第14話 友人の忠告
1 親友だからこそ
金曜日の夕方。
ひろきは、会社の休憩室で健吾と二人きりになっていた。
窓の外は、日が沈み始めている。
今週は、仕事が立て込んでいた。ひろきは書類の確認を終え、ようやく一息ついたところだった。
「なあ、ひろき」
健吾が缶コーヒーを机に置いた。
「この前、家のことで話してたよな」
「ああ」
「その後、どうだ?」
ひろきは、少し考えた。
「妻と話したよ。治療のこととか、これからの生活とか」
「そうか。よかったじゃないか」
「まだ、何も決まってないけどな」
「決まってなくても、話せたことに意味があるだろ」
健吾はそう言って笑った。
ひろきも、少しだけ笑った。
確かに、まなみと話せたことは大きかった。
妻が何を苦しんでいたのか、以前より分かった気がした。
自分も寂しかったと伝えられた。
これからは、少しずつでも変わっていけるかもしれない。
そう思っていた。
しかし、健吾は、ひろきの顔を見ながら言った。
「それで、お前自身のことはどうなんだ?」
「俺?」
「そう。お前は、どうしたいんだよ」
ひろきは、返事に詰まった。
「治療を続けるかどうかは、まなみさんの気持ちもあるだろう。でも、お前自身がどうしたいのか。それは考えたのか?」
「……考えてるよ」
「本当に?」
健吾の声は、責めるようなものではなかった。
ただ、長年の友人として、確かめているようだった。
「子どもが欲しいのか。二人で暮らしていく未来でもいいと思えるのか。夫婦として、これからどうしたいのか」
健吾は一つずつ尋ねた。
「お前、まなみさんの気持ちを尊重しようとしてるだろ。それは大切なことだ。でも、相手を尊重することと、自分の気持ちを隠すことは違うぞ」
ひろきは、黙っていた。
「お前が本当は何を望んでるのか分からないままだと、まなみさんだって、お前とどう向き合えばいいのか分からないだろ」
その言葉は、ひろきの胸に残った。
自分は、まなみを傷つけないようにしてきた。
けれど、その結果、何も伝えない夫になっていたのかもしれない。
「……そうだな」
ひろきは、ようやく答えた。
健吾は、少し表情を和らげた。
「もう一つ、聞いていいか?」
「何だよ」
「最近、誰かに相談してるのか?」
ひろきの指先が止まった。
「どうして?」
「お前、以前よりスマホを気にしてるからさ。誰かに話を聞いてもらってるのかなと思って」
ひろきは、缶コーヒーを手に取った。
まさこの顔が頭に浮かぶ。
健吾に話すべきなのだろうか。
まだ、何も起きていない。
ただ、話をしているだけだ。
そう説明することはできる。
しかし、彼女からの連絡を待っていることも、話せる時間を楽しみにしていることも、隠しようのない事実だった。
「……知り合いに、少し話を聞いてもらうことはあるよ」
ひろきは、曖昧に答えた。
健吾は、すぐには何も言わなかった。
「そうか」
それから、静かに続けた。
「話を聞いてくれる人がいるのは、悪いことじゃない。夫婦だからって、何もかも夫婦だけで解決しなきゃいけないわけでもないしな」
ひろきは、わずかに安心した。
しかし、健吾はそのあと、表情を引き締めた。
「ただし、自分がつらいときに優しくしてくれた相手を、特別な人だと思い込みすぎるなよ」
ひろきは、顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「相手だって、つらいから話をしてるのかもしれない。お前を頼ってるように見えても、必ずしも、お前に特別な感情があるとは限らないだろ」
健吾は、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「それに、お前が相手を特別だと思い始めたら、今までなら気にしなかったことまで、都合よく解釈するようになるかもしれない」
ひろきは、何も言えなかった。
「相手のために何かしてやりたい。その気持ちは、本物かもしれない。でも、そこに自分が必要とされたいって気持ちが混ざってきたら、一度立ち止まれ」
健吾は、ひろきの肩を軽くたたいた。
「俺は、お前が悪いことをするって決めつけてるわけじゃない。ただ、寂しいときって、自分でも気づかないうちに、間違った方向に進むことがあるからさ」
ひろきは、うつむいた。
「……分かった」
そう答えたものの、胸の中は複雑だった。
健吾は、何も知らない。
まさこと会ったことも、メッセージを交わしていることも、彼女と話す時間が自分にとって特別になりつつあることも。
それなのに、まるで自分の心を見透かされているようだった。
ひろきは思った。
自分は、まだ引き返せる。
しかし、引き返すためには、まず、自分がどこへ向かおうとしているのか認めなければならない。
### 2 教師として、妻として
同じ日の放課後。
まなみは、職員室で由美と向かい合っていた。
由美は、まなみが勤める高校の同僚で、年齢も近い。
同じ学年を担当したことがあり、仕事の悩みから家庭の話まで、気兼ねなく話せる数少ない友人だった。
「最近、少し元気がないね」
由美が言った。
「そうかな?」
「うん。仕事中はいつもどおりだけど、休み時間にぼんやりしてることが増えた気がする」
まなみは、苦笑した。
「隠してるつもりだったんだけどな」
「隠せてないよ。教師って、意外と生徒に見られてるからね」
二人は、小さく笑った。
職員室には、まだ数人の教師が残っている。
まなみは、声を落として話し始めた。
「実は、治療を続けるかどうか、少し考え直そうと思ってるの」
由美の表情が変わった。
「そうなんだ」
「うん。子どもは欲しい。でも、今のまま続けていくことが、本当に自分の望んでいることなのか、分からなくなってきて」
由美は、すぐには意見を言わなかった。
「ひろきさんとは話した?」
「話したよ。少しだけどね」
「ひろきさんは、何て?」
「無理をしなくてもいいって」
まなみは、机の上に置いた手を見つめた。
「そう言ってくれたのは嬉しかった。でも、どこかで、私が頑張るのをやめたら、夫婦の未来まで諦めることになるんじゃないかって怖かった」
由美は、ゆっくりとうなずいた。
「分かるとは簡単に言えないけど、ずっと頑張ってきたんだね」
その言葉を聞いた瞬間、まなみの目に涙が浮かんだ。
誰かに、そう言ってほしかったのかもしれない。
治療の結果ではなく、頑張った年数でもなく。
ただ、自分が苦しかったことを、苦しかったと認めてほしかった。
「私ね、子どもが欲しいって思う気持ちは、今もあるの」
「うん」
「でも、治療の予定がない日まで、次の診察のことを考えてしまう。生理が来るたびに落ち込むし、周りの人の妊娠や出産の話を聞くと、笑顔でおめでとうって言いながら、心の中では苦しくなる」
まなみは、涙を拭った。
「そんな自分が嫌だった。人の幸せを、素直に喜べないことがある自分が」
「まなみ」
由美は、静かに呼びかけた。
「誰かの幸せを喜べない瞬間があるからって、まなみが悪い人になるわけじゃないよ」
まなみは、顔を上げた。
「苦しいときに、苦しいと感じるのは当たり前でしょう。相手を祝福したい気持ちと、自分の状況がつらい気持ちは、同時にあってもいいんじゃないかな」
その言葉を聞いて、まなみはうつむいた。
涙が、頬を伝った。
ずっと、自分の感情を否定してきた。
こんなことを思ってはいけない。
こんなふうに感じてはいけない。
もっと前向きにならなければ。
そうやって、自分自身に何度も言い聞かせてきた。
由美は、ティッシュを差し出した。
「それとね。治療を続けるかどうかは、まなみが考えて決めていいことだよ。誰かに許可をもらわなきゃいけないことじゃない」
「……うん」
「もちろん、ひろきさんの気持ちも大切だと思う。でも、まなみ自身の人生でもあるんだから」
まなみは、何度もうなずいた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
由美は、少しだけ笑った。
「ただし、無理して一人で結論を出そうとしないこと。医師にも相談して、ひろきさんとも話して、自分の気持ちを整理していけばいいと思う」
まなみは、涙を拭きながら笑った。
「先生みたいなこと言うね」
「先生ですから」
由美が胸を張ると、二人は声を出して笑った。
その笑いは、久しぶりに心から出たものだった。
帰り支度をしながら、まなみは思った。
自分は、教師として生徒たちに伝えてきた。
人生は、思いどおりにいかないことがある。
それでも、その人の価値が失われるわけではない。
今度は、自分自身にも、その言葉をかけてあげたい。
### 3 九条家の期待
その週末、九条家では親族を交えた食事会が開かれていた。
名目は、しんいちの父・宗一郎の誕生日祝いだった。
しかし、食事が一段落すると、話題は自然と九条家の将来へ移っていった。
「しんいちも、そろそろ真剣に考えなければならないな」
宗一郎が言った。
「何をでしょうか」
しんいちは、穏やかな口調で尋ねた。
「何を、ではない。跡継ぎのことだ」
親族の一人が口を開いた。
「家を守るというのは、簡単なことではありませんからね。代々受け継いできたものを、次の世代につなげていかなければ」
別の親族も続けた。
「まさこさんも、ずいぶん長く治療を続けていると聞いています。体の負担もあるでしょうが、年齢のことも考えなければなりません」
まさこは、膝の上で手を握りしめた。
悪意があるとは限らない。
心配しているつもりなのかもしれない。
しかし、誰も自分に、どうしたいのかとは尋ねない。
治療を続けるのか。
休みたいのか。
子どもを望んでいるのか。
そうした気持ちは、いつも話題の外に置かれていた。
「治療については、医師と相談しながら、夫婦で考えています」
まさこは、静かに答えた。
親族の一人が、困ったように笑った。
「もちろん、それは分かっています。ただ、九条家としての責任もありますからね」
その言葉に、しんいちが顔を上げた。
「九条家としての責任とは、具体的に何でしょうか」
部屋が静かになった。
宗一郎が息子を見た。
「家を存続させることだ」
「それは、子どもを持つことだけで決まるのでしょうか」
「しんいち」
宗一郎の声が低くなった。
「何が言いたい」
しんいちは、まさこの顔を見た。
彼女は何も言わなかった。
ただ、こちらを見つめていた。
「私は、これまで跡継ぎを残すことが、自分の責任だと思ってきました。まさこにも、それを求めてきたと思います」
しんいちは、言葉を選びながら続けた。
「しかし、子どもを授かることが、本人たちの人生よりも優先されるべきなのか。私は、もう一度考えたいと思っています」
親族の間に、ざわめきが広がった。
宗一郎は、しばらく息子を見つめていた。
「お前は、家を捨てるつもりか」
「捨てるつもりはありません」
「ならば、責任を果たせ」
しんいちは、静かに首を横に振った。
「責任を果たすことと、誰かに無理をさせ続けることは、同じではないと思います」
まさこは、思わず息をのんだ。
夫が、親族の前で自分の考えを口にした。
初めてだった。
それだけで、すべてが変わるわけではない。
宗一郎が納得したわけでも、親族が考えを改めたわけでもない。
食事会の空気は、重くなった。
やがて宗一郎は、箸を置いた。
「その話は、来月の親族会議で続けよう」
それ以上、誰も何も言わなかった。
帰りの車の中で、まさこは夫に尋ねた。
「どうして、あんなことを言ってくれたの?」
しんいちは、前を向いたまま答えた。
「君に、もう一人で背負わせたくなかったからだ」
まさこは、窓の外を見た。
胸の奥が熱くなった。
それでも、彼女の心には、まだ不安が残っていた。
夫が変わろうとしていることは分かった。
しかし、夫婦の関係が本当に変わるかどうかは、これからの時間の中で確かめていくしかない。
「ありがとう」
まさこは言った。
しんいちは、小さくうなずいた。
その日、二人の間には、以前より少しだけ確かなものが生まれていた。
### 4 頼られることの甘さ
月曜日の夜。
ひろきは、帰宅途中の駅前で立ち止まっていた。
まさこから、メッセージが届いていたからだ。
『先日の親族の集まりで、しんいちさんが私のことを守ろうとしてくれました。嬉しかったのですが、これからどうなるのか、不安もあります』
ひろきは、何度も文章を読み返した。
彼女は、嬉しかったのだ。
夫が自分を守ろうとしてくれたことを。
それなら、自分ができることは何だろう。
ひろきは返信を打った。
『それは、よかったですね。ご主人も、少しずつ変わろうとしているのかもしれませんね』
送信する。
すぐに返事が届いた。
『そうだといいのですが。ひろきさんに話すと、気持ちが落ち着きます』
ひろきは、画面を見つめた。
胸の奥に、温かいものが広がる。
自分の言葉で、彼女が安心してくれる。
自分が彼女の役に立っている。
それが、嬉しかった。
しかし、同時に、健吾の言葉がよみがえった。
相手のために何かをしたいという気持ち。
相手に必要とされたいという気持ち。
その二つは、簡単には区別できない。
ひろきは、返信を打ち始めた。
『いつでも話を聞きますよ』
そこまで入力して、指が止まった。
この言葉を送れば、まさこは安心するだろう。
そして、自分も嬉しいだろう。
しかし、本当にそれが、彼女のためなのだろうか。
彼女は今、夫と向き合い始めている。
その時間を、自分が奪ってしまうことにならないだろうか。
ひろきは、文章を消した。
代わりに、こう送った。
『話を聞いてもらえる相手がいることは大切ですよね。ご主人とも、少しずつ話せるようになるといいですね』
送信した。
しばらくして、まさこから返事が届いた。
『ありがとうございます。そうですね。私も、ちゃんと向き合ってみます』
ひろきは、スマートフォンをしまった。
胸の奥には、少しの寂しさが残っていた。
自分が彼女にとって、特別な存在になりたい。
そう思っている自分がいる。
けれど、彼女が夫と向き合うことを応援したいと思う自分もいる。
どちらが本当の気持ちなのだろう。
おそらく、どちらも本当なのだ。
だからこそ、難しい。
人の気持ちは、きれいに分けられるものではない。
誰かを思いやる気持ちの中に、自分の欲求が混ざることもある。
大切なのは、その気持ちがあることを認めたうえで、何をするかを選ぶことなのだろう。
ひろきは、駅の改札を通った。
家に帰れば、まなみがいる。
自分と向き合おうとしている妻がいる。
そのことを、もう一度、きちんと考えなければならない。
### 5 友人が見た小さな変化
翌日の昼休み。
健吾は、ひろきと食事をしながら、何気なく尋ねた。
「そういえば、最近どうだ?」
「何が?」
「家のこと」
ひろきは、少し笑った。
「相変わらずだよ。でも、前より話すようにはなったかな」
「そうか。それなら、よかった」
健吾は、嬉しそうにうなずいた。
「お前、少し顔つきが変わったな」
「そうか?」
「ああ。前は、何かを考えてるのに、考えないふりをしてる感じだった」
ひろきは、苦笑した。
「そんなに分かりやすかったか?」
「長い付き合いだからな」
健吾は、箸を置いた。
「ひろき。俺は、お前の家庭に口を出すつもりはない。ただ、もし誰かに相談しているなら、その人に何を求めているのか、時々、自分に問いかけてみたほうがいい」
ひろきは、顔を上げた。
「何を求めているか……」
「答えが欲しいのか。慰めてほしいのか。それとも、自分を特別だと思ってほしいのか」
健吾は、真剣な表情だった。
「それによって、相手との距離の取り方も変わるだろ」
ひろきは、何も言えなかった。
健吾は、少しだけ声を和らげた。
「人間、弱ってるときに誰かに救われると、その人のことを大切にしたくなる。でも、その気持ちが強くなりすぎると、自分が本当に守らなきゃいけないものを見失うこともある」
ひろきは、視線を落とした。
まさこのことを考えていた。
彼女を助けたい。
彼女が幸せになってほしい。
その願いは本物だ。
しかし、自分が彼女の中で特別な存在でありたいという気持ちも、確かにある。
そして、もし彼女が自分を頼らなくなったら、寂しいと感じるだろう。
それは、彼女の幸せを願う気持ちだけでは説明できない。
ひろきは、初めて、そのことを認めた。
「……ありがとう、健吾」
「何だよ、急に」
「いや。言ってくれて、助かった」
健吾は、少し照れたように笑った。
「だったら、今度おごれよ」
「それは別の話だろ」
二人は笑った。
しかし、ひろきの心には、健吾の言葉が深く残っていた。
自分が誰かを好きになること。
誰かに必要とされたいと思うこと。
その気持ちを持つこと自体が、悪いわけではない。
ただ、その気持ちを理由に、誰かを傷つける選択をしてしまったら。
その責任は、自分で引き受けなければならない。
ひろきは、もう一度、まなみと話そうと思った。
今度は、寂しかったという気持ちだけではなく、自分が何を望んでいるのかについても。
まだ、すべてを話せる自信はなかった。
それでも、何も言わないまま時間が過ぎることだけは、避けたいと思った。
### 6 近づく心、遠ざかる答え
その夜、まなみはリビングでノートを開いていた。
治療を続けるかどうか。
仕事をどう続けていきたいか。
子どもがいない未来を、どのように考えていくか。
まだ、答えは出ていない。
しかし、由美と話してから、少しずつ自分の気持ちを言葉にできるようになっていた。
そこへ、ひろきがやってきた。
「何を書いてるの?」
「これからのこと」
まなみは、ノートを見せた。
「まだ、考え始めたばかりだけどね」
ひろきは、隣に座った。
「俺も、もっと自分の気持ちを話そうと思う」
まなみは、夫を見た。
「うん。聞きたい」
その言葉に、ひろきはうなずいた。
自分も、寂しかった。
もっと触れ合いたかった。
夫婦として、必要とされていると感じたかった。
それらを、まなみに伝えたいと思った。
しかし、まさことの関係については、まだ何も言えなかった。
自分の気持ちを正直に話すことと、都合の悪い事実を隠すこと。
その違いを、ひろきは分かっているつもりだった。
けれど、今の自分は、その境界線の近くに立っている。
一つ言葉を選ぶたびに、何かを隠してしまう。
一つ行動を選ぶたびに、誰かの気持ちを左右してしまう。
そのことが、怖かった。
まなみは、ノートを閉じた。
「ひろき」
「うん?」
「私たち、これからも夫婦でいられるかな」
ひろきは、息をのんだ。
「どうして、そんなことを?」
「何となく、聞いてみたくなっただけ」
まなみは、穏やかに笑った。
「子どもがいるかどうかだけじゃなくて、二人でちゃんと向き合っていけるのかなって」
ひろきは、妻の手を握った。
「……向き合っていきたいと思ってる」
それは、本当だった。
まなみと、これからも一緒にいたい。
彼女を大切にしたい。
そう願っていた。
けれど、願うことと、実際にそのように生きることは違う。
ひろきは、そのことを少しずつ理解し始めていた。
まなみは、夫の手を握り返した。
「私も、そう思ってる」
二人は、しばらくそのまま座っていた。
外では、冬の風が吹いていた。
それぞれの心の中には、まだ言えない願いが残っている。
それでも、二人は今、同じ場所で、同じ未来について考えようとしていた。
その小さな一歩を、ひろきは大切にしたいと思った。
ただし、彼のスマートフォンには、まだまさことのメッセージの履歴が残っている。
消していない。
消す理由も、まだ見つけられていない。
そして、そのことがいつか、二人の夫婦関係に影を落とすかもしれない。
ひろきは、その可能性から目をそらしていた。
まだ何も起きていない。
そう思いたかった。
けれど、何も起きていない今だからこそ、選ばなければならないこともある。
彼は、そのことに、まだ気づききれていなかった。
### 次回予告
第15話「帰りたくない場所」
仕事帰り、ひろきは思いがけず、まさこと顔を合わせる。
二人は短い時間を過ごすだけのつもりだった。
しかし、まさこが口にした言葉が、ひろきの心を大きく揺らす。
一方、まなみは、治療のことを医師に相談する決意を固める。夫と一緒に考えたいという願いが、少しずつ形になり始めていた。
九条家では、しんいちが父・宗一郎と二人きりで話し合うことになる。
それぞれが、自分の人生を選ぼうとしている。
けれど、誰かの人生を大切にしようとすることが、別の誰かを傷つけることもある。
帰りたい場所があるのに、帰りたくないと思ってしまう。その気持ちは、いったい何を意味するのだろうか。




