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ひろきの人生の寄り道  作者: こうた
第三章「越えてしまった境界線」

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第19話 冬の夜の過ち

1 送らなかった言葉


まさこと会った夜から、三日が過ぎた。


ひろきは、何度もあの日のことを思い出していた。


カフェの窓際の席。


向かい側に座るまさこの表情。


「私、今日、ここに来るのを楽しみにしていたんです」


そして、自分が答えた言葉。


「僕も、今日、会えるのを楽しみにしていました」


あのとき、まさこは笑った。


その笑顔が、頭から離れなかった。


仕事をしていても、家で食事をしていても、ふとした瞬間に思い出してしまう。


ひろきは、自分の気持ちを整理しようとしていた。


まさこに惹かれているのか。


それとも、長い間、満たされなかった気持ちを受け止めてもらえたことに執着しているだけなのか。


どちらも、あるのかもしれない。


ただ、今となっては、どちらなのかを確かめること自体が危険な気がした。


もし、まさこに会わなければ。


もし、連絡を取らなければ。


少しずつ気持ちは落ち着いていくのかもしれない。


ひろきは、そう考えた。


その夜、まなみは学校の仕事で帰りが遅くなると連絡してきた。


『今日は会議が長引きそう。先にご飯を食べていてね』


ひろきは返信した。


『わかった。気をつけて帰ってきて』


いつもどおりのやり取りだった。


スマートフォンを置き、冷蔵庫を開ける。


夕食を簡単に済ませようと思った。


そのとき、通知が届いた。


まさこだった。


『この前はありがとうございました。あの日、話を聞いてもらえてよかったです』


ひろきは、画面を見つめた。


返信しなければいい。


そう思った。


連絡を続ければ、また会いたくなる。


会えば、もっと一緒にいたくなる。


自分でもわかっている。


それなのに、指は動いた。


『僕も、話せてよかったです』


送信した。


まさこから、すぐに返事が届いた。


『実は、あれから夫とも話をしました。少しずつですが、自分の気持ちを伝えられるようになってきました』


ひろきは、ほっとした。


まさこが前に進んでいる。


それは喜ばしいことだった。


ところが、次のメッセージを読んだ瞬間、胸の奥がざわついた。


『でも、まだうまく話せないこともあります。ひろきさんと話した時間が、私にとって思っていた以上に大きかったんだなと感じています』


ひろきは、スマートフォンを握り直した。


思っていた以上に大きかった。


その言葉は、まさこの中にも、自分と同じような気持ちがあることを示しているように思えた。


ひろきは、返信を書いた。


『僕も、あの日のことを何度も思い出しています』


送信する直前、指が止まった。


この言葉を送れば、何かが変わる。


今まで曖昧にしてきた気持ちを、相手に伝えることになる。


ひろきは文章を消した。


そして、代わりにこう送った。


『無理をしないでくださいね。少しずつでいいと思います』


まさこからは、短い返事が届いた。


『ありがとうございます』


それで、やり取りは終わった。


ひろきはスマートフォンを伏せた。


これでよかった。


そう思おうとした。


しかし、胸の中に残ったのは、安堵ではなかった。


もっと話したかった。


もっと、自分の気持ちを伝えたかった。


その欲求を抑えた自分を、ひろきはどこかで褒めようとしていた。


連絡を続けなかった。


踏みとどまった。


自分はまだ、間違ったことをしていない。


そう考えることで、心を落ち着かせようとしていた。


けれど、彼は忘れていた。


何を送らなかったかよりも、なぜ送りたかったのかが大切だということを。


そして、自分の気持ちを隠したまま、まなみと向き合っていることを。


### 2 まなみの願い


その週の土曜日。


ひろきとまなみは、久しぶりに二人で買い物に出かけた。


特別な用事があったわけではない。


日用品を買い、食材を選び、帰りに昼食を食べる。


結婚した頃には、当たり前だった時間だ。


「これ、どう思う?」


まなみが、店頭に並んだ小さな観葉植物を指さした。


「いいんじゃない?」


「家に緑があったら、ちょっと気分が変わるかなと思って」


「じゃあ、買って帰るか」


「うん」


まなみは、嬉しそうに植物を手に取った。


その横顔を見て、ひろきは思った。


こういう時間を、もっと大切にすればよかった。


子どもを授かることばかり考えて、二人で過ごす時間を、いつの間にか治療の合間にあるものとして扱っていたのかもしれない。


まなみも同じだったのだろう。


二人とも、子どもができたら幸せになれると信じていた。


その願いが強くなるほど、目の前にある生活を楽しむ余裕がなくなっていった。


昼食を終えたあと、まなみが言った。


「ねえ、ひろき」


「ん?」


「この前、病院で話したこと、覚えてる?」


「ああ。治療をどうするかって話だろ」


「うん。私、もう少し考えてみたいと思ってる」


ひろきは、箸を置いた。


「続けるか、休むか?」


「それもそうなんだけど……子どもができなかったとしても、私たちがどう暮らしていきたいのか、ちゃんと考えたい」


まなみは、少しだけ視線を落とした。


「私は、子どもが欲しい。でも、ひろきと二人で暮らす未来も、ちゃんと考えてみたいの」


ひろきは黙って聞いていた。


「今までは、治療をやめたら、子どもを諦めたことになる気がしていた。でも、最近は、治療を続けることだけが、子どもを望む気持ちの証明じゃないのかなって思うようになった」


まなみは、テーブルの上で指を組んだ。


「まだ、子どもを諦めたわけじゃないよ。だけど、私自身の人生も大切にしたい」


「うん」


「ひろきは、どう思う?」


ひろきは答えようとした。


まなみと二人で生きていく未来。


子どもがいなくても、二人で笑って暮らす未来。


本当なら、もっと具体的に考えたかった。


どこへ出かけたいか。


何を一緒にしたいか。


これから、どんな夫婦になりたいか。


けれど、頭に浮かんだのは、まさこと過ごしたカフェの時間だった。


そのことに気づき、ひろきは自分を恥じた。


「俺も、ちゃんと考えたいと思ってる」


それは、本心だった。


「子どもがいるかどうかだけで、俺たちの人生が決まるわけじゃないから」


まなみは、静かに頷いた。


「ありがとう」


そして、少し迷ってから言った。


「私ね、もう一度、ひろきと普通に笑って暮らしたい」


ひろきは、まなみを見た。


「特別なことをしなくてもいいの。二人でご飯を食べたり、くだらないことで笑ったり。たまには喧嘩して、ちゃんと仲直りしたり」


まなみは笑った。


「そんな生活を、もう一度作っていきたい」


その笑顔は、ひろきが長い間、見たいと思っていたものだった。


なのに、胸が痛かった。


まなみは、まだ自分を信じようとしている。


夫婦の未来を、諦めていない。


その彼女に、自分は何を返せるのだろう。


ひろきは、まなみの手に自分の手を重ねた。


「俺も、そう思う」


その言葉に嘘はなかった。


ただ、言わなかったことがあった。


自分は今、まなみとの未来を考えながら、まさことの時間を手放せずにいる。


彼女に会いたいと思っている。


その事実を隠したまま、二人の未来を語っている。


まなみは、ひろきの手を握り返した。


「これからも、一緒に考えていこうね」


「うん」


ひろきは頷いた。


その瞬間、彼は本当に、まなみとの生活を守りたいと思っていた。


だからこそ、自分の中にあるもう一つの願いを、認めたくなかった。


### 3 九条家の夜


その夜、まさこは夫のしんいちと向き合っていた。


テーブルには、九条家の親族会議に向けた書類が置かれている。


次の会合では、跡継ぎの問題が正式に議題になる。


宗一郎は、家の存続について話し合うつもりでいる。


しんいちは、その会合で、自分たち夫婦の今後について自分の考えを伝えると約束していた。


「お父様に、どこまで話すつもりなの?」


まさこが尋ねた。


しんいちは、すぐには答えなかった。


「まずは、子どもを授かることだけを、君に求めるつもりはないと伝える」


「それだけ?」


「それから……跡継ぎについても、血のつながりだけが家を残す方法ではないと話したい」


まさこは、夫の顔を見た。


以前なら、しんいちはこんなことを口にしなかった。


九条家の存続は、何よりも優先されるべきもの。


それが、彼の中で当然のことだったからだ。


しかし、検査結果を知り、父と話し、まさこと向き合ううちに、その考えは少しずつ揺らぎ始めていた。


「あなたは、本当にそう思っているの?」


「……まだ、すべてに答えが出たわけじゃない」


しんいちは正直に答えた。


「跡継ぎがいないことを、怖いと思う気持ちはある。父が築いてきたものを、自分の代で途絶えさせることへの責任も感じている」


「うん」


「でも、君が苦しんでいるのを見ながら、それでも子どもを産んでほしいと言い続けることが、本当に正しいのか、わからなくなった」


しんいちは、書類から目を離した。


「私は、君と暮らしたい。子どもがいるかどうかだけで、君との生活を決めたくない」


まさこは、しばらく黙っていた。


聞きたかった言葉だった。


ずっと、聞きたかった。


それなのに、すぐには喜べなかった。


「……ありがとう」


ようやく、それだけ言った。


しんいちは頷いた。


「すぐに信じてくれとは言わない。これからの行動で示すよ」


まさこは、その言葉を心の中で繰り返した。


行動で示す。


自分が欲しかったのは、きっとそういうことだった。


夫が変わろうとしている。


それを、信じてみたい気持ちもある。


けれど、ひろきと話すときの安らぎが、まさこの心から消えるわけではなかった。


彼は、自分の苦しさを理解してくれる。


自分が何を言っても、すぐに否定しない。


夫婦の問題を解決してくれるわけではない。


それでも、彼と話す時間は、心を休ませてくれた。


まさこは、そのことをしんいちに話せなかった。


話す必要がないと思っていたのかもしれない。


ただ、言えば、何かが変わってしまう気がした。


「今日は、もう休みましょう」


しんいちが言った。


「そうね」


まさこは書類を片づけた。


寝室へ向かう途中、スマートフォンが目に入った。


ひろきとのメッセージは、まだ残っている。


まさこは、画面を開かなかった。


開けば、また話したくなるかもしれない。


今日は、夫と向き合おう。


そう思った。


けれど、心の奥では、ひろきに会いたいという気持ちが、静かに残り続けていた。


### 4 偶然ではなかった


数日後。


ひろきは、仕事帰りにまさこと再び連絡を取った。


きっかけは、まさこからの短いメッセージだった。


『今週、少し大変なことがあって。もし時間があれば、また話を聞いてもらえませんか?』


ひろきは、その文章を読んだ。


以前なら、すぐに返信していたかもしれない。


しかし、今は違った。


まなみと話したことが頭に浮かぶ。


二人で笑って暮らしたい。


これからも、一緒に考えていきたい。


まなみの言葉は、今も胸に残っていた。


ひろきは、返信をためらった。


会わないほうがいい。


少なくとも、今は距離を置くべきだ。


そう考えた。


だが、まさこが何かに苦しんでいるのなら、話を聞いてあげたいとも思った。


それに、自分自身も、彼女に会いたかった。


その気持ちを認めることが怖かった。


だから、ひろきはまた、別の理由を探した。


困っている人を放っておけない。


以前から相談し合ってきた仲だ。


短時間だけなら問題ない。


そう考えれば、会うことを許せる気がした。


『わかりました。今日なら、仕事のあと少し時間があります』


送信した。


まさこから、すぐに返事が届いた。


『ありがとうございます。では、前のカフェで』


ひろきは、スマートフォンをしまった。


もう、偶然ではなかった。


前回は、話を聞くために会ったのだと言えた。


今回は、会わないという選択肢があることを、二人とも知っていた。


それでも、約束をした。


まさこも、ひろきも。


自分たちの気持ちを理解し始めていた。


それなのに、止まらなかった。


### 5 冬の夜


カフェに着いたとき、まさこはすでに席に座っていた。


ひろきを見つけると、少し安心したような表情を浮かべた。


「こんばんは」


「こんばんは。待たせましたか?」


「いえ、私も今来たところです」


二人は、前と同じ席に座った。


まさこは、夫との話し合いについて説明した。


親族会議が近づいていること。


しんいちが、以前よりも自分の気持ちを聞いてくれるようになったこと。


それでも、九条家の問題が簡単に解決するわけではないこと。


ひろきは、黙って聞いていた。


「夫は、変わろうとしていると思います」


まさこは言った。


「でも、私も、すぐに気持ちを切り替えられるわけではなくて。今までのことを思い出すと、どうしても不安になるんです」


「当然だと思います」


「そう言ってもらえると、少し安心します」


まさこはカップに視線を落とした。


「私、夫が変わろうとしていることを、ちゃんと受け止めたいんです。だけど、今までの自分が、何もなかったことにされるような気がして……」


「何もなかったことにする必要はないと思います」


ひろきは答えた。


「これまで苦しかったことも、傷ついたことも、なかったことにはならないですよ。これからどうするかは、そこから考えていけばいいんじゃないでしょうか」


まさこは、ゆっくり頷いた。


「ひろきさんは、どうしてそんなふうに考えられるんですか?」


「え?」


「私の話を聞いてくれるとき、いつも、すぐに答えを出そうとしないでしょう」


ひろきは少し考えた。


「自分も、答えが出ていないからだと思います」


「奥様とのことですか?」


「……そうですね」


ひろきは、視線を落とした。


「まなみも、いろいろ考えているんです。これからの生活のことも、治療のことも。最近は、以前より話すようになりました」


「よかったですね」


「ええ」


そう答えながら、ひろきは胸の奥が痛くなった。


まなみとの関係が改善し始めていることを、まさこに伝えた。


それは事実だった。


なのに、自分はここにいる。


まさこと話すために、時間を作った。


妻との関係がうまくいっていないから、仕方なく来たわけではない。


自分で選んで来たのだ。


「……まさこさん」


「はい」


「僕は、あなたと話していると、安心するんです」


まさこは顔を上げた。


ひろきは、言葉を続けた。


「何かを解決してもらえるわけじゃない。あなたが僕の問題を何とかしてくれるわけでもない。それは、わかっています」


一度、息をついた。


「でも、あなたと話していると、自分の気持ちを、そのまま言葉にしてもいいような気がするんです」


まさこは、何も言わなかった。


「だから、また会いたいと思ってしまう」


口にした瞬間、ひろきは自分の心臓が強く打つのを感じた。


言ってしまった。


もう、単なる相談相手という言葉だけでは説明できない。


まさこも、それを理解したようだった。


「……私もです」


静かな声だった。


「私も、ひろきさんと話していると、安心します。ここでは、誰かの期待に応えなくてもいいような気がするんです」


まさこは、両手を組んだ。


「だから、会いたいと思ってしまうんです」


二人は、見つめ合った。


その視線の中に、これまで言葉にしなかった気持ちがあった。


寂しさ。


安らぎ。


相手に理解されたいという願い。


そして、相手を特別な存在として求め始めているという事実。


どちらからともなく、沈黙が訪れた。


ひろきは、まさこの手を見た。


触れたいと思った。


その気持ちに気づいた瞬間、ひろきは自分の手を膝の上で握りしめた。


触れてはいけない。


自分には妻がいる。


まさこには夫がいる。


それは、何度も考えてきたことだった。


けれど、今、目の前にいるまさこを見ていると、その事実が遠く感じられた。


目の前にあるのは、苦しんでいる一人の女性だった。


自分の気持ちを理解してくれる人だった。


会いたいと願っていた人だった。


そのすべてが、ひろきの中で一つになり、理性を揺さぶった。


「……帰りましょうか」


まさこが言った。


ひろきは頷いた。


「そうですね」


二人は会計を済ませ、店を出た。


外は、冷たい風が吹いていた。


駅へ向かう途中、まさこが足を止めた。


「ひろきさん」


「はい」


「私たち、少し距離を置いたほうがいいんでしょうか」


ひろきは、答えられなかった。


まさこは続けた。


「私は、夫と向き合おうとしています。ひろきさんも、奥様と向き合おうとしている。なのに、こうして会うことが、いいことなのか、わからなくなってしまって」


その言葉は、ひろきがずっと考えていたことだった。


ここで、そうだねと言えばいい。


今は会わないほうがいい。


お互いの家庭を大切にするために、距離を置こう。


そう言えば、まだ引き返せる。


ひろきは、それを知っていた。


しかし、口から出た言葉は違った。


「……僕は、まさこさんに会いたいです」


まさこは、目を見開いた。


ひろき自身も、自分の言葉に驚いていた。


それでも、続けた。


「会わないほうがいいのかもしれない。そう思っています。でも、会いたいんです」


まさこは、唇をかみしめた。


「私も……会いたいです」


二人の間に、長い沈黙が流れた。


その沈黙を破ったのは、まさこだった。


「……少しだけ、歩きませんか」


ひろきは頷いた。


二人は、駅とは反対の方向へ歩き始めた。


何をするつもりなのか、明確に決めていたわけではない。


ただ、別れたくなかった。


もう少し一緒にいたかった。


その願いが、二人を歩かせていた。


人通りの少ない道に入ると、まさこが足を止めた。


「私、怖いんです」


「何がですか?」


「このまま、ひろきさんに会うことが当たり前になってしまうことが」


ひろきは、何も言えなかった。


「夫と向き合わなきゃいけないことは、わかっています。でも、ひろきさんと話していると、帰りたくなくなるんです」


まさこは、目を伏せた。


「そんな自分が、怖いです」


ひろきは、彼女の苦しそうな表情を見た。


そして、思った。


自分も同じだ。


まなみの待つ家に帰る。


自分の生活に戻る。


それが正しいとわかっている。


なのに、今は帰りたくない。


まさこと一緒にいたい。


彼女の気持ちを聞きたい。


自分の気持ちを、もっと知ってほしい。


その願いが、胸の中で膨らんでいた。


「……僕もです」


ひろきは答えた。


「帰らなきゃいけないのに、帰りたくないと思ってしまう」


まさこは、顔を上げた。


「ひろきさん……」


ひろきは、彼女の名前を呼ぼうとした。


そのとき、まさこが一歩近づいた。


ほんのわずかな距離だった。


触れようと思えば、触れられる。


手を伸ばせば、彼女の肩に触れられる。


ひろきは動かなかった。


まさこも、動かなかった。


二人は、互いの気持ちを知っていた。


ここで離れれば、まだ戻れるかもしれない。


今夜のことを、苦しい会話だったと振り返ることができるかもしれない。


それでも、ひろきは彼女から目をそらせなかった。


まさこも、目をそらさなかった。


「……ごめんなさい」


まさこが、かすかに言った。


その言葉が、何に対する謝罪なのか。


ひろきには、わからなかった。


いや、わかっていたのかもしれない。


まさこが、自分の夫を裏切ろうとしていること。


ひろきが、自分の妻を裏切ろうとしていること。


二人とも、それを理解していた。


それでも、ひろきは言った。


「まさこさん」


そして、彼女の手に触れた。


まさこは、手を引かなかった。


指先が触れ、手のひらが重なった。


それは、ほんの小さな動作だった。


けれど、二人にとっては、これまでとは違う一歩だった。


まさこは、ひろきの手を握り返した。


その瞬間、ひろきは、もう何も考えたくないと思った。


正しいかどうか。


これからどうなるのか。


誰が傷つくのか。


考えなければならないことは、いくらでもあった。


それなのに、彼は目の前の温もりを手放したくなかった。


まさこもまた、同じだった。


二人は、しばらく手を握ったまま立っていた。


やがて、まさこが顔を上げた。


ひろきは、彼女の目を見た。


その目に、自分と同じ迷いがあることを感じた。


そして、その迷いを抱えたまま、二人は互いに近づいた。


唇が触れた。


短い口づけだった。


まさこは目を閉じ、ひろきは彼女の肩に手を置いた。


離れたあと、二人は何も言わなかった。


何かを言えば、今起きたことを、言葉にしなければならなくなる。


それが怖かった。


けれど、二人はもう知っていた。


ただの相談相手ではない。


ただの友人でもない。


互いに、相手を求めている。


そして今、二人は、その気持ちを行動に移してしまった。


「……帰りましょう」


まさこが言った。


ひろきは頷いた。


二人は、駅へ向かった。


手は、もうつながれていなかった。


けれど、さっき触れた温もりは、消えなかった。


### 6 戻れない朝


翌朝。


ひろきは、目を覚ました瞬間、昨夜のことを思い出した。


まさこと会った。


手を握った。


そして、口づけをした。


夢ではない。


記憶は、はっきりと残っていた。


ひろきはベッドから起き上がり、しばらく座っていた。


まなみは、まだ眠っている。


カーテンの隙間から、冬の朝の光が差し込んでいた。


いつもの朝だった。


いつもの寝室。


いつもの家。


何も変わっていないように見えた。


それなのに、ひろきの中では、何かが変わってしまっていた。


彼は洗面所へ行き、顔を洗った。


鏡に映った自分を見つめる。


自分は、何をしたのだろう。


まさこを求めた。


彼女も、自分を求めていた。


二人とも、わかっていた。


それでも、止まらなかった。


ひろきは、昨夜の自分を責めた。


なぜ、あのとき帰らなかったのか。


なぜ、手を握ったのか。


なぜ、口づけをしたのか。


何度考えても、答えは同じだった。


したかったからだ。


まさこに触れたかった。


彼女に近づきたかった。


その願いを、自分で選んだのだ。


孤独だったからではない。


まなみが自分を理解してくれなかったからでもない。


まさこが自分を誘ったからでもない。


ひろきは、自分の意思で、境界線を越えた。


その事実が、何よりも重かった。


寝室に戻ると、まなみが目を覚ましていた。


「おはよう」


「ああ、おはよう」


まなみは、いつものように笑った。


「今日、何時ごろ出るの?」


「九時くらいかな」


「じゃあ、朝ご飯、一緒に食べられるね」


「うん」


ひろきは、食卓についた。


まなみが用意した朝食を食べる。


味は、いつもと変わらなかった。


まなみは、昨日買った観葉植物を窓際に置いた話をしていた。


「ここに置いたら、少し明るくなった気がするの」


「そうだな」


「もう一つ、小さいのを買ってもいいかな」


「いいんじゃない?」


何気ない会話。


穏やかな朝。


ひろきは、まなみの話を聞きながら、何度も昨夜のことを思い出していた。


まなみは何も知らない。


夫が別の女性と会い、手を握り、口づけを交わしたことを。


それでも、まなみは自分の未来を考え、夫との生活を大切にしようとしている。


ひろきは、箸を置いた。


「どうしたの?」


まなみが尋ねた。


「……いや、何でもない」


ひろきは答えた。


言えなかった。


昨夜のことを話せば、まなみを傷つける。


そう考えた。


しかし、それだけではなかった。


本当は、自分が責められることが怖かった。


まなみの悲しむ顔を見ることが怖かった。


自分が、まなみを裏切った男だと、はっきり認めることが怖かった。


ひろきは、もう一度、箸を手に取った。


朝食を食べる。


いつものように、仕事へ行く準備をする。


まなみに「行ってきます」と告げる。


すべてが、いつもどおりに進んでいく。


そのことが、かえって苦しかった。


自分は、何もなかったかのように生活を続けている。


けれど、昨夜の出来事は消えない。


ひろきは玄関で靴を履いた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。気をつけてね」


まなみの声を聞きながら、ひろきはドアを開けた。


外は、冷たい冬の空気に包まれていた。


ひろきは、歩き始めた。


まさことの口づけを、忘れることはできないだろう。


もう一度会いたいと思う自分も、いる。


その一方で、まなみを傷つけたくない自分もいる。


どちらも、本当の気持ちだった。


しかし、二つの気持ちがあるからといって、どちらも同じように守れるわけではない。


ひろきは、ようやくそのことを理解し始めていた。


自分は、何かを選んだのだ。


そして、その選択には、責任が伴う。


孤独は、ひろきを苦しめた。


まさことの出会いは、ひろきに安らぎを与えた。


けれど、昨夜の一歩を選んだのは、ひろき自身だった。


彼は、その事実から逃げることはできない。


冬の空は、まだ曇っていた。


そして、ひろきの人生は、もう一つの道へと進み始めていた。


### 次回予告 第20話「朝になれば」


口づけを交わした翌日から、ひろきとまさこの心は揺れ続ける。


昨夜のことを後悔する一方で、互いに会いたいという気持ちを消せない二人。


「もう会わないほうがいい」


そう考えながらも、スマートフォンを手放せない。


一方、まなみは、ひろきとの未来を少しずつ具体的に考え始めていた。


何も知らない妻の希望と、秘密を抱えた夫の現実。


そして、まさこの夫・しんいちも、妻の変化に気づき始める。


過ちを犯したあと、人は本当に元の場所へ戻れるのか。


朝になっても、昨夜のことは消えなかった。


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