちは、まさこの顔を見た。
「私の気持ちを、ちゃんと聞いてくれるって」
しばらくして、しんいちは答えた。
「ああ。約束する」
まさこは頷いた。
その約束が守られるかどうかは、これからの二人の行動で決まる。
今はまだ、それ以上のことを求める気にはなれなかった。
*
朝食を終えたしんいちは、書斎へ向かった。
机の上には、九条家の資産管理に関する書類が積まれていた。
その横に、病院でもらった検査結果の説明書が置いてある。
しんいちは、それを手に取った。
数字や専門用語が並ぶ紙面を見ても、自分の人生がどのように変わるのか、すぐには理解できなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
これまで、自分は子供ができない理由を、妻の身体に求めていた。
口に出して責めたことはない。
治療を受けろと強制したつもりもない。
しかし、九条家の跡継ぎを考えるたび、まさこが治療を続けることを当然のように受け止めていた。
自分も検査を受けるべきではなかったのか。
もっと早く、二人で向き合うべきだったのではないか。
しんいちは、紙を机に戻した。
後悔しても、過去は変わらない。
それでも、これからの行動は変えられる。
そのとき、書斎の扉がノックされた。
「入ってもいいか」
父の宗一郎だった。
「どうぞ」
宗一郎は部屋に入り、机の上の書類を見た。
「来月の親族会議だが、跡継ぎの話を避けるわけにはいかん」
「分かっています」
「分かっているなら、今後の方針を考えておけ。養子という選択肢もある。血筋を絶やすわけにはいかんからな」
しんいちは、父を見た。
「父さんは、なぜそこまで九条家の血筋にこだわるのですか」
宗一郎の顔が険しくなった。
「この家を守るためだ」
「家を守ることと、血筋を残すことは同じなのでしょうか」
「何を言っている」
「九条家が続くことは大切です。ですが、そのために、まさこがどれだけ苦しんできたか、父さんは考えたことがありますか」
宗一郎は、すぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「お前も、九条家の人間だ。責任がある」
「はい。だからこそ、妻の人生を犠牲にしてまで跡継ぎを求めることが、本当に正しいのか考えたいのです」
宗一郎は、息子を見つめた。
その目には怒りだけではなく、戸惑いもあった。
彼にとって、家を守ることは、長年疑うことのなかった責任だった。
自分もまた、先代から受け継いだものを守ろうとしてきた。
それを息子が問い直す。
簡単に受け入れられることではなかった。
「……お前がそこまで言うのなら、親族会議で説明しろ」
「分かりました」
「ただし、九条家の将来について、答えを出す覚悟はしておけ」
宗一郎はそう言い残し、書斎を出ていった。
しんいちは、閉じた扉を見つめた。
九条家を守ること。
妻を守ること。
その二つが、必ずしも同じ方向を向くとは限らない。
これまで自分は、両方を守っているつもりだった。
だが、本当は、どちらにも十分に向き合ってこなかったのかもしれない。
*
同じ日の昼休み。
ひろきは、会社の休憩室で弁当を食べていた。
スマートフォンを机の端に置き、何度も画面に目を向けてしまう。
まさこから、朝から連絡はなかった。
昨日の夜に交わした短いメッセージ。
それを最後に、二人の会話は止まっていた。
ひろきは、自分から連絡するべきか迷っていた。
彼女は夫と大切な話をしたと言っていた。
今は、夫婦で向き合う時間が必要なのかもしれない。
そう考える一方で、彼女がどうしているのか気になっていた。
気持ちが落ち着いただろうか。
少しは眠れただろうか。
自分にできることはないだろうか。
「ひろき、またスマホか?」
向かいの席から、佐伯健吾が声をかけた。
「え?」
「最近、よく見てるな。仕事の連絡?」
「ああ、まあ、そんなところ」
健吾は弁当の蓋を閉じた。
「そういえば、この前、お前が悩んでるなら聞くって言っただろ」
「……ああ」
「本当に大丈夫か?」
ひろきは、箸を持つ手を止めた。
健吾は、ひろきの長年の友人だ。
気取らずに話せる相手であり、これまで何度も助けられてきた。
だからこそ、話せないことがあった。
妻との関係が苦しい。
自分の気持ちを持て余している。
別の女性と知り合い、その人からの連絡を待っている。
そこまで話せば、健吾は何と言うだろう。
きっと、簡単に責めたりはしない。
だが、黙って賛成することもないだろう。
「……夫婦のことで、ちょっと考えることがあってさ」
ひろきは、ようやく口を開いた。
「まなみさんと?」
「ああ」
「何かあったのか?」
「何かあったというより、何も話せなくなってきたというか……」
ひろきは、言葉を探した。
「お互いに気を遣ってるんだと思う。相手が苦しんでるのが分かるから、自分のことを言えなくなる。そうしてるうちに、何を考えてるのか分からなくなるんだ」
健吾は、黙って聞いていた。
「俺も、まなみが苦しんでるのは分かってる。だから、俺まで寂しいなんて言ったら、余計につらくさせるんじゃないかと思って」
「それで、言わずにいるのか」
「ああ」
健吾は少し考えたあと、口を開いた。
「気を遣うのは悪いことじゃない。でも、相手を傷つけないために何も言わなくなったら、相手はお前が何を考えてるのか分からないままだろ」
ひろきは、顔を上げた。
「夫婦って、相手の気持ちを全部理解できるわけじゃないだろ。俺だって、嫁の考えてることが分からないときはあるよ。でも、分からないなら聞くしかないんじゃないか」
「……そうだな」
「それに、自分の寂しさを話すことと、相手に責任を押しつけることは違うだろ」
その言葉が、ひろきの胸に残った。
自分の寂しさを話してもいい。
そう言われたような気がした。
けれど、健吾は続けた。
「ただし、寂しいからって、別のところで埋めようとしたら、話は別だぞ」
ひろきの手が止まった。
「……どういう意味だよ」
「いや、一般論だよ。夫婦の問題って、外に逃げたら一時的に楽になるかもしれないけど、問題そのものがなくなるわけじゃないだろ」
健吾は、ひろきの目を見た。
「苦しいなら、苦しいって言えばいい。助けてほしいなら、助けてほしいって言えばいい。でも、自分が選んだことの責任まで、寂しさのせいにするなよ」
ひろきは、何も答えられなかった。
健吾は、彼がまさこと連絡を取り合っていることを知らない。
それなのに、まるで自分の心を見透かされたような気がした。
「……分かってる」
ひろきは、小さく答えた。
健吾は、それ以上追及しなかった。
「まあ、俺にできることがあったら言えよ」
「ああ。ありがとう」
健吾が席を立ったあとも、ひろきはしばらく動けなかった。
自分の寂しさを話すこと。
別の誰かに慰めてもらうこと。
その二つは、同じではない。
分かっている。
分かっているのに、自分はすでに、まさこからの言葉に救いを求めていた。
それを、どう説明すればいいのだろう。
*
その夜、まなみは学校から帰宅すると、リビングで書類を整理していた。
生徒の進路相談に使う資料だった。
ひろきが帰宅すると、まなみは顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま。何してるの?」
「進路相談の準備。来週、三者面談があるから」
「大変だな」
「うん。でも、嫌いじゃないよ」
まなみは、資料を揃えながら微笑んだ。
「生徒って、自分の将来が見えなくなると、すごく不安になるんだよね。何を選んでも失敗しそうだって」
「……そうなんだ」
「でも、私は、今すぐ正解を決めなくてもいいと思ってる。途中で考えが変わったっていいし、遠回りしたっていい。自分で考えて選んだ道なら、そこからまた考えればいいから」
ひろきは、妻を見つめた。
彼女の言葉は、生徒に向けたものだった。
けれど、今の自分に向けられているようにも感じた。
遠回りしたっていい。
選び直したっていい。
そう考えるなら、自分も、今から何かを変えられるのかもしれない。
だが、ひろきはそこで考えるのをやめた。
自分のしていることは、単なる遠回りなのだろうか。
もし、まなみが同じことをしていたら。
夫に言えない寂しさを、別の男性に打ち明け、その人からの連絡を待っていたら。
自分は、彼女の行動をどう受け止めるだろう。
ひろきは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「ひろき?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや……。まなみは、強いなと思って」
まなみは驚いたように笑った。
「そんなことないよ。私だって、迷うことばかり」
「そうかな」
「そうだよ。先生だからって、何でも分かるわけじゃないもの」
彼女は、書類を机に置いた。
「私だって、自分の人生のことは、まだ分からないことだらけだよ」
その言葉を聞いて、ひろきは何も言えなくなった。
まなみも、迷っている。
自分と同じように、これからの人生について考えている。
それなのに、自分は彼女の知らないところで、別の女性とのつながりを深めている。
その事実が、急に重く感じられた。
「……なあ、まなみ」
「何?」
「今度、少し話をしないか」
まなみは、手を止めた。
「話?」
「ああ。治療のこととか、これからのこととか。二人で、ちゃんと話したい」
まなみは、しばらくひろきを見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「うん。私も、話したいと思ってた」
ひろきは、ほっとした。
これで、少しは前に進めるかもしれない。
そう思った。
しかし、まさこからの連絡を待つ気持ちは、まだ消えていなかった。
妻と向き合おうとすることと、まさことのつながりを手放すこと。
ひろきは、その二つを別々の問題として考えようとしていた。
だが、本当は、無関係ではない。
自分が何を選ぶのか。
その選択から逃げ続けることは、もうできなくなり始めていた。
*
夜十時を過ぎた頃。
まさこは、自室で一人、窓の外を眺めていた。
夫との話し合いは、まだ終わっていない。
しんいちは、自分の検査結果を伝え、これからは二人で考えたいと言ってくれた。
その言葉を信じたい。
けれど、九条家には、跡継ぎを求める父がいる。
親族の期待もある。
夫婦二人の気持ちだけで決められることではないのかもしれない。
まさこは、スマートフォンを手に取った。
ひろきとのやり取りを開く。
今日も連絡はなかった。
彼は、仕事をしているのだろう。
妻と過ごしているのかもしれない。
そう考えたとき、胸の奥が少しだけ痛んだ。
何を期待しているのだろう。
彼には妻がいる。
自分にも夫がいる。
互いに家庭があり、守るべき生活がある。
それなのに、ひろきと話したいと思ってしまう。
まさこは、自分の気持ちを否定しようとした。
ただ、話を聞いてほしいだけ。
誰かに自分の苦しさを分かってほしいだけ。
それ以上の意味はない。
そう考えれば、何も問題はないように思えた。
しかし、彼女は気づいていた。
ひろきが自分の気持ちを聞いてくれることだけでなく、彼が自分を気にかけてくれること自体を、嬉しいと思い始めている。
それは、単なる相談相手に向ける気持ちと、少し違うのかもしれない。
まさこは、スマートフォンを置いた。
今夜は、連絡をしないでおこう。
夫と向き合わなければならない。
自分の人生について、きちんと考えなければならない。
そう決めた。
けれど、ベッドに入って目を閉じたあとも、ひろきの声が耳に残っていた。
『子供が欲しいことと、自分自身の人生を大切にしたいことは、別の話でしょう』
その言葉を思い出すと、胸が温かくなった。
自分を、九条家の妻という立場だけで見ない人。
自分の願いを、わがままだと決めつけない人。
そんな相手に出会えたことが、嬉しかった。
そして、その嬉しさを、夫にはまだ話せなかった。
*
同じ夜。
ひろきは、まなみが眠ったあとも、しばらく起きていた。
スマートフォンを手に取る。
まさこの名前を開く。
メッセージを送ろうかと思った。
今日はどうでしたか。
少しは落ち着きましたか。
そんな言葉なら、自然に送れる。
しかし、ひろきは、入力欄に何も打たなかった。
彼女のことを気にかけるのは悪いことではない。
困っている人の力になりたいと思うのも、悪いことではない。
けれど、自分は本当に、彼女のためだけに連絡をしたいのだろうか。
返信が来れば嬉しい。
自分を頼ってくれれば、もっと嬉しい。
その気持ちがあることを、ひろきは否定できなかった。
彼はスマートフォンを伏せた。
そして、隣で眠るまなみを見た。
彼女は、穏やかな寝息を立てていた。
明日も学校へ行き、生徒たちと向き合い、帰ってくるのだろう。
自分と同じように、迷いながら。
それでも、日常を続けながら。
ひろきは、そっと目を閉じた。
自分は、何を守りたいのだろう。
妻との生活か。
まさことのつながりか。
それとも、どちらにも傷つけられたくないという、自分勝手な願いなのか。
答えは、まだ出なかった。
ただ、一つだけ分かっていた。
誰かを大切に思うことは、その人の言葉を待つことだけではない。
相手の人生を尊重すること。
自分の行動が相手に与える影響を考えること。
そして、都合の悪い真実から逃げないこと。
ひろきは、そのことを、まだ十分には理解できていなかった。
だからこそ、彼はこれから、自分の選択によって、その意味を知ることになるのだろう。
冬の夜は静かだった。
けれど、その静けさの中で、三人の人生は少しずつ変わり始めていた。
しんいちは、家の期待と妻の人生の間で、初めて立ち止まった。
まなみは、夫婦としての未来を、もう一度考えようとしていた。
まさこは、自分の本音を受け止めてくれる人を、心の中で特別な存在にし始めていた。
そして、ひろきは――。
自分が誰かを必要としていることを認めながら、その気持ちにどこまで責任を持てるのか、まだ分からずにいた。
寂しさを理解してもらうことと、その寂しさを誰かに埋めてもらうことは、同じではない。
その違いを、彼らが知る日は、そう遠くなかった。
### 次回 第12話「あなたは疲れている」
まなみは、ひろきとの話し合いに向けて、自分の気持ちを整理し始める。
一方、まさこは夫との関係を立て直そうとするが、九条家の期待は簡単には消えない。
ひろきは、二人の女性の人生を尊重したいと思いながら、まさことのつながりに安らぎを求めてしまう。
そして、ひろきの友人・健吾は、彼の小さな変化を見逃さなかった。
誰かを支えたいという思いは、いつから自分を必要としてほしいという願いに変わるのか。
その境界線が、少しずつ見え始める。




