第13話 言えなかった願い
1 夫婦で決めるということ
翌日の夜。
ひろきとまなみは、久しぶりに食卓の向かい側ではなく、リビングのソファに並んで座っていた。
テレビは消してある。
テーブルには、まなみが淹れた温かいお茶が二つ置かれていた。
「何から話そうか」
まなみが尋ねた。
ひろきは、少し考えてから答えた。
「まずは、治療のことかな」
「うん」
「俺は……まなみがつらいなら、少し休んでもいいと思ってる」
まなみは、カップを両手で包んだ。
その言葉を、何度も想像したことがある。
夫が治療を休んでもいいと言ってくれたら。
無理をしなくていいと言ってくれたら。
どれほど気持ちが楽になるだろう。
しかし、実際に聞いてみると、すぐには喜べなかった。
「ひろきは、本当にそう思ってる?」
「うん」
「私が治療を休んだら、後悔しない?」
ひろきは、返事に詰まった。
後悔するかもしれない。
子どもが欲しいという願いを、まだ完全には捨てられない。
けれど、まなみが苦しんでいる姿を見るのもつらかった。
自分の気持ちを正直に言えば、彼女に負担をかけてしまう気がした。
「後悔するかどうかは、今は分からない。でも、まなみだけが無理をするのは違うと思う」
まなみは、夫の顔を見た。
「私だけが?」
「……うん」
「ひろきも、無理をしてる?」
ひろきは、思わず目をそらした。
その問いに、胸の奥が反応した。
自分も苦しい。
自分も寂しい。
そう言いたかった。
しかし、言葉にすることができなかった。
まなみは、小さく息を吐いた。
「私ね、ずっと、ひろきに申し訳ないと思ってたの」
「何が?」
「子どもを授かれないこと。治療で疲れて、あなたが求めてくれることに応えられないこと。普通の夫婦なら、もっと自然にできることが、私たちには難しいこと」
「まなみ、それは……」
「分かってる。ひろきが私を責めていないことくらい、分かってるよ」
まなみは、少しだけ笑った。
「でも、自分で自分を責めてしまうの。あなたが何も言わなくても、私の中に、ずっとそういう気持ちがある」
ひろきは、妻の手を見た。
何度も握った手だった。
結婚したばかりの頃、二人で歩きながら自然につないでいた手。
病院の帰り、結果を聞いて落ち込むまなみの手を、握っていたこともある。
いつからだろう。
触れる前に、相手の気持ちを考えすぎるようになったのは。
「俺だって、寂しいと思うことはあるよ」
ひろきは、ようやく口にした。
まなみが顔を上げた。
「うん」
「でも、それは、まなみが悪いってことじゃない。俺も、どうしたらいいのか分からなかったんだ」
「……そうだったんだね」
まなみは、ゆっくりとうなずいた。
その表情には、安堵と悲しみが混ざっていた。
互いに苦しんでいた。
それなのに、二人とも相手を傷つけたくなくて、何も言わなかった。
その結果、二人の間には、話せないことばかりが積み重なっていた。
「ねえ、ひろき」
「うん」
「治療を続けるかどうか、少し時間をもらってもいい?」
「もちろん」
「すぐに答えを出すんじゃなくて、私が本当はどうしたいのか、考えたい」
「分かった」
まなみは、カップをテーブルに置いた。
「それとね。子どもができなかったとしても、私たちの生活が全部失敗だったとは思いたくない」
ひろきは、黙って聞いていた。
「私は、ひろきと結婚したとき、子どもがいる未来を想像してた。家族で出かけたり、子どもの成長を一緒に喜んだり。そういう生活が、当たり前にやってくると思ってた」
まなみの目が、少し潤んだ。
「だから、それが叶わないかもしれないって考えると、今までの自分の人生まで、間違っていたような気がしてしまうの」
ひろきは、首を横に振った。
「そんなことないよ」
「うん。頭では分かってる」
まなみは、目元を拭った。
「でも、心が追いつかないの」
ひろきは、妻の肩に手を置いた。
まなみは、その手を拒まなかった。
久しぶりに、二人は少しだけ近づいた。
しかし、ひろきの胸の奥には、まだ言えないことが残っていた。
まさこと話すとき、自分がどれほど救われた気持ちになっていたのか。
彼女から連絡が来るのを、どれほど待っていたのか。
今ここで妻と向き合っている自分と、別の女性を思い浮かべる自分。
その二つを、どうすれば一つに戻せるのか。
ひろきには、まだ分からなかった。
### 2 子どもがいない未来
その夜、まなみは一人で寝室に残った。
ひろきは、翌日の仕事の準備をするために書斎へ移動していた。
まなみは枕元の引き出しを開けた。
中には、古い写真が入っている。
結婚式の写真。
新婚旅行で撮った写真。
二人で初めて住んだアパートの前で撮った写真。
どれも、今より少し若い二人が笑っていた。
まなみは、新婚旅行の写真を手に取った。
海を背景に、ひろきが肩を抱いている。
自分は、ひろきの腕に寄りかかりながら、幸せそうに笑っていた。
あの頃は、未来が明るく見えた。
子どもは、いつか自然に授かるものだと思っていた。
もしすぐに授からなくても、少し待てばいい。
それでも難しければ、病院に相談すればいい。
そう考えていた。
けれど、現実は想像していたものとは違った。
検査。
通院。
薬。
結果を待つ時間。
期待して、落ち込んで、また期待する。
周囲からの何気ない質問。
親戚の集まりで聞かれる「子どもはまだなの?」という言葉。
悪意がないと分かっているからこそ、傷ついたことを伝えられなかった。
やがて、子どもができないことを説明するのも疲れてしまった。
「いつかできるよ」
「考えすぎないほうがいいよ」
「まだ若いんだから」
その言葉を聞くたび、まなみは笑ってうなずいた。
けれど、本当は何度も叫びたかった。
自分だって、できることなら考えずにいたい。
できることなら、病院の予約を気にせず、自然に未来を考えたい。
できることなら、何も心配せずに夫に甘えたい。
まなみは、写真を胸に抱いた。
そして、ずっと考えないようにしてきた未来を想像した。
もし、この先も子どもを授からなかったら。
二人だけで年を重ねていく。
休日に二人で食事をする。
旅行に出かける。
年末には、互いの実家を訪ねる。
何年も先には、どちらかが病気になり、もう一人が看病するかもしれない。
そうして、二人で暮らしていく。
その未来は、寂しいのだろうか。
それとも、自分が想像していた家族とは違うだけで、別の幸せがあるのだろうか。
まなみは、目を閉じた。
分からなかった。
子どもを諦めたくない気持ちは、まだ残っている。
それでも、子どもがいない未来を、最初から不幸だと決めつけたくなかった。
自分が本当に欲しいものは、子どもだけなのだろうか。
子どもを授かることで、夫婦として認められたかったのだろうか。
それとも、誰にも説明しなくていい、安心できる家庭が欲しかったのだろうか。
まなみは、写真を元の場所に戻した。
明日、学校へ行けば、生徒たちが待っている。
進路に迷う生徒。
家庭のことで悩む生徒。
自分の価値が分からなくなっている生徒。
彼らに向き合うとき、まなみはいつも思っていた。
人生は、一つの結果だけで決まるものではない。
ならば、自分の人生にも、同じ言葉をかけていいのではないだろうか。
「私も、もう少し考えてみよう」
誰に聞かせるでもなく、まなみはつぶやいた。
その声は小さかった。
けれど、長い間、自分の気持ちを後回しにしてきた彼女が、初めて自分自身に向けた言葉だった。
### 3 夫が言えなかったこと
翌日の昼休み。
ひろきは会社の近くの公園で、弁当を食べていた。
冬の空気は冷たく、ベンチに座っていると指先がかじかんだ。
スマートフォンを取り出す。
まさこからの連絡は、まだなかった。
ひろきは、自分から連絡を送ろうかと考えた。
昨日はどうしているだろう。
しんいちとは、話せただろうか。
治療のことは、少し整理できただろうか。
気になることはいくつもあった。
しかし、どれも、今すぐ自分が尋ねなければならないことではなかった。
ひろきは画面を閉じた。
昨夜、まなみと話したとき、少しだけ気持ちが軽くなった。
妻も苦しんでいた。
自分だけが孤独だったわけではない。
二人とも、相手を大切に思うあまり、気持ちを隠していた。
そのことを知れたのは、大きな一歩だったと思う。
それでも、まさこと話したいという気持ちは消えなかった。
妻と話すことと、まさこと話したいと思うこと。
どちらか一つだけなら、簡単だったのかもしれない。
しかし、今のひろきは、二つの感情を抱えたまま、どちらも失いたくないと思っていた。
それが身勝手なことだと、頭では分かっている。
まなみには、夫婦として向き合いたいと言った。
まさこには、何も約束していない。
それなのに、心の中では、まさこが自分を頼ってくれることを望んでいる。
自分が何もしていないことを、免罪符にしているのではないか。
ひろきは、ベンチから立ち上がった。
午後の仕事が始まる。
目の前の仕事に集中すれば、考えなくて済む。
そう思って歩き始めたとき、スマートフォンが震えた。
画面には、まさこの名前が表示されていた。
『お仕事中にすみません。少しだけ、お伝えしたいことがあって』
ひろきは立ち止まった。
心臓が、わずかに速くなる。
すぐに返事をしたい。
彼女が何を伝えようとしているのか、知りたい。
けれど、昨日の健吾の言葉がよみがえった。
誰かに必要とされることと、その人を幸せにできることは、同じではない。
ひろきは、しばらく画面を見つめてから返信した。
『今は仕事中なので、夕方なら少し時間があります。急ぎのことなら、無理せず教えてください』
送信したあと、ひろきは自分の文章を読み返した。
距離を置こうとしているようにも見える。
それでも、完全に拒むことはできなかった。
しばらくして、まさこから返事が届いた。
『ありがとうございます。急ぎではありません。しんいちさんと話したことを、誰かに聞いてほしくなってしまいました』
ひろきは、画面を見つめた。
しんいちと話した。
そのことを、まず喜ぶべきなのだろう。
夫婦が向き合おうとしているのなら、それはよいことのはずだ。
それなのに、まさこが自分に話したいと思ってくれたことが、嬉しかった。
ひろきは、その感情を否定できなかった。
ただ、その感情のまま行動していいとは思えなかった。
『分かりました。仕事が終わったら、また連絡します』
そう返信して、スマートフォンをしまった。
今夜、話を聞くべきなのか。
それとも、彼女が夫と向き合う時間を尊重すべきなのか。
ひろきには、まだ答えが出なかった。
### 4 夫の本当の願い
九条家の書斎では、しんいちが一枚の書類を見つめていた。
医師から受け取った検査結果の写しだった。
そこには、自分の生殖機能に関する所見が記されている。
治療の可能性が完全にないわけではない。
しかし、簡単に結果が出るものでもない。
しんいちは、書類を引き出しにしまおうとして、手を止めた。
今まで、彼は自分が何を望んでいるのか、深く考えてこなかった。
九条家の跡継ぎを残す。
それが、自分の役割だと思っていた。
父から期待され、親族から期待され、妻にもその期待を背負わせてきた。
けれど、自分の体に問題があると知ったとき、最初に感じたのは、家を継げないかもしれないという恐怖だった。
まさこの苦しみを知っていたはずなのに。
彼女が何年も治療を続けてきたことを、見ていたはずなのに。
自分は、どこかで他人事のように考えていた。
自分は正常で、妻の側に原因があるのだと、無意識に決めつけていた。
その思い込みが崩れたとき、しんいちは初めて、まさこの立場を想像した。
もし自分が、毎月のように期待を抱き、そのたびに失望する立場だったら。
周囲から、跡継ぎを産むことが当然だと言われ続けたら。
妻としての価値を、子どもを授かれるかどうかで測られたら。
耐えられるだろうか。
しんいちは、椅子の背にもたれた。
自分もまた、父の期待から自由ではなかった。
幼い頃、父はよく言った。
「九条の名を守るのは、お前の役目だ」
それは、しんいちにとって誇りだった。
同時に、逃げることのできない鎖でもあった。
父を失望させてはいけない。
家を途絶えさせてはいけない。
自分の代で、何かを終わらせてはいけない。
そう思って生きてきた。
けれど、もし子どもが生まれたとしても、その子に同じ言葉を伝えることになるのだろうか。
「お前が九条家を守るのだ」と。
その子が何を望んでいるのかを聞く前に、役割を与えることになるのだろうか。
しんいちは、窓の外を見た。
自分は、子どもが欲しいのか。
それとも、自分が父に認められるために、跡継ぎが必要なのか。
二つの気持ちは、これまで一つのものだと思っていた。
しかし、今は違うのかもしれないと思い始めていた。
書斎の扉がノックされた。
「どうぞ」
まさこが入ってきた。
「今、少し話せる?」
「ああ」
まさこは、机の前に座った。
「昨日の話、考えてくれた?」
しんいちは、すぐには答えなかった。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「私は、君に子どもを産んでほしいと思っていた。いや、正確には……九条家の跡継ぎを残してほしいと思っていたんだと思う」
まさこは、黙って聞いていた。
「その二つを、同じものだと考えていた。君も私と同じように望んでいると、勝手に思っていた」
しんいちは、視線を落とした。
「でも、君の気持ちを、きちんと聞いてこなかった」
まさこは、唇をかみしめた。
長い間、聞きたかった言葉だった。
けれど、聞けたからといって、すぐに許せるわけではない。
「私は、子どもが欲しいよ」
まさこは言った。
「でも、子どもを産むことでしか、この家にいられないのなら、怖いの」
しんいちは、顔を上げた。
「君は、ここにいていい」
「あなたがそう言ってくれても、家族全員がそう思ってくれるわけじゃない」
「……そうだな」
しんいちは、初めて否定しなかった。
「だから、私が父と話す。親族にも、これまでと同じ考えではいられないと伝える」
まさこは、驚いたように夫を見た。
「あなたが、そこまでしてくれるの?」
「まだ、何も解決していない。私自身、どうするべきか分からないこともある」
しんいちは、正直に答えた。
「それでも、君一人に背負わせるのは違うと思う」
まさこは、ゆっくりとうなずいた。
その言葉を、信じたいと思った。
同時に、これから夫がどのような行動を取るのか、見ていかなければならないとも思った。
言葉だけで、長年の関係が変わるわけではない。
それは、まなみとひろきの夫婦も同じだった。
人は、何かを理解した瞬間に変わるのではない。
理解したあと、何を選び、何を続けるかによって変わっていくのだ。
### 5 言えなかった願い
夜。
ひろきは帰宅すると、リビングでまなみと顔を合わせた。
「おかえり」
「ただいま」
まなみは、テーブルに置いていたノートを閉じた。
「何を書いてたの?」
「これからのこと」
「これから?」
「うん。仕事のことも、生活のことも。治療のことも」
ひろきは、妻の隣に座った。
「何か、決まった?」
「まだ。でも、考えたいことが少し分かってきた」
まなみは、ノートを開いた。
そこには、いくつかの言葉が書かれていた。
『治療を続けるか』
『子どもがいない未来』
『自分の仕事』
『夫婦の時間』
『自分が本当に望んでいること』
ひろきは、一つずつ目を通した。
「仕事のことも、考えてるんだな」
「うん。私、子どものことばかり考えてきたでしょう。でも、学校の仕事も好きなの。生徒たちと話していると、自分が誰かの役に立てているって思えることがある」
まなみは、少し照れたように笑った。
「もちろん、仕事だけがあればいいわけじゃないよ。でも、私の人生には、子どもを授かること以外にも大切なものがあるんだって、思い出したいの」
ひろきは、胸が温かくなるのを感じた。
妻が、自分の人生を取り戻そうとしている。
それは、喜ばしいことだった。
同時に、彼は気づいた。
まなみは、子どもがいない人生を考え始めている。
それは、決して諦めたということではない。
ただ、結果がどうなっても、自分の人生を失わないために考えているのだ。
「俺も、一緒に考えたい」
ひろきは言った。
「うん。一緒に考えよう」
まなみは、ノートを閉じた。
しばらく、二人は黙っていた。
やがて、まなみが小さな声で言った。
「私ね、本当は、ひろきにもっと甘えたかったんだと思う」
ひろきは、妻を見た。
「甘える?」
「うん。つらいときに、つらいって言いたかった。今日は何もしたくないって言いたかった。子どものことを考えたくない日には、考えたくないって言いたかった」
まなみの目に、涙が浮かんだ。
「でも、そんなことを言ったら、ひろきまで諦めてしまうんじゃないかって怖かったの。私が弱音を吐いたら、二人とも前に進めなくなる気がして」
ひろきは、何も言えなかった。
「だから、平気なふりをしていたのかもしれない。あなたの前では、頑張らなきゃって思ってた」
まなみは、涙を拭いた。
「でも、本当は、ただ一緒にいてほしかっただけなのかもしれないね」
その言葉が、ひろきの胸に深く刺さった。
彼女が求めていたのは、完璧な夫ではなかった。
治療を成功させる人でも、いつも正しい答えを出す人でもなかった。
ただ、隣にいてほしかった。
自分の苦しみを、二人の苦しみとして受け止めてほしかった。
ひろきは、妻の手を握った。
「ごめんな」
「どうして謝るの?」
「俺も、もっと話せばよかった」
ひろきは、そう答えた。
その言葉は本心だった。
しかし、すべてではなかった。
まなみの手を握りながら、ひろきの心の片隅には、まさこの存在があった。
彼女の話を聞きたい。
彼女の苦しみも、知りたい。
自分が彼女にとって、どんな存在なのか知りたい。
そう思う気持ちは、まだ消えていなかった。
ひろきは、妻の手を握る力を少し強めた。
今、自分が何をすべきなのか。
少なくとも、妻の苦しみを知った今、以前と同じように振る舞うことはできない。
そして、まさこへの気持ちについても、いつか自分自身で向き合わなければならない。
ひろきは、そのことを初めて、はっきりと感じていた。
### 6 それぞれの願い
深夜。
まなみが眠ったあと、ひろきは一人でリビングにいた。
スマートフォンを手に取る。
まさこからの新しいメッセージが届いていた。
『今日は、しんいちさんと少し話せました。まだ不安はありますが、今まで言えなかったことを伝えられました』
ひろきは、画面を見つめた。
よかった。
そう思った。
彼女が夫と話せたことを、本当に嬉しく感じた。
けれど、同時に、少しだけ寂しかった。
自分が聞かなくても、彼女には話せる相手がいる。
夫婦で向き合うことができる。
それは、本来なら喜ぶべきことだった。
ひろきは、ゆっくりと返信した。
『話せてよかったですね。すぐに答えが出なくても、少しずつ話していけるといいですね』
送信する。
すぐに返事が届いた。
『ありがとうございます。ひろきさんも、奥様と話せましたか?』
ひろきは、少し驚いた。
まさこも、自分のことを気にかけてくれている。
そう感じると、心が揺れた。
『はい。少しですが、話せました』
そこまで打ち込んで、ひろきは指を止めた。
続けて何かを書きたくなった。
本当は、もっと話したい。
今日、妻と話したことを伝えたい。
自分が感じたことを、まさこにも聞いてほしい。
しかし、それを伝えれば、また二人の会話が深まっていく。
互いの孤独を分かち合い、互いを必要とする気持ちが強くなっていくかもしれない。
ひろきは、文章を短く整えた。
『お互い、焦らず考えていきましょう』
送信したあと、スマートフォンをテーブルに置いた。
これが正しい選択なのかは、分からない。
ただ、今夜はこれ以上、踏み込まないことにした。
まさこもまた、夫との会話を思い返していた。
まだ不安はある。
九条家の問題も、簡単には解決しない。
それでも、しんいちが自分の話を聞こうとしたことは、確かな変化だった。
まさこは、ひろきとのメッセージを読み返した。
彼の優しさに救われたことは、否定できない。
彼と話すと、自分が一人の人間として扱われているように感じた。
けれど、彼にも妻がいる。
自分にも夫がいる。
それぞれに、向き合うべき人生がある。
まさこは、スマートフォンを引き出しにしまった。
今日は、もう連絡しない。
そう決めた。
二人は、それぞれの家で、同じように夜を過ごしていた。
ひろきは、まなみの寝息を聞きながら、明日こそもっと正直になろうと思った。
まなみは、これからの人生を考えながら、少しずつ自分の願いを言葉にしようとしていた。
まさこは、夫との関係を見つめ直し、自分の人生を誰かの期待だけで決めないと心に誓った。
しんいちは、父の期待と自分の願いが同じものなのか、初めて疑い始めていた。
誰もが、まだ答えを持っていない。
けれど、答えがないからこそ、選ぶことができる。
その選択が、誰かを傷つけることもある。
それでも、自分の人生を生きるということは、誰かの期待に従うだけではないはずだった。
ひろきは、目を閉じた。
まなみの手の温もりを思い出す。
まさこの言葉を思い出す。
そして、自分が本当に求めているものを考えた。
誰かに必要とされたい。
誰かに理解されたい。
誰かに触れたい。
それらの願いは、決して消えてくれない。
しかし、その願いを満たすために、何を選ぶのか。
そこから先は、自分自身の責任なのだ。
冬の夜は、静かに明けようとしていた。
### 次回予告
第14話「友人の忠告」
ひろきは、健吾から夫婦関係について、もう一歩踏み込んだ忠告を受ける。
一方、まなみは親しい同僚の由美に、治療を続けることへの迷いを初めて打ち明ける。
まさこは、しんいちと向き合う時間を増やそうとするが、九条家の親族から、跡継ぎについて厳しい言葉を浴びせられる。
ひろきは、まさこを助けたいと思う。
だが、その思いの中には、彼女に必要とされたいという願いが、確かに混ざっていた。
優しさは、相手のためだけにあるのだろうか。それとも、自分が救われたいという願いも、隠れているのだろうか。




