第12話 あなたは疲れている
1 妻が見つめていたもの
月曜日の朝。
まなみは、いつもより少し早く家を出た。
職員室に着くと、まだ人の少ない教室棟を歩き、進路指導室の鍵を開けた。
窓の外には、冬の薄い雲が広がっている。
机の上には、生徒たちが提出した進路希望調査票が積まれていた。
大学へ進む者。
専門学校を目指す者。
就職を希望する者。
まだ何も決められない者。
まなみは、一枚ずつ目を通した。
その中に、先週、進路について相談に来た女子生徒の名前があった。
彼女は、成績も悪くないのに、進路を決められずにいた。
両親からは大学への進学を勧められている。
本人は、手に職をつけられる専門学校に興味がある。
けれど、両親を失望させるのが怖くて、自分の希望を口にできないのだという。
『自分の人生なのに、誰かの期待を裏切るのが怖いんです』
彼女はそう言って、うつむいていた。
あのとき、まなみは答えた。
「誰かの期待に応えたいと思うことは、悪いことじゃないよ。でも、その期待に応えるために、自分の気持ちをなかったことにしなくてもいいんじゃないかな」
生徒は、すぐには返事をしなかった。
ただ、帰り際に小さく頭を下げた。
まなみは調査票を机に置いた。
自分は、生徒にはあんなことを言える。
自分の気持ちを大切にしていい。
誰かの期待だけで人生を決めなくていい。
間違えたら、やり直したっていい。
それなのに。
自分の人生になると、途端に何も決められなくなる。
子どもが欲しい。
夫と、普通の家族になりたい。
そう願って、治療を続けてきた。
しかし、いつからだろう。
子どもを授かることが、夫婦の幸せを確かめる唯一の方法のようになっていた。
治療を休むと言えば、諦めたことになるのだろうか。
もう一度頑張ると言えば、また自分を追い込むことになるのだろうか。
そもそも、自分は何を望んでいるのだろう。
まなみは、机の引き出しから小さな手帳を取り出した。
そこには、病院の予約日や治療の予定が細かく書き込まれている。
何年も前から使っている手帳だった。
ページをめくると、空白がほとんどない。
まなみは、最後のページを開いた。
そして、そこに初めて、治療とは関係のない言葉を書いた。
『私は、どう生きたい?』
書き終えた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
答えは、まだ出ない。
それでも、初めて自分自身に尋ねた気がした。
### 2 あなたは疲れている
その日の夕方。
ひろきが帰宅すると、まなみは夕食の準備をしていた。
「おかえり」
「ただいま。今日は早かったんだな」
「うん。明日の授業の準備があったから、少し早めに帰ってきたの」
食卓には、焼き魚と味噌汁、煮物が並んでいた。
特別な料理ではない。
二人が結婚したばかりの頃から、何度も食べてきた家庭の味だった。
ひろきは席につき、箸を取った。
「いただきます」
「いただきます」
しばらく、食器の音だけが続いた。
以前なら、まなみは学校であったことを話していた。
生徒の失敗談。
同僚とのやり取り。
職員室で流行っているお菓子の話。
ひろきも仕事の愚痴をこぼし、二人で笑うことがあった。
最近は、そうした会話が減っていた。
話すことがないわけではない。
ただ、話し始めると、いつの間にか治療や予定の話になってしまう。
二人とも、それを避けるようになっていた。
「ねえ、ひろき」
まなみが口を開いた。
「ん?」
「最近、疲れてる?」
ひろきは、箸を止めた。
「どうして?」
「なんとなく」
まなみは、ひろきの顔を見た。
目の下には薄い隈がある。
仕事が忙しいのだろう。
夜中に目を覚ますことも増えているようだった。
けれど、まなみが気になっていたのは、それだけではなかった。
ひろきは、家に帰ってきても、どこか別の場所に心を置いているように見えることがあった。
スマートフォンに視線を落とす時間が増えた。
何かを考えているのに、尋ねても「別に」と答える。
自分が話しかけると、少し遅れて顔を上げる。
その小さな変化が、まなみには気になっていた。
「仕事が忙しいだけだよ」
ひろきは答えた。
嘘ではない。
しかし、すべてを話しているわけでもなかった。
まなみは、その返事を聞いて、すぐに追及しなかった。
「そっか」
それだけ言って、味噌汁に口をつけた。
ひろきは、妻の横顔を見た。
責められたわけではない。
疑われたわけでもない。
それなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
まなみは、もう一度尋ねた。
「私も、疲れてるのかな」
「え?」
「最近、自分でもよく分からなくなるの。頑張りたいのか、休みたいのか。子どもが欲しいのは本当なんだけど、治療のことを考えるだけで苦しくなる日もある」
ひろきは、何も言えなかった。
「でも、治療をやめたら、後悔するのかなって思う。続けたら続けたで、いつまで頑張ればいいんだろうって思う」
まなみは、箸を置いた。
「ひろきは、どう思う?」
その問いは、簡単なものではなかった。
子どもが欲しいか。
治療を続けたいか。
これから二人でどう生きたいか。
どれも、ひろき自身が答えを出せずにいた問いだった。
「俺は……」
口を開きかけたとき、スマートフォンが震えた。
食卓の端に置いていた画面が、一瞬だけ明るくなる。
ひろきの視線が、反射的にそちらへ向いた。
まなみは、それを見逃さなかった。
しかし、何も言わなかった。
ひろきはスマートフォンを伏せた。
「ごめん。仕事の連絡かと思って」
「ううん」
まなみは、少しだけ笑った。
「急がなくていいよ。今すぐ答えを出してほしいわけじゃないから」
その優しさが、ひろきには苦しかった。
妻は、自分を責めない。
自分の苦しさを押しつけない。
それなのに、自分は妻に話せないことを抱え、別の女性との会話に安らぎを感じている。
まだ何もしていない。
そう言い聞かせることはできる。
しかし、何もしていないという言葉で、自分の心の動きまでなかったことにしていいのだろうか。
「まなみ」
「なに?」
「今度、ちゃんと話そう」
まなみは、少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「うん。私も、話したい」
その返事を聞きながら、ひろきは思った。
自分は、妻と向き合う機会を失ったわけではない。
まだ、ここにある。
ただし、それはいつまでも待っていてくれるものではないのかもしれなかった。
### 3 妻ではなく、一人の人間として
同じ頃、九条家では、まさこが書斎の前に立っていた。
扉の向こうから、しんいちの声が聞こえる。
電話で誰かと話しているようだった。
「……来月の親族会議までに、こちらの考えをまとめます」
しんいちは、落ち着いた声で話していた。
「父も、親族も、納得できる説明が必要でしょうから」
まさこは、扉に手を伸ばしかけて、止めた。
また、家の話だ。
九条家の将来。
跡継ぎ。
血筋。
親族への説明。
そこには、いつも自分の名前がある。
けれど、自分自身の気持ちは、どこにあるのだろう。
しばらくして電話が終わり、書斎の扉が開いた。
しんいちは、まさこを見て足を止めた。
「どうした?」
「少し、話がしたくて」
「分かった。座ろう」
二人は応接間へ移動した。
まさこは、用意された紅茶には手をつけずに話し始めた。
「私、次の診察で、治療を続けるかどうか相談したいの」
「この前も話していたな」
「うん。でも、今日はそれだけじゃないの」
まさこは、指を組んだ。
「私、ずっと考えていたの。もし子どもができなかったら、私はこの家でどうなるんだろうって」
しんいちは、黙って聞いていた。
「あなたの妻であることは変わらない。そう思いたい。でも、この家では、私が妻であることより、跡継ぎを産めるかどうかのほうが大切なんじゃないかって感じることがある」
「そんなことはない」
しんいちは、すぐに答えた。
しかし、まさこは首を横に振った。
「あなたがそう思っていなくても、周りはそう思っている。あなたのお父様も、親戚の人たちも。私だって、いつの間にか、それを当たり前だと思うようになっていた」
彼女の声は、責めるようなものではなかった。
むしろ、長い間、自分自身にも言えなかったことを、ようやく口にしているようだった。
「子どもが欲しい気持ちは、今もあるの。だから、治療をやめたいと決めたわけじゃない」
「分かっている」
「でもね、しんいちさん」
まさこは、夫の目を見た。
「私は、あなたの妻である前に、一人の人間として、この先の人生を考えたいの」
しんいちは、すぐに返事ができなかった。
これまで彼は、まさこの苦しみを治療の負担として考えてきた。
体がつらいのだろう。
結果が出ないことに落ち込んでいるのだろう。
そう理解しているつもりだった。
しかし、彼女が話しているのは、それだけではない。
自分の人生が、自分のものではなくなっていく恐怖だった。
「……君は、私にどうしてほしい?」
しんいちが尋ねた。
まさこは、少し考えた。
「私の代わりに決めないでほしい。私のためだと言って、私の気持ちを置いていかないでほしい」
しんいちは、視線を落とした。
彼自身もまた、父の期待を背負って生きてきた。
家を守ること。
跡を継ぐこと。
家名を絶やさないこと。
それらを果たすのが、自分の役目だと思っていた。
だからこそ、まさこにも同じ役割を求めていたのかもしれない。
「分かった」
しんいちは、静かに言った。
「次の診察には、一緒に行こう。それから、治療を続けるかどうかは、君の気持ちを聞いて、二人で考えたい」
まさこは、夫を見つめた。
その言葉だけで、すべてが変わるわけではない。
これまで積み重なった傷が、簡単に消えるわけでもない。
それでも、夫が初めて、自分の答えを待とうとしている。
「ありがとう」
まさこは言った。
そして、少し間を置いて続けた。
「私も、あなたの気持ちを聞きたい。子どもが欲しいのか。それとも、九条家の跡継ぎが必要なだけなのか」
しんいちの表情が揺れた。
その問いに、彼はまだ答えられなかった。
まさこも、答えを急かさなかった。
二人の間には、長い沈黙があった。
けれど、これまでの沈黙とは少し違っていた。
何も言えないから黙っているのではない。
言わなければならないことがあると、二人とも気づき始めていたのだ。
### 4 必要とされること
その夜、ひろきは寝室でスマートフォンを手にしていた。
まなみは、隣で本を読んでいる。
ときどきページをめくる音がする。
ひろきは画面を開き、メッセージの履歴を見た。
まさこからの最後の連絡は、数日前のものだった。
『話を聞いてくれて、ありがとうございました』
それだけの短い文章だった。
ひろきは、その言葉を何度も読み返していた。
自分の言葉が、誰かの役に立った。
誰かが、自分を頼ってくれた。
それが、思っていた以上に嬉しかった。
まなみとの間では、いつからか、互いを頼ることが難しくなっていた。
頼れば、相手に負担をかける。
本音を言えば、傷つけてしまう。
そんな思いが先に立って、二人とも言葉を飲み込むようになった。
一方、まさことは、少しずつ自分の気持ちを話せるようになっていた。
ひろきも、まさこの話を聞いているときには、何かを解決しなければならないという焦りがなかった。
ただ、聞いていればよかった。
それが心地よかった。
しかし、ひろきは気づき始めていた。
自分は本当に、まさこを支えたいだけなのだろうか。
彼女が苦しんでいるとき、力になりたいと思う。
それは嘘ではない。
けれど、彼女が自分を頼ってくれることを期待している自分もいる。
自分がいなければ、彼女は誰に話すのだろう。
自分の言葉を、彼女は待っているだろうか。
そんなことを考えるたび、胸の奥に小さな喜びが生まれた。
その喜びに、ひろきは名前をつけたくなかった。
名前をつければ、自分が何を求めているのか、認めなければならなくなるからだ。
「ひろき?」
隣から声がした。
ひろきは、慌てて顔を上げた。
「なに?」
「さっきから、ずっとスマートフォンを見ているから」
まなみは本を閉じた。
「誰かと連絡しているの?」
ひろきの心臓が、一瞬、強く鳴った。
「仕事の連絡を確認していただけだよ」
言葉は、自然に出た。
まなみは、しばらくひろきを見つめていた。
それから、小さくうなずいた。
「そっか」
それ以上、尋ねなかった。
ひろきは、ほっとした。
同時に、その安堵を恥ずかしく感じた。
妻が追及しなかったから、助かった。
そう思っている自分がいた。
まなみは、再び本を開いた。
けれど、すぐには読み始めなかった。
「ねえ、ひろき」
「うん?」
「私たち、もっと早く話せばよかったのかな」
ひろきは、返事に迷った。
「何を?」
「いろいろ。治療のことも、子どものことも。寂しいとか、つらいとか。そういうこと」
まなみは、本の表紙を指でなぞった。
「私、ひろきに心配をかけたくなかった。でも、何も言わないことで、ひろきにも寂しい思いをさせていたのかもしれないね」
ひろきは、胸が締めつけられた。
妻は、自分の苦しみだけを考えているわけではなかった。
自分の知らないところで、夫の気持ちまで考えていた。
「まなみ、俺は……」
今なら言えたかもしれない。
寂しかった。
自分も苦しかった。
本当は、もっと触れ合いたかった。
もっと、妻に自分を見てほしかった。
けれど、同時に、まさこと話している時間が心地よかったことも、心のどこかにあった。
すべてを話せない。
そのことが、言葉を止めた。
「俺も、ちゃんと話したいと思ってる」
結局、口から出たのは、それだけだった。
まなみは、静かにうなずいた。
「うん。私も」
明かりを消したあと、二人は背中を向けて横になった。
同じ部屋にいる。
手を伸ばせば、届く距離にいる。
それでも、二人の間には、言葉にできないものが横たわっていた。
ひろきは目を閉じた。
まさこの言葉を思い出す。
まなみの声を思い出す。
自分は、誰を傷つけたくないのだろう。
まなみを。
まさこを。
それとも、どちらからも必要とされる自分を失いたくないだけなのだろうか。
ひろきは、答えを出せなかった。
そして、その答えを先延ばしにすることもまた、一つの選択なのだと、まだ十分には理解していなかった。
### 5 変化に気づく友人
翌日の昼休み。
ひろきは、会社の休憩スペースで健吾と向かい合っていた。
健吾は弁当を食べながら、ひろきの顔をちらりと見た。
「なあ、お前、最近ちょっと変わったな」
「何が?」
「スマホを気にするようになった」
ひろきの手が止まった。
「そんなことないだろ」
「いや、あるよ。前は昼休みになったら、スマホなんか放っておいて飯を食ってたじゃないか」
健吾は、それ以上ふざけた調子を続けなかった。
「何かあったのか?」
ひろきは、弁当のふたを見つめた。
まさことのことを話すわけにはいかない。
まだ、何も始まっていない。
そう考えることもできる。
けれど、何も始まっていないからこそ、今なら引き返せるのかもしれない。
「……家のことで、ちょっとな」
「まなみさんと?」
「うん」
健吾は、箸を置いた。
「話せてるのか?」
ひろきは、少し考えてから答えた。
「昨日、少し話した」
「そうか」
「これから、ちゃんと話そうと思ってる」
健吾はうなずいた。
「それはいいことだと思う」
ひろきは、ほっとした。
しかし、健吾は続けた。
「ただな、ひろき。人間って、自分に都合のいいところだけを見てしまうことがあるんだよ」
「どういう意味だ?」
「誰かに優しくされると、その人は自分を理解してくれているって思いたくなる。自分を頼ってくれると、特別な存在になれた気がする」
健吾は、少しだけ笑った。
「でも、相手にとって自分が必要だってことと、自分が相手を幸せにできるってことは、同じじゃないんだよな」
ひろきは、何も言わなかった。
健吾は、ひろきが何かを隠していると確信しているわけではなかった。
ただ、友人として、気になっていた。
「お前が誰かの力になりたいと思うのは、悪いことじゃない。でも、その人に必要とされることで、自分の寂しさを埋めようとしているなら、ちょっと立ち止まったほうがいい」
「……分かってるよ」
ひろきは答えた。
だが、その声には、自分でも気づかないほどの硬さがあった。
健吾は、それ以上追及しなかった。
「まあ、俺にできるのはここまでだ。夫婦のことは夫婦でしか決められないからな」
そう言って、再び弁当を食べ始めた。
ひろきも箸を持った。
食べ物の味が、あまりしなかった。
健吾の言葉が、頭の中に残っていた。
誰かに必要とされること。
誰かを幸せにすること。
その二つを、いつの間にか同じものだと思い始めていたのかもしれない。
### 6 送らなかった言葉
その夜。
まさこは、寝室の窓辺に立っていた。
庭の木々は、冬の風に揺れている。
しんいちは、書斎で仕事をしていた。
以前なら、まさこは一人で過ごす時間を、寂しいと感じていた。
今も寂しさがなくなったわけではない。
ただ、夫と話したことで、少しだけ考えが変わった。
自分の人生を考えるためには、誰かに答えをもらうのではなく、自分の気持ちを知る必要がある。
ひろきと話すと、気持ちが軽くなる。
それは確かだった。
けれど、ひろきに話すことだけが、自分の心を守る方法になってしまったら。
夫との問題から目をそらすために、彼の優しさを頼るようになってしまったら。
それは、本当に自分が望んでいることなのだろうか。
まさこは、スマートフォンを手に取った。
ひろきの連絡先を開く。
メッセージ欄に、言葉を打ち込んだ。
『今日、少しだけ話せませんか』
指が止まった。
送信ボタンを押せば、きっとひろきは返事をくれる。
忙しくても、話を聞いてくれるかもしれない。
そのことを想像すると、胸の奥が温かくなった。
同時に、まさこは不安になった。
自分は、ひろきの優しさを求めているのか。
それとも、ひろきから優しくされる自分を求めているのか。
二つは似ているようで、違う。
まさこは、入力した文章を消した。
そしてスマートフォンを伏せた。
今日は、夫と話したい。
自分が何を望んでいるのか、少しずつでも考えたい。
その選択が正しいのかどうかは、まだ分からない。
ただ、誰かの優しさに身を預ける前に、自分自身の人生から逃げないでいたかった。
一方、ひろきもまた、自宅のソファでスマートフォンを眺めていた。
まさこからの連絡はない。
それを残念に思う自分がいた。
連絡が来れば、返事をするつもりだった。
話を聞くつもりだった。
そう考えているうちに、ひろきは気づいた。
自分は、彼女が困っていることを心配しているだけではない。
彼女から連絡が来ることを、待っている。
自分が必要とされる瞬間を、待っている。
その事実に気づいたとき、ひろきはスマートフォンを伏せた。
隣の部屋から、まなみが洗濯物をたたむ音が聞こえる。
いつもと変わらない、家の音だった。
ひろきは、その音に耳を澄ませた。
自分が守りたいものは、確かにここにある。
けれど、守りたいと思うだけでは、守れないものもある。
言葉にしなければ、伝わらないことがある。
向き合わなければ、変わらないことがある。
そして、自分の心の中で育ち始めた感情を、なかったことにすることもできない。
ひろきは、スマートフォンを手に取り、まなみにメッセージを送ろうとした。
同じ家にいるのに、文章で伝えようとする自分がおかしく思えて、やめた。
代わりに、立ち上がった。
「まなみ」
洗濯物をたたんでいた妻が、顔を上げる。
「どうしたの?」
ひろきは、すぐには言葉を見つけられなかった。
それでも、今度は逃げずに、妻の目を見た。
「明日、少し時間を作れないかな。二人で、ちゃんと話したい」
まなみは、驚いたように目を瞬かせた。
それから、穏やかに笑った。
「うん。作るよ」
その笑顔を見て、ひろきは思った。
自分には、まだ選べる道がある。
ただし、選ばなかった道の先に何があるのかを、いつか知ることになるのかもしれない。
冬の夜は、静かに更けていった。
二人の人生は、まだ同じ家の中にあった。
しかし、それぞれの心が向かう先は、少しずつ違い始めていた。
### 次回予告
第13話「言えなかった願い」
ひろきとまなみは、これからの夫婦の生活について話し合う。
治療を続けるのか、休むのか。
子どもがいない人生を、二人で考えられるのか。
まなみは、長い間胸の奥にしまってきた願いを口にしようとする。
一方、まさこは、しんいちの本当の気持ちを知りたいと願う。九条家の跡継ぎという問題が、二人の夫婦関係を再び揺さぶり始める。
そしてひろきは、まなみと向き合おうとする一方で、まさこと話したときの安らぎを忘れられずにいた。
誰かを大切に思うことと、その人の人生に踏み込むこと。その境界線は、どこにあるのだろうか。




