◇32.黒竜の襲来
『黒竜のラグド』
竜の牙が迫る刹那に思い出したのは、ペローネからの忠告だった。
『一応、気を付けておきなさい。彼は過激派だから、あなたを見かけたらパクッと一飲みしちゃうかも』
聞いたときには、いやいやいくら何でもさすがに問答無用でパクっとは来ないでしょー、と思って軽く聞き流してしまった忠告。
ごめん、ペローネ。これ、パクっと丸吞みにされるやつです。
がばっと開いた黒竜の大口が目の前に迫り、ぎゅっと目を瞑った瞬間。
――ガキン! と固い音が響いた。
身体を襲うはずの衝撃は、まだ来ない。
「……?」
「ご無事ですかな、トレイシア様」
聞き慣れた口調が全く聞き慣れない渋い声で降ってきて、恐る恐る顔を上げると、目の前に見知らぬ老齢の男性が立っていた。
小柄な私よりも遥かに高い上背、一つに結ばれた白髪、服装的に執事。
私と黒竜の間に立ちはだかった謎の執事は、白い手袋をした両手にそれぞれレイピアを握っており、その細い刃の先端で竜の太い牙をしっかりと受け止めている。この渋い執事が出現した一方で、さっきまですぐ傍にいたはずの白もこ生物がいない。つまり。
「……えっと、貴様、モリス氏でございます?」
「? はい、モリスでございます」
黒竜を押さえながら首だけこちらを振り返ってきょとん顔され、私は吠えた。
「いきなり双剣使いのイケオジ執事になるなやビビるやろがい!」
「おお、お元気なご様子」
黒竜襲撃のインパクトを超える、マスコット系羊だと思っていた魔族がバトル系執事だった件。頼むから突っ込み所は一現場に付き一つにしていただけないだろうか。
魔族の中には、人っぽい姿と獣っぽい姿を自在に切り替えられる者が存在するという。どうやらモリスさんも切り替えができる魔族だったらしく、渋い老齢執事の外見に似合う渋い声で、「ご無事で何よりですぞ」と朗らかに言った。
その間にも黒竜の牙とレイピア二本との押し合いは続いているのだが、遥かに巨体の黒竜と力比べをしているというのに、モリスさんはびくともしない。
レイピアは攻撃専用の武器なので先端で相手を受け止める作りにはなってないはずだし、そもそも普通に考えて折れるはずの重量差なのだけれど、それらの不安を微塵も感じさせない立ち姿だ。先程まで私の膝上に乗っかって「はあんはあん」と悶えていた毛玉とは思えない勇壮っぷりである。
「ラグド殿、お戯れが過ぎますぞ」
私の無事を確認したモリスさんは前に向き直り、黒竜へ穏やかに呼びかけた。やはりこの竜がペローネの言っていた「ラグド」か。
「トレイシア様が驚かれているではありませんか。淑女の肝を冷やすなど、紳士として失格ですぞ」
モリスさんから真摯に紳士のマナーを説かれた黒竜は、渋々といった様子ながら牙を引き、今にも丸呑みせんとばかりに開いていた大口も閉じた。それを見てモリスさんも両手のレイピアを降ろす。
巨体の竜にすんなり言うことを聞かせる姿に、今初めてモリスさんに宰相らしさを感じた。ちゃんと偉い立場だったんだ、このもこもこ……。
私がモリスさんを見直している間に、黒竜はドスンドスンと地響きを鳴らしながら丘の上でおすわりの姿勢に移行していた。座るだけで地面が揺れるのだから、その重量の凄まじさを推して知るべしだ。鳥と違って身体が重いのによくあの翼で飛べるなあと思うが、たぶん魔族は魔族の理屈で飛ぶのだろう。
「ふん」
黒竜は地底から響くような、威厳に溢れた声で言葉を発した。
「本当に食おうとしたわけじゃねえよ。ちょっと脅かしてやろうと思っただけだ」
黒竜はモリスさんにそう言うと、今度は私にその赤い瞳を向けた。睥睨という言葉が相応しい傲岸不遜な眼差しで、私をじっと見る。
巨体の生物に見下ろされると、それだけで半端ない威圧感があった。敵意剥き出しの視線なので余計に。幸い私は魔王から規格外の威圧を毎日浴びている身なので、竜に敵意を向けられてなお立っていられるほどの耐性はついていたが、一般市民なら卒倒していたと思うほどの圧力である。
これが竜。今まで出会った魔族とは一線を画す圧倒的な強者。本能も理性も、この相手には絶対に楯突くなと警告をしてくる。
敵に回せば損しかない相手だと心に刻み、この場を大人しくやり過ごそうとして。
「そもそもお前みたいな不味そうな人間、誰が食うかよ。ブス」
「――は?」
黒竜に迎合しろと叫ぶ本能と理性を、自我がねじ伏せた。
てめえ今ブスっつったな絶対許さんからな、という自我が、全てに勝った。
縮こまっていた姿勢をしゃんと伸ばし、黒竜の双眸を逸らすことなく見返す。先程うっかり漏れてしまった重低音ボイスでの「は?」が聞こえていたらしいモリスさんが、ぎょっとした顔で私を見ているがひとまず放置。
問答無用で捕食ムーブかましてきた上に威圧的なこの態度、黒竜がこちらを怖がらせようという意図が満々なことは明白だ。だからこそ、絶対に怯えてやるものかと決めた。
この場に全くそぐわない、優雅な微笑みを浮かべる。これが淑女の臨戦態勢である。微塵も恐怖の色を見せない小娘が意外だったのだろう、黒竜が一瞬たじろぐ。
タイミングが悪かったな、黒竜。今の私は超気立てのいいトレイシア姫の猫を被る気分じゃないし、被るべき猫がどっか行った私は無礼者相手に迎合してあげるほど、広大無辺な心を持ち合わせてはいないのだ。
「おやまあ」
敢えておっとりと、片手を頬に当てて小首を傾げてみせる。巨大な竜に対し、まるで草花でも愛でているような態度で。
「でっけぇわんちゃんだな、貴様?」




