第20話 朝になれば
1 消せない記憶
朝になれば、気持ちも落ち着くと思っていた。
ひろきは、そう考えていた。
昨夜は、気持ちが揺れていた。
まさこと話し、互いの孤独を打ち明け、帰りたくないという本音を口にした。
そして、口づけを交わした。
一晩眠れば、あれが一時的な感情だったと思えるかもしれない。
自分は何をしていたのだろうと、冷静になれるかもしれない。
もう会わないほうがいい。
あれは間違いだった。
そう決められるかもしれない。
けれど、朝になっても、記憶は消えなかった。
仕事中、書類に目を通していても、ふとした瞬間に昨夜のことが浮かぶ。
まさこの手の温もり。
近づいたときの表情。
唇が触れた瞬間の、短い沈黙。
ひろきは、ペンを置いた。
「……何やってんだ」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
まなみを裏切った。
その事実に、間違いはない。
まなみは、自分との未来を考えようとしている。
子どもができなかったとしても、二人で笑って暮らしたいと言ってくれた。
それなのに、自分は別の女性に会い、触れ、口づけをした。
何も知らないまなみと、何もなかったかのように朝食を食べた。
そのことを考えると、胸が重くなった。
ひろきは、スマートフォンを取り出した。
まさこからの連絡はない。
自分から送るべきではない。
そう思った。
昨夜のことについて、何かを話さなければならないのかもしれない。
謝るべきなのか。
もう会わないと伝えるべきなのか。
それとも、まさこの気持ちを確かめるべきなのか。
考えれば考えるほど、わからなくなった。
いや、本当はわかっていた。
自分は、まさこからの連絡を待っている。
昨夜のことを、彼女がどう受け止めているのか知りたい。
自分と同じように、後悔しているのか。
それとも、同じように、また会いたいと思っているのか。
その答えを知りたかった。
そして、もし彼女もまた自分を求めているのなら。
ひろきは、そこまで考えて、スマートフォンを伏せた。
自分は、何を期待しているのだろう。
後悔しているはずなのに、相手にも同じ気持ちでいてほしいと願っている。
自分だけが苦しむのは嫌だ。
自分だけが間違った人間になるのは怖い。
まさこも同じ気持ちなら、自分の選択を少しだけ肯定できる気がする。
その考えが浮かんだ瞬間、ひろきは自分の身勝手さに気づいた。
まさこを、自分の罪悪感を軽くするための存在にしようとしている。
彼女もまた、家庭を持つ一人の人間なのに。
ひろきは、目を閉じた。
昨夜のことは、二人で選んだことだった。
だからこそ、自分の気持ちだけを整理して終わりにするわけにはいかない。
けれど、どうすればいいのか。
その答えは、まだ見つからなかった。
### 2 妻の小さな計画
その日の夕方、まなみは帰宅すると、テーブルの上にパンフレットを置いた。
「ひろき、ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
「何?」
「旅行のパンフレット」
ひろきは、思わず顔を上げた。
パンフレットには、温泉旅館や観光地の写真が並んでいた。
「旅行?」
「うん。まだ決めたわけじゃないんだけどね」
まなみは隣に座った。
「春になったら、二人でどこかに行かない?」
ひろきは、パンフレットを手に取った。
「いいな。どこがいい?」
「近場でもいいし、少し遠くてもいいし。治療の予定ばかり気にして、旅行の計画なんてずっと立ててなかったでしょう」
「そうだな」
「子どもができたら、家族で旅行したいって思ってた。でも、二人で旅行するのも、悪くないかなって」
まなみは、掲載された温泉旅館の写真を指さした。
「こういうところで、ゆっくりしたいな」
「いいんじゃないか。温泉に入って、おいしいものを食べて」
「そうそう。観光地をいっぱい回るんじゃなくて、のんびりする旅行」
まなみは笑った。
その笑顔を見て、ひろきは胸が締めつけられた。
彼女は、二人の未来を考えている。
子どもがいる未来だけではなく、夫婦二人で過ごす未来も。
それを、具体的な形にしようとしている。
「春なら、仕事の予定も確認してみるよ」
ひろきは答えた。
「本当?」
「うん。せっかくだから、ちゃんと計画しよう」
「ありがとう」
まなみは嬉しそうにパンフレットを開いた。
「私、こういうことを考えるの、久しぶりかもしれない」
「そうか?」
「うん。ずっと、次の治療のことばかり考えていたから。旅行の予定を立てるのも、何だか楽しいね」
まなみは、候補の旅館に印をつけ始めた。
ひろきは、その横顔を見ていた。
まなみが笑っている。
自分と一緒に、未来を楽しみにしている。
それなのに、自分は昨夜、別の女性と口づけを交わした。
その事実が、ひろきの中で何度も繰り返された。
「ひろき?」
「ん?」
「どこか、行きたいところある?」
「……そうだな。海が見えるところもいいかもしれない」
「海か。いいね」
まなみは、パンフレットの別のページを開いた。
「じゃあ、そこも候補にしよう」
ひろきは頷いた。
まなみとの旅行を、楽しみに思う気持ちは本物だった。
彼女と笑いたい。
一緒に食事をして、温泉に入り、くだらない話をして過ごしたい。
その願いに、嘘はない。
けれど、まさこと会いたいという気持ちも消えていなかった。
一つの願いが、本物だからといって、もう一つの願いが消えるわけではない。
ただ、どちらを選ぶかによって、誰かを傷つけることがある。
ひろきは、そのことを理解し始めていた。
それでも、彼はまだ、まなみに昨夜のことを話せずにいた。
### 3 まさこの沈黙
九条家では、まさこもまた、昨夜のことを思い返していた。
朝、目を覚ましたとき、最初に浮かんだのは、しんいちの顔だった。
夫は隣で眠っていた。
何も知らない。
まさこが別の男性と会い、手を握り、口づけを交わしたことを。
まさこは、しんいちの寝顔を見つめた。
長い間、夫婦として暮らしてきた。
不妊治療を続け、親族から跡継ぎを求められ、何度も自分の気持ちを押し殺してきた。
しんいちもまた、自分なりに家の重圧を背負っていたのだろう。
彼が悪意を持って、まさこを苦しめていたわけではない。
だからこそ、簡単に憎むこともできなかった。
最近のしんいちは、少しずつ変わろうとしている。
まさこの話を聞く。
通院に付き添う。
九条家の跡継ぎについて、自分の考えを父に伝えようとしている。
その姿を見て、まさこも、夫と向き合い直したいと思い始めていた。
それなのに。
昨夜、ひろきと口づけを交わした。
まさこは、布団の中で目を閉じた。
あのとき、嫌だとは思わなかった。
怖かった。
いけないことだとわかっていた。
それでも、ひろきに触れたいと思った。
自分の気持ちを理解してくれる人。
誰かの期待に応えなくても、ただの自分でいられる相手。
その人に、近づきたいと思ってしまった。
まさこは、自分の気持ちを否定できなかった。
だが、ひろきとの口づけが、自分の苦しさを解決してくれるわけではない。
しんいちとの問題も、九条家の問題も、何一つ解決していない。
むしろ、これからは、もう一つの秘密を抱えて生きることになる。
まさこは、起き上がった。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
いつもの自分だった。
九条家の妻。
跡継ぎを期待されている女性。
そして、誰にも言えない過ちを犯した人間。
その三つが、鏡の中で重なっていた。
朝食の時間、しんいちは新聞を読みながら言った。
「来週、父と話すことになった」
「そうなの?」
「ああ。跡継ぎのことも、君の治療のことも、これからの家のことも。今までのように、君だけに負担を押しつけるつもりはないと伝える」
まさこは、箸を止めた。
「……ありがとう」
「君が安心して暮らせるようにしたいんだ」
しんいちは、まさこを見た。
「時間はかかるかもしれない。でも、これからは、二人で考えたい」
まさこは頷いた。
「うん」
夫の言葉は、嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
それでも、まさこの心には、ひろきとの記憶が残っていた。
夫と向き合いたい。
ひろきにも会いたい。
二つの気持ちを、まさこはどう扱えばいいのかわからなかった。
そして、彼女もまた、スマートフォンを手に取った。
ひろきからの連絡はない。
自分から送るべきではない。
そう思った。
昨夜のことを、もう一度繰り返してはいけない。
そう考えた。
しかし、指は、ひろきの名前の上で止まっていた。
### 4 言葉にできない後悔
その日の夜、ひろきは一人で食器を洗っていた。
まなみは、旅行の候補を調べるため、リビングでパソコンを開いている。
「この旅館、口コミもよさそうだよ」
「そうなんだ」
「食事もおいしそう。夕食が部屋で食べられるみたい」
「いいな」
ひろきは答えながら、蛇口を閉めた。
水滴を拭き、タオルを掛ける。
いつもの家事だった。
けれど、頭の中では、別のことを考えていた。
まさこに連絡するべきか。
昨夜のことについて、話し合うべきか。
もう会わないと伝えるべきか。
ひろきは、スマートフォンを取り出した。
まさこの名前を開く。
メッセージを入力した。
『昨日のことですが……』
そこまで書いて、指が止まった。
何と続ければいいのだろう。
『すみませんでした』
謝れば、まさこはどう思うだろう。
自分だけが悪かったと言えば、彼女を傷つけるのではないか。
『もう会わないほうがいいと思います』
そう送れば、本当に会えなくなるかもしれない。
それが怖かった。
ひろきは、自分の気持ちに気づいていた。
罪悪感がある。
後悔もある。
けれど、それ以上に、まさことのつながりを失いたくないと思っている。
だから、決断を先延ばしにしようとしていた。
謝罪も、別れも、次の約束も。
何も決めずにいれば、今の関係を保てる気がした。
しかし、何も決めないことも、一つの選択だった。
まなみには、昨夜のことを話さない。
まさことの連絡も、完全には断たない。
自分の家庭を守りながら、まさことのつながりも残しておく。
それは、誰も傷つけないための方法ではなかった。
自分が失いたくないものを、すべて手元に残しておこうとする方法だった。
ひろきは、そのことを理解していた。
それでも、スマートフォンを閉じた。
「ひろき?」
まなみが、リビングから声をかけた。
「なに?」
「ちょっと、こっち来て」
ひろきはスマートフォンをポケットにしまい、リビングへ向かった。
まなみはパソコンの画面を見せた。
「この二つなら、どっちがいいと思う?」
画面には、海の見える旅館と、山の中にある温泉旅館が並んでいた。
ひろきは、しばらく考えた。
「……海のほうがいいかな」
「私も、そう思ってた」
まなみは笑った。
「じゃあ、ここを第一候補にしよう」
「うん」
まなみは、旅行の日程を手帳に書き込んだ。
その様子を見ながら、ひろきは思った。
自分は、まなみと未来を作ろうとしている。
同時に、その未来を壊しかねない秘密を抱えている。
この矛盾を、いつまで続けられるのだろう。
答えは出なかった。
### 5 もう一度、会いたい
数日後。
ひろきは、仕事帰りの電車の中で、まさこからのメッセージを受け取った。
『この前のこと、少しお話しできませんか』
ひろきは、画面を見つめた。
胸が、強く打った。
まさこも、昨夜のことを考えていた。
そう思った。
彼女も、あの口づけを忘れていない。
そして、もう一度、話したいと思っている。
ひろきは、返信を打ち始めた。
『僕も、話したいと思っていました』
送信する。
まさこから、すぐに返事が届いた。
『ありがとうございます。私も、どうしたらいいのかわからなくて』
ひろきは、目を閉じた。
どうしたらいいのかわからない。
それは、自分も同じだった。
二人とも、後悔している。
二人とも、これからどうすればいいのかわからない。
それでも、二人とも、会いたいと思っている。
ひろきは、スマートフォンを握りしめた。
『明日の仕事帰りなら、少し時間があります』
送信した。
すぐに、まさこから返事が届いた。
『わかりました。私も大丈夫です』
それだけだった。
会う約束ができた。
ひろきは、スマートフォンをしまった。
自分は、何をしているのだろう。
昨夜のことを後悔している。
まなみを傷つけたくない。
もう同じことを繰り返したくない。
そう思っているはずだった。
なのに、また会う約束をした。
今度こそ、話し合うためだ。
そう考えた。
昨夜のことを整理する。
これからの関係をどうするか決める。
それなら、会う必要がある。
ひろきは、自分にそう説明した。
しかし、本当は、それだけではなかった。
まさこに会いたかった。
彼女の顔を見たかった。
あのときの気持ちが、二人にとって何だったのか知りたかった。
そして、できることなら、もう一度、彼女に触れたいと思っていた。
その気持ちを認めた瞬間、ひろきは目を伏せた。
自分は、もう一度、選ぼうとしている。
あの夜の過ちを、単なる一度の出来事として終わらせることもできる。
けれど、今の自分は、それを終わらせようとしていない。
もう一度、会う。
その選択を、自分でしている。
ひろきは、電車の窓に映る自分を見つめた。
そこにいるのは、特別な悪人ではなかった。
仕事をして、家に帰り、妻との未来を考える、普通の男だった。
孤独を感じ、誰かに理解されたいと思い、過ちを犯した男だった。
そして、その過ちを繰り返すかどうかを、自分で決められる男でもあった。
ひろきは、スマートフォンをポケットにしまった。
明日、まさこに会う。
そのことを、もう否定しなかった。
### 6 朝になっても
その夜、まなみは旅行の計画をまとめていた。
ひろきは隣で、候補の旅館の写真を見ていた。
「ここ、露天風呂があるんだって」
「いいな」
「春なら、景色もきれいかもしれないね」
「そうだな」
まなみは、ひろきの肩に軽く寄りかかった。
「楽しみだね」
ひろきは、すぐに答えられなかった。
楽しみだった。
まなみと旅行に行くことも、二人で過ごす時間も、本当に楽しみだった。
それなのに、明日、まさこと会う予定がある。
そのことを、まなみには言えない。
ひろきは、彼女の肩に自分の手を置いた。
「……うん。楽しみだな」
まなみは笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、ひろきは胸が苦しくなった。
まなみは、まだ自分を信じている。
自分との未来を、楽しみにしている。
その信頼を裏切っていることが、ひろきには耐えがたかった。
けれど、彼は何も言わなかった。
まなみを傷つけたくない。
そう思っていた。
しかし、同時に、自分が責められることを恐れていた。
その二つは、似ているようで違う。
本当にまなみを守りたいのなら、自分の行動と向き合わなければならない。
それでも、ひろきは沈黙を選んだ。
夜が更け、二人は寝室へ向かった。
明かりを消す。
まなみは、いつものように「おやすみ」と言った。
「おやすみ」
ひろきは答えた。
隣で眠る妻の気配を感じながら、ひろきは目を閉じた。
朝になれば、また仕事が始まる。
朝になれば、いつもの生活に戻れる。
朝になれば、少しは気持ちが落ち着く。
そう思っていた。
けれど、朝になっても、昨夜の記憶は消えなかった。
まなみと過ごした穏やかな時間も。
まさこと交わした口づけも。
どちらも、自分の人生の中に残っていた。
ひろきは、まだ何も決めていない。
それでも、明日、まさこに会うことは決めていた。
その選択が、さらに大きな過ちにつながるかもしれないと、心のどこかではわかっていた。
それでも、彼は自分の欲求を止められずにいた。
朝になれば、すべてが元に戻るわけではない。
過ちは、夜の中だけに存在するものではない。
その後も、日常は続く。
人は、何もなかったように笑い、食事をし、仕事へ行く。
そして、次に何を選ぶかを問われる。
ひろきもまた、その問いの前に立っていた。
### 次回予告 第21話「妻の違和感」
まなみは、ひろきの小さな変化に気づき始める。
スマートフォンを伏せる仕草。
会話の途中で途切れる視線。
以前より優しくなったはずなのに、どこか遠くにいるような感覚。
確かな証拠はない。
問い詰める理由もない。
それでも、妻の直感は、夫婦の間に生まれたわずかなずれを感じ取っていた。
一方、ひろきとまさこは、昨夜のことについて話し合うため、再び二人きりで会う。
二人は、関係を終わらせることができるのか。
それとも、過ちを繰り返してしまうのか。
そして、まなみは自分の胸に生まれた違和感を、見過ごせなくなっていく。




