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ひろきの人生の寄り道  作者: こうた
第二章 近づく心、揺らぐ日常

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第16話 境界線の手前

1.病院へ向かう朝


土曜日の朝、ひろきはいつもより早く目を覚ました。


カーテンの隙間から、冬の薄い光が差し込んでいる。


隣では、まなみがまだ眠っていた。


彼女の寝顔を見るのは、久しぶりだった。


最近の二人は、どちらかが先に起き、どちらかが先に眠る生活を繰り返していた。顔を合わせても、仕事や家事の話ばかり。会話がないわけではないのに、お互いの心の中に何があるのか、わからなくなっていた。


ひろきは、まなみの顔を見つめた。


この人と、これからも一緒に生きていきたい。


その気持ちに嘘はなかった。


しかし、愛していることと、相手の苦しみを理解できることは違う。


ひろきは、それを最近になって思い知らされていた。


「……起きてたの?」


まなみが目を開けた。


「ああ。そろそろ病院に行く準備をしようと思って」


「まだ早いよ」


「そうだね」


まなみは小さく笑った。


その笑顔を見て、ひろきも笑い返した。


何でもない朝の会話。


以前なら、そんなことを気に留めることもなかっただろう。


けれど今は、こうした時間を大切にしなければならないと思った。


まなみが起き上がり、ベッドの端に座った。


「ねえ、ひろき」


「ん?」


「今日、先生に聞きたいことがあるの」


「うん」


「治療を続ける場合と、少し休む場合。それぞれ、私の体にどんな負担があるのか。それから、今後どんな選択肢があるのか」


ひろきは頷いた。


「聞きたいことは、全部聞こう」


「……ありがとう」


まなみはそう言ってから、少し迷うように視線を落とした。


「でもね、今日は答えを出さなくてもいいと思ってる」


「答え?」


「治療を続けるか、やめるか。その場で決めなくてもいいかなって」


ひろきは、すぐに返事ができなかった。


まなみは長い間、答えを出さなければならないと思っていたのだろう。


治療を続けなければ、子どもを諦めることになる。


治療を休めば、今までの努力が無駄になる。


そんなふうに、自分自身を追い込んできたのかもしれない。


「うん。今日は話を聞くだけでもいいと思う」


「そうだよね」


まなみは、少し安心したように息を吐いた。


「私、子どもが欲しい気持ちは、まだあるの」


「うん」


「でも、治療のことばかり考えている自分が嫌になるときもある。友達と出かけても、妊娠の話になると笑えなくなる。生徒が進学や就職のことで悩んでいるのを見ると、あんなに一生懸命なのに、私は何をしているんだろうって思うこともある」


まなみの声が、少しずつ小さくなった。


「そんな自分が、嫌だった」


ひろきは、彼女の話を遮らなかった。


「子どもが欲しいって思うことも、妊娠した人を見て苦しくなることも、どちらも本当の気持ちなんだと思う。どっちかを無理に消さなくてもいいんじゃないかな」


そう言ってから、ひろきは自分の言葉に驚いた。


誰かに教わった言葉ではない。


まなみの苦しみを聞きながら、自分なりに考えて出てきた言葉だった。


まなみは、ゆっくりと彼を見た。


「……そういうふうに言ってもらえると、少し楽になる」


その言葉を聞いて、ひろきは嬉しくなった。


自分の言葉が、彼女に届いた。


ただ、それだけのことが嬉しかった。


まさこに必要とされることに喜びを感じていた自分を、ひろきは思い出した。


誰かに頼られること。


誰かの役に立つこと。


それが自分の存在を確かめる手段になっていたのかもしれない。


しかし、まなみに必要とされるために、まさこに頼られる喜びを手放せばいいという単純な話でもない。


問題は、誰に必要とされるかではなかった。


自分が何を求め、何を選び、その選択にどんな責任を持つのか。


ひろきは、まだその答えを持っていなかった。


それでも、今朝は逃げずにまなみの隣に座っていた。


### 2.診察室で聞いたこと


病院の待合室には、何組もの夫婦が座っていた。


雑誌を読む人。


スマートフォンを眺める人。


無言で壁の時計を見つめる人。


それぞれが、他人には話せない事情を抱えているのかもしれない。


まなみは膝の上で手を組んでいた。


「緊張してる?」


ひろきが尋ねた。


「少しね」


「僕も、何を聞けばいいのか、よくわからない」


「じゃあ、一緒に聞こう」


まなみはそう言って、ひろきの手にそっと触れた。


呼び出しの声が聞こえ、二人は診察室へ入った。


担当医の小林理恵は、これまでの治療記録を確認しながら、二人の話を聞いた。


「今回は、今後の治療方針について相談したいということですね」


「はい」


まなみが答えた。


「治療を続けたい気持ちはあります。でも、少し疲れてしまって……。休むことが悪いことのように感じてしまうんです」


小林は、すぐに答えを出そうとはしなかった。


「長い間、治療に取り組んでこられましたからね。疲れを感じるのは、不思議なことではありません」


まなみは、わずかに顔を上げた。


「治療を休むことは、これまでの努力を否定することではありません。続けることにも、休むことにも、それぞれ意味があります」


「休んだら、妊娠の可能性が下がるんでしょうか」


ひろきが尋ねた。


「その点は、治療内容や年齢、検査結果などによって異なります。休む期間によっても判断が変わりますから、具体的な医学的条件を確認したうえで考えましょう」


小林は二人の顔を見た。


「大切なのは、可能性だけでなく、治療による身体的・精神的な負担も含めて考えることです。ご夫婦のどちらか一人だけが我慢し続ける形にはしてほしくありません」


ひろきは、まなみを見た。


彼女がどれほどの負担を抱えてきたのか。


今まで、どれほど自分に言えずにいたのか。


想像していたつもりだった。


しかし、想像することと、本当に話を聞くことは違った。


「先生」


まなみが言った。


「もし、子どもを授かれなかったとしても、私たちが幸せに生きることはできるんでしょうか」


ひろきは、息を止めた。


医師は少し考えてから答えた。


「それは、医学だけで決められることではないと思います。ただ、お二人の人生は、妊娠できるかどうかだけで決まるものではありません」


まなみの目に、涙が浮かんだ。


「子どもを望む気持ちを大切にすることと、お二人の生活を大切にすることは、両立させて考えていいんです」


まなみは、小さく頷いた。


診察は、すぐに終わるものではなかった。


治療の選択肢、今後確認すべき検査、休む場合の注意点。二人は一つずつ説明を聞き、疑問を質問した。


その場で、結論は出さなかった。


病院を出る頃には、昼を過ぎていた。


外の空気は冷たかったが、朝よりも少しだけ明るく感じられた。


「……来てよかった」


まなみが言った。


「うん」


「何かが解決したわけじゃないけど、少なくとも、私が一人で決めなくてもいいんだって思えた」


ひろきは頷いた。


「これからは、一緒に考えよう」


そう言ったとき、ひろきはまなみの手を握りたくなった。


けれど、彼女が自分から手を差し出すまで、少しだけ待った。


まなみは歩きながら、自然に彼の手を握った。


その温もりに、ひろきは胸の奥が熱くなるのを感じた。


まだ、二人の問題は何も終わっていない。


それでも、二人には一緒に考える時間が残されていた。


### 3.まさこが聞きたかったこと


その日の午後、九条家では、まさこが書斎の前に立っていた。


しんいちは、父との話を終えて自室へ戻るところだった。


「あなた、今、少しいい?」


「ああ。どうした?」


まさこは、何を聞くべきか考えていた。


夫が変わろうとしていることはわかっている。


親族の前で自分をかばってくれたことも、父親と跡継ぎの話をしていることも知っている。


けれど、長い年月の中で積み重なった不安は、一度の言葉で消えるものではなかった。


「私、これからの治療について、もう一度考えたいの」


「わかった」


「続けるか、休むか。それだけじゃなくて……子どもを持てなかった場合、私たちがどう生きていくのかも考えたい」


しんいちは、静かに頷いた。


「俺も、そうしたいと思っている」


まさこは、夫の顔を見つめた。


「本当に?」


「本当だ」


「九条家の跡継ぎがいなくても?」


しんいちは、すぐには答えなかった。


まさこは、その沈黙を見て胸が痛んだ。


やはり、簡単には変われないのだろうか。


そう思ったとき、しんいちが口を開いた。


「正直に言うと、まだ不安はある」


まさこは顔を上げた。


「家のことを、どうすればいいのか。親族に何を言われるのか。自分の代で何かを失うことになるのではないか。そういうことを考えると、怖い」


「……そうなのね」


「だが、その不安をお前に押しつけるのは、もう違うと思っている」


しんいちは、まさこの前に座った。


「俺は、子どもが欲しいと思ってきた。九条家を継ぐ者が必要だとも考えてきた。だが、それが本当に自分の望みなのか、家から教えられた望みなのか、わからなくなっている」


「あなたは、どうしたいの?」


まさこは尋ねた。


「家のことではなく、あなた自身は」


しんいちは視線を落とした。


長い沈黙が流れた。


「……俺は、お前と生きていきたい」


その言葉は、決して完璧な答えではなかった。


子どもが欲しいのか。


跡継ぎをどうするのか。


親族にどう説明するのか。


何一つ、具体的には決まっていない。


それでも、まさこは夫が初めて、自分の言葉で何かを選ぼうとしているように感じた。


「私も、あなたと生きていきたいと思っている」


まさこは答えた。


「でも、それは、これまでと同じように我慢し続けるという意味ではないの」


「わかっている」


「わかっているかどうかは、これからのあなたを見て判断したい」


しんいちは、静かに頷いた。


「そうしてくれ」


まさこは、その返事に少しだけ驚いた。


以前のしんいちなら、妻に信じてもらえないことを不満に思ったかもしれない。


今は、すぐに信頼を取り戻せないことも、自分が受け入れなければならないのだと理解し始めていた。


まさこは、ふと、ひろきのことを思い出した。


彼と話すと、気持ちを理解してもらえたように感じる。


言葉にできなかったことを、否定せずに聞いてもらえる。


それは、自分にとって大切な時間だった。


けれど、今、目の前にいる夫もまた、変わろうとしている。


自分は、どちらの言葉を信じるべきなのだろう。


いや。


そもそも、誰かの言葉を信じるかどうかだけが、自分の人生を決めるのだろうか。


まさこは、少しずつ気づき始めていた。


自分が求めていたのは、ただ優しくしてくれる人ではなかった。


自分の意思を持ち、その意思を尊重してくれる関係だった。


それを夫との間で築けるのかどうか。


まだ、答えは出ていなかった。


### 4.送らなかったメッセージ


夕方、ひろきは自宅でスマートフォンを手に取った。


まなみは買い物に出かけていた。


画面を開くと、まさことのメッセージ履歴が目に入った。


昨日の会話が、頭の中によみがえる。


帰りたくないという気持ち。


帰りたいと思える場所をつくるという言葉。


まさこは、自分の家に帰ることを怖いだけのものにしたくないと言った。


ひろきも、そうなれるといいと。


そのとき、ひろきは確かにそう思った。


しかし今、彼女の顔を思い出すと、また会いたいという気持ちが湧いてくる。


今日、まなみと病院へ行ったことを伝えたい。


自分たちが少し前に進めたことを、聞いてほしい。


そして、彼女がどうしているのかも知りたい。


ひろきはメッセージを入力した。


『今日は妻と病院へ行きました。これからのことを、少しずつ考えていこうと思います』


そこまで書いて、指が止まった。


送信すれば、まさこはきっと返事をくれる。


よかったですね、と。


無理をしないでください、と。


あるいは、彼女自身のことも話してくれるかもしれない。


そのやり取りを想像すると、胸が温かくなった。


同時に、違和感もあった。


なぜ、自分はまなみと話したことを、まさこに伝えたいのだろう。


ただ報告したいだけなのか。


自分の変化を、彼女に認めてもらいたいのか。


それとも、まなみとの関係を立て直そうとしながらも、まさことのつながりを残しておきたいのか。


ひろきは、答えを出せなかった。


画面の文章を、すべて消した。


そして、スマートフォンを伏せた。


連絡をしないことが、正しい選択だとは限らない。


ただ、今の自分が、まさこに何を求めて連絡しようとしていたのか。


それを考えずに送ることは、したくなかった。


ひろきは、ソファの背もたれに体を預けた。


まなみとの関係を修復したい。


それは本心だ。


まさこと話したい。


それも、本心なのだろう。


人は、一つの本心だけで生きているわけではない。


だからこそ、自分の中にある気持ちを、都合のよいものだけ選んで行動してはいけないのだ。


ひろきは目を閉じた。


まだ、何も越えていない。


そう思いたかった。


けれど、心の中でまさこを特別な存在にし始めていることは、もう否定できなかった。


境界線は、目に見える場所にあるわけではない。


誰かに触れた瞬間だけに存在するものでもない。


隠し事を始めたとき。


相手に言えない気持ちを育てたとき。


自分に都合のよい理由を探し始めたとき。


その一つ一つの中に、境界線はあるのかもしれなかった。


### 5.二人の未来


夜、ひろきとまなみは、リビングのテーブルに並んで座っていた。


テーブルの上には、病院でもらった資料が置かれている。


まなみは、説明を聞きながら書いたメモを見返していた。


「すぐには決められないね」


まなみが言った。


「うん」


「でも、今までみたいに、次の治療、その次の治療って、何も考えずに進んでいくのは、もうやめたい」


「そうだね」


「治療を続けるにしても、休むにしても、私たちが納得して決めたい」


ひろきは、資料を見つめた。


「僕も、そう思う」


まなみは少し迷ってから、尋ねた。


「ひろきは、子どもがいない人生を考えたことある?」


ひろきは、すぐには答えなかった。


考えたことがないわけではない。


だが、それを具体的に想像することは避けてきた。


子どもがいる未来を思い描くことはあっても、いない未来を考えると、何かを失ったような気持ちになったからだ。


「……あるよ」


「どんなことを考えた?」


「子どもがいなくても、二人で旅行したり、好きなものを食べたり、年を取っても一緒に暮らしたり。そういう生活もあるんだろうなって」


まなみは、彼の話を聞いていた。


「でも、子どもが欲しいって気持ちがなくなるわけじゃない」


「うん」


「だから、どちらかを無理に諦めるんじゃなくて、どちらの気持ちも持ったまま、考えていきたい」


まなみは、ゆっくりと頷いた。


「私も、そうしたい」


しばらく、二人は黙っていた。


静かな時間だった。


気まずさはあった。


言葉にできない不安もあった。


それでも、以前の沈黙とは違っていた。


互いに何も言えないから黙っているのではなく、相手の言葉を待っている。


ひろきは、まなみの手元を見た。


細い指。


治療を続けてきた年月。


その間に、彼女がどれほどの期待と失望を繰り返してきたのか。


自分は、すべてを知っているわけではない。


これからも、すべてを理解できるとは限らない。


それでも、知らないことを知ろうとすることはできる。


「まなみ」


「なに?」


「これからは、もっと話をしよう」


まなみは、少し驚いた顔をした。


「……うん」


「すぐに答えが出なくてもいいから。お互いに、我慢していることがあったら、ちゃんと言えるようにしたい」


まなみは、彼の手を取った。


「私も、そうしたい」


二人は手を握ったまま、しばらく座っていた。


ひろきは、その温もりを感じていた。


この手を離したくない。


そう思った。


しかし、まさことのつながりを残したいという気持ちも、まだ自分の中にある。


その矛盾を、今夜の会話だけで解決することはできなかった。


それでも、ひろきは考え続けなければならない。


自分が本当に望んでいるものは何なのか。


誰かに必要とされることなのか。


寂しさを埋めることなのか。


それとも、相手の気持ちを受け止め、自分の気持ちにも責任を持ちながら、一緒に生きていくことなのか。


まだ、答えは見つからない。


ただ一つ、わかっていることがあった。


答えが見つからないことと、何をしてもいいということは違う。


迷っている間にも、自分の行動は誰かの人生を変えてしまう。


ひろきは、まなみの手を握り返した。


そして、心の中で自分に問いかけた。


この手を握りながら、別の誰かを求め続けることを、自分は本当に正直だと言えるのだろうか。


その問いから、今度こそ逃げてはいけない。


### 次回予告 第17話「孤独の言い訳」


ひろきは、まなみとの関係を立て直そうと決意する。


だが、日常が少しずつ戻り始めたとき、まさこと話したいという気持ちも消えていないことに気づく。


一方、まさこは夫しんいちとの生活を変えようと、小さな一歩を踏み出す。


二人は、それぞれの家庭へ戻ろうとしている。


それなのに、なぜ心は、相手のもとへ向かってしまうのか。


ひろきはやがて、自分が孤独を感じていることと、その孤独を理由に何かを選ぶことの違いを、試されることになる。


孤独は、言い訳になるのか。それとも、自分自身と向き合うための始まりなのか。


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