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2話 小さなご褒美

 エリアーナが訓練を始めて、一か月が経った。

 訓練といっても、毎日ではない。

 学院の授業がある日は、朝か放課後に少しだけ。

 疲れている日は休む。

 休日には、いつもより少し長く身体を動かす。

 ノクスが決めた予定は、エリアーナが想像していたよりずっと地味なものだった。

 走る。歩く。身体を伸ばす。足を動かす。

 転ぶ。起きる。また転ぶ。そして、また起きる。

 最初の頃は訓練場を一周するだけで、最後には歩いているのか走っているのか分からなくなっていた。

 それが今では――。


「ノクス!」


 一周を終えたエリアーナが、得意げに振り返る。

 頬は赤く、呼吸も少し弾んでいる。それでも――。


「今日は最後まで走れた!」

「はい」

「途中で歩かなかったよ!」

「見ていました」

「速かった?」

「そこまでではありません」

「むぅ」


 素直に褒めてくれてもいいのに。

 そんな顔で見上げられても、事実は変わらない。

 だが、一か月前と比べれば、確実に体力はついている。


「水を飲んだら休憩です」

「はーい」


 エリアーナは置いてあった水筒へ向かう。

 その後ろ姿を見送りながら、ノクスは小さく息を吐いた。


 最初は、どこまで続くか分からなかった。

 本人が望んだこととはいえ、十二歳の少女だ。

 学院の授業もある。

 王女としての勉強もある。

 芸術学科では舞踊や音楽の授業まで受けている。

 疲れた。今日はやりたくない。

 そう言い出したとしても、何もおかしくないと思っていた。

 けれど、この一か月間。エリアーナは、一度も自分からやめるとは言わなかった。


「姫様、今日もやってるな」


 訓練場の端から声がした。休憩中の騎士たちだった。


「最初の日、すごかったよな」

「頭から泥に突っ込んでたやつか?」

「聞こえてるよー!」


 離れた場所からエリアーナが抗議する。

 笑い声が上がった。

 この一か月ですっかり見慣れた光景になっている。


 第一皇女が訓練場に現れる。

 走る。転がる。泥だらけになる。そして帰る。

 翌日か、その次の日にはまた来る。

 いつの間にか騎士たちの間では、『泥だらけの姫様』などと呼ぶ者まで現れていた。

 もちろん、本人の前では言わない……おそらく。


「次、受け身やる!」

「休憩が終わってからです」

「もう休んだよ?」

「まだ三分です」

「三分も休んだよ?」

「十分休んでください」


 放っておけば、すぐに再開しようとする。

 ノクスは、この一か月で学んだ。

 エリアーナは、できないことを嫌がらない。

 むしろ、昨日できなかったことが、今日少しできるようになる。

 それが楽しくて仕方がないらしい。


 ――そしてもうひとつ。止めなければ、やりすぎる。


「あと七分です」

「インターバル長いなあ……」

「休むのも訓練です」

「はーい」


 エリアーナの返事だけはいつも素直だった。


✦ ───────────── ✦


 その日の午後。

 学院での護衛を終えたノクスは、城へ戻る途中で城下の店に立ち寄った。


 一か月、よく続けた。

 何かひとつくらい、渡してもいいだろう。

 そう考えただけだった。


 ふと目に留まった焼き菓子専門店へ足を運んでみる。

 菓子店の中には、色とりどりの焼き菓子が並んでいる。

 丸いもの。四角いもの。花をかたどったもの。砂糖をまぶしたもの。

 ――どれがいいのか、まるで分からない。


「…………」


 戦場なら、状況を見れば何を選ぶべきか分かる。

 菓子店では分からない。

 ノクスが無言で棚を眺めていると、ひとつの包みが目に留まった。

 猫。うさぎ。くま。

 小さな動物をかたどったクッキーが、透明な袋の中に並んでいる。


「…………」


 ふと、学院の教室が頭に浮かんだ。

 芸術学科の教室。色紙や絵の具に囲まれた少女たち。

 誰かが小物を持ってくれば、

『かわいい!』

 そんな声が飛び交う。

 猫が描かれていれば、エリアーナも一緒になって覗き込んでいた。

『ねこちゃん、かわいい』

 確か、そんなことも言っていた。


 ノクスはもう一度、棚を見る。

 猫。うさぎ。くま。


「……これを」


 ほとんど迷わず、その包みを手に取った。


✦ ───────────── ✦


 夕方――。

 訓練を終えたエリアーナは、屋上庭園にいた。

 今日は受け身の練習をしたせいで、また盛大に泥だらけになった。

 すでに湯浴みを済ませ、着替えている。

 まだ少し湿った金色の髪を風に揺らしながら、夕焼けを眺めていた。


「姫様」

「んー?」


 エリアーナが振り返る。ノクスが、小さな包みを持って立っていた。


「なあに、それ」

「どうぞ」


 大きな手から、そっと差し出される。


「私に?」

「はい」


 受け取って、中を見る。そして――。


「……ねこちゃん!」


 最初に見つけたのは、やはり猫のクッキーだった。


「うさぎもいる! くまも!」


 ぱっと顔が明るくなる。

 ノクスは、その反応を見た。

 どうやら、選択は間違っていなかったらしい。


「ノクス、これどうしたの?」

「城下で買いました」

「ノクスが選んだの?」

「……はい」

「かわいい!」


 そこまで喜ぶものなのか。

 ノクスには、いまひとつ分からない。


「一か月分のご褒美です」

「ご褒美?」


 エリアーナが瞬きをする。


「よく続きましたので」


 それだけ。たったそれだけの言葉だった。

 けれど、エリアーナは手元の包みを見つめた。

 猫。うさぎ。くま。

 それから、一か月という言葉。


 何度転んだか分からない。泥だらけになった。次の日には身体中が痛くなった。思ったより走れない自分に驚いた。

 それでも、少しずつ。できることは増えた。

 そして、それをずっと見ていた人がいた。


「……ありがとう、ノクス」


 嬉しそうに笑って、まず、うさぎのクッキーをひとつ口に運ぶ。

 さくりと軽い音を立てた。


「おいしい!」

「それはよかったです」


 次に、くま。そして、猫を手に取って。


「…………」


 止まった。


「どうしました?」

「……これ、食べるのかわいそう」

「菓子ですよ」

「分かってるよ」

「食べなければ湿気ます」

「分かってるってば~!」


 エリアーナは猫のクッキーを見つめる。

 しばらく悩んで、そっと包みへ戻した。


「最後にする」

「そうですか」


 どうやら、そういうものらしい。

 ノクスにはまだ理解できない。

 けれど、一か月前よりは、ほんの少しだけ分かることも増えていた。


「ねえ、ノクス」

「はい」

「このお店、どこにあるの?」

「城下です」

「それは聞いた」


 エリアーナが笑う。


「今度、私も行ってみたい」

「……店へ?」

「うん」


 少し考えてから。


「ノクス、連れてって」

「俺がですか?」

「だって、お店知ってるでしょう?」


 それはそうだが。

 ノクスが答えるより先に。


「じゃあ、決まりね!」


 勝手に決められた。


「……任務に支障がなければ」


 結局、そう答える。


「やった!」


 嬉しそうな声が、夕暮れの庭園に響いた。


 一か月前。

 ノクスにとってエリアーナは、突然任された十二歳の護衛対象だった。


 精霊が見える。

 途方もない力を持つ。

 そして、朝に弱い。


 その程度しか知らなかった。


 今は、できないことほど何度も挑戦すること。

 放っておけば頑張りすぎること。

 舞踊は得意なこと。

 そしてどうやら、かわいいものが好きらしいこと。


 知っていることが、少し増えた。

 理解するには、まだ遠い。

 それでも。

 猫のクッキーを大事そうに残している少女を見ながら。

 ノクスはほんの少しだけ、彼女の世界に近づいていた。


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