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3話 剣を持つということ

 訓練を始めてから、三か月。

 エリアーナの身体は、少しずつ変わっていた。

 最初は一周するだけで息を切らしていた訓練場も、今では最後まで一定の速さで走れる。

 受け身も覚えた。

 相変わらず泥だらけにはなるけれど、最初のように顔から地面へ突っ込むことはない。

 舞踊の授業で身につけた身体の使い方も、思っていた以上に役立った。

 足運び。姿勢。重心の移動。

 そのあたりは、ノクスから見ても悪くないらしい。


 そして、その日の朝。


「姫様」


 いつもの基礎訓練を終えたところで、ノクスが呼んだ。


「はい」

「今日から、次へ進みます」

「次?」


 ノクスが手を伸ばす。その手に握られていたものを見て、エリアーナの赤い瞳が、ぱっと輝いた。


「剣?!」

「木剣です」

「剣!」

「木剣です」

「ついに剣だ!」

「……聞いていますか?」


 聞いてはいる。

 ただ、あまり気にしていないだけだ。


 差し出された木剣を、エリアーナは嬉しそうに受け取った。

 そして。


「…………」


 笑顔が止まった。

 両手に、ずしりと重さがかかる。


「……重い」

「でしょうね」


 見ているだけなら、もっと簡単そうだった。

 騎士たちは片手で剣を扱う。ノクスに至っては、盾を持ちながらでも自在に振るっている。

 だから、なんとなく、自分にもできる気がしていた。


「これ、ずっと持ってるの?」

「戦うなら」

「ノクスも?」

「当然です」


 エリアーナは木剣を見る。次にノクスを見る。もう一度、木剣を見る。


「……騎士って大変だね」

「今さらですか」


 知らなかった。

 三か月も訓練場に通っているのに。

 まだまだ知らないことばかりらしい。


「まず、構えてください」


 ノクスが正面に立つ。


「こう?」

「右足を少し引いて」


 言われた通りに動かす。


「もう少し」


 半歩。


「はい。そこで」


 姿勢を整える。重心を落とす。木剣を握る。

 ノクスは少しだけ目を細めた。


「……悪くありませんね」

「ほんと?」

「足運びは」

「足だけ?」

「今のところは」


 むう、と頬が膨らむ。

 けれど、舞踊で何度も繰り返してきた動きに近い。

 足の位置を意識すること。姿勢を崩さないこと。身体の中心を感じること。

 それなら、エリアーナにも分かる。


「では、そのまま振ってみてください」

「うん」


 木剣を上げる。

 そして。


「えいっ!」


 勢いよく振り下ろした。

 ぶんっ、と風を切る。

 同時に。


「わっ」


 木剣の重さに引っ張られ、身体まで前へ持っていかれた。

 慌てて一歩踏み出す。

 どうにか転ばずに済んだ。


「…………」

「…………」


 エリアーナは姿勢を戻した。


「今のは?」

「剣に振られています」

「私が振ったよ?」

「姫様も一緒に振られていました」

「……難しい」

「だから練習します」


 もう一度、今度は力任せにしない。

 振る。戻す。

 構える。また振る。

 何度か繰り返しているうちに、少しずつ木剣の重さにも慣れてきた。


「ねえ、ノクス」

「はい」

「これで、敵を倒す練習をするの?」


 ノクスの視線が、エリアーナへ向いた。


「いいえ」

「違うの?」

「姫様が最初に覚えるのは、倒すことではありません」


 木剣を一本取り、自分も向かいに立つ。


「相手との距離を見ること。攻撃を避けること。危険なら離れること」

「逃げるってこと?」

「はい」


 あまりにも迷いなく答えられて、エリアーナは瞬きをした。

 騎士の訓練というものは、もっと格好よく敵を倒す方法を習うものだと思っていた。


「倒さなくていいの?」

「必要ありません」

「でも、もし悪い人が来たら?」

「逃げてください」

「それでも追いかけてきたら?」

「俺のところへ」

「ノクスの?」

「はい」


 ノクスは、当然のことのように続けた。


「倒す必要があるなら、俺がやります」

「…………」

「そのための護衛です」


 エリアーナはしばらく黙っていた。

 それから。


「そっか」


 小さく頷いた。


 自分は騎士になるわけではない。

 強い敵を倒したいわけでもない。

 自分の身を守れるようになりたい。

 最初に願ったのは、それだった。


「では、ひとつ試してみましょう」

「試す?」

「俺に、その木剣を当ててください」

「ノクスに?」

「はい」


 エリアーナの顔が、ぱっと明るくなった。


「どこでもいい?」

「どこでも構いません」

「一回でも?」

「一度触れれば、姫様の勝ちです」


 それなら、できるかもしれない。

 三か月も練習した。走れるようになった。身体の動かし方も、少しずつ分かってきた。

 それに、ノクスは目の前に立っている。

 エリアーナは教えられた通り、木剣を構えた。

 右足を引く。重心を落とす。

 相手を見る。

 ノクスも木剣を持っている。けれど、構えてはいなかった。ただ自然に立っているだけ。


「いつでもどうぞ」

「……いくよ」

「はい」


 エリアーナは息を吸った。

 そして、踏み込もうとした。


 ――はずだった。


「…………?」


 何が起きたのか分からなかった。


 一瞬。

 本当に、一瞬だった。


 目の前にいたはずのノクスがいない。

 そう思った次の瞬間には、エリアーナの手から木剣が消えていた。


「……え?」


 視線を下げる。木剣がない。

 右を見る。いない。

 左――


「終了です」


 すぐ後ろから声がした。


「!?」


 振り返る。すぐ後ろにノクスがいた。

 右手には自分の木剣。

 左手には――さっきまでエリアーナが握っていた木剣。


「…………」


 エリアーナは、自分の空っぽになった両手を見る。

 ノクスを見て、また自身の手を見る。


「…………え?」

「試合終了です」

「ちょっと待って」

「はい」

「私、まだ何もしてない」

「しました」

「してないよ!」

「踏み込もうとしました」

「そこまでしかしてない!」

「その時点で終わりました」

「…………」


 そんなことがあるのだろうか。

 いや、実際に終わっている。

 エリアーナは呆然とノクスを見上げた。


「……ノクスって」

「はい」

「強いの?」


 今度はノクスが黙った。


「…………」

「なんで黙るの?」

「何と答えるべきか考えていました」

「強い?」

「少なくとも、姫様よりは」

「それは今ので分かったよ!」


 珍しく大きな声が出た。

 訓練場の端から、騎士たちの笑い声が聞こえた気がした。

 エリアーナは頬を膨らませる。

 そして――。


「もう一回!」

「今日は終わりです」

「なんで?!」

「初めて木剣を持った日に何度もやることではありません」

「今度はできるかもしれない!」

「できません」

「やってみないと分からないよ!」

「分かります」

「むぅぅ……!」


 納得できない。

 けれど、ノクスはもう木剣を片づけ始めている。

 その背中を見ながら、エリアーナはもう一度、自分の手を見た。


 ――本当に、何も分からなかった。

 剣を構えたはずなのに。

 気がつけば、全部終わっていた。

 三か月。

 少し走れるようになった。転ぶことも上手になった。木剣も持てた。できることは、確かに増えた。

 けれど、知らないことは――それらよりずっと多い。


「ノクス」

「はい」

「明日も剣、やる?」

「身体に痛みがなければ」

「じゃあ、やる」


 迷いなく答える。

 いつか――せめて何が起きたのか分かるくらいにはなりたい。そう思った。

 十二歳のエリアーナが初めて剣を握った日。

 彼女が覚えたのは、誰かを倒す方法ではなかった。


 自分の身体の使い方と、逃げることの大切さ。

 そして――いつも隣にいる護衛の騎士が。

 思っていたより、ずっと強いということだった。

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