1話 泥まみれの初日
朝――昨夜まで降っていた雨は、すっかり上がっていた。
王城の訓練場には朝の冷たい空気が残り、濡れた土の匂いが漂っている。
その中央で、エリアーナはやる気に満ちた顔をして立っていた。
「よろしくお願いします!」
「はい」
対するノクスは、いつも通りだった。
昨日、エリアーナは彼に頼んだ。
自分の力を、きちんと扱えるようになりたい。
誰かを傷つけないように。
そして、自分の身くらいは自分でも守れるようになりたい。
精霊については、フェリアをはじめとする魔導師たちに教えを請うことになった。
ならば、ノクスに教えられることは何か。
まずは――身体だった。
「今日は、姫様がどの程度動けるのか確認します」
「確認?」
「はい。いきなり鍛えても身体を痛めるだけですから」
ノクスは淡々と答える。
エリアーナは十二歳。
騎士を目指して幼い頃から鍛錬を積んできたわけでもない。
ましてや、ノクスと同じ訓練などできるはずがなかった。
「最初に、軽く走りましょう」
「何周?」
「一周です」
「一周だけ?」
「一周だけです」
なんだか物足りなさそうな顔をされた。
ノクスは眉ひとつ動かさない。
「速く走る必要もありません。話ができるくらいの速さで」
「はーい」
返事だけは相変わらず良い。
エリアーナは軽い足取りで走り出した。
最初は順調だった。朝の風が気持ちいい。
髪を揺らしながら、エリアーナは訓練場を走っていく。
半周を過ぎたあたりで。
「…………」
少し、口数が減った。
さらに進む。
「……ノクス」
「はい」
並んで走るノクスを見上げる。
「これ、一周って結構長くない?」
「先ほど一周だけかと聞いたのは姫様ですが」
「聞いたけどぉ……」
それでも、走る。速度はずいぶん落ちた。最後には走っているのか歩いているのか怪しいほどになったが、それでも一周を終えた。
「……つかれたぁ……」
「座らないでください。少し歩きましょう」
「まだ何かするの?」
「身体を慣らします」
「訓練って大変……」
始まって、まだ一周である。
水分を取り、十分に休憩してから、次は簡単な身体の動きを確認することになった。
しゃがむ。立つ。腕を伸ばす。そこまでは、特に問題ない。
「では、片足で立ってください」
「片足?」
「はい。まずは十数えます」
「わかった」
エリアーナは片足を上げた。
「一、二、三――」
ノクスが数える。
五。六。七。八。九。十。
「…………」
身体は、ほとんど揺れていなかった。
「もう少し続けてみましょう」
「うん」
十五。二十。
まだ、平然としている。
ノクスがわずかに眉を上げた。
「……得意なんですか?」
「舞踊の授業があるから」
エリアーナは片足で立ったまま、胸を張った。
「どやっ!」
「…………」
なぜ得意げなのかは分からないが、少なくとも、体幹と平衡感覚については思っていたよりずっといいらしい。
「もう下ろして構いません」
「まだできるよ?」
「できることは分かりました」
「もっとできるのに」
「記録会ではありません」
しぶしぶ足を下ろすエリアーナを見ながら、ノクスは頭の中で評価を修正した。
持久力はない。
筋力も、おそらく年齢相応。
だが、姿勢の維持と身体のバランスは悪くない。
何もできないわけではないらしい。
むしろ、得意なことと不得意なことが、ずいぶんはっきりしている。
「では、次にいきましょう」
「次はなに?」
まだ少し得意げなエリアーナに、ノクスは地面を示した。
「転び方を覚えます」
「……転び方?」
エリアーナが首を傾げた。
「転ばない練習じゃなくて?」
「もちろん、転ばないに越したことはありません」
ノクスはエリアーナの前に立つ。
「ですが、転ぶときに毎回手をついていたら、手首を痛めます」
「……あ」
「転ばないことより先に、転んでも大きな怪我をしない方法を覚えてください」
まずは低い姿勢から。
身体を丸めること。頭を守ること。手だけで身体を支えようとしないこと。
ひとつずつ説明し、ノクス自身がやって見せる。
「こんな感じです」
「……簡単そう」
「では、どうぞ」
「うん」
しゃがんで、身体を傾けて。教えられた通りに――
「きゃっ」
べしゃ。
「…………」
「…………」
訓練施設の上空では、鳥の鳴き声が聞こえる。
エリアーナは、ゆっくり顔を上げた。
頬に、茶色い泥がついていた。
「ノクス」
「はい」
「泥ついた」
「訓練場なので」
「ほっぺにも」
「ついていますね」
「…………」
袖で拭おうとする。
「待ってください」
ノクスが止めた。
「袖まで汚れます」
腰につけていた布を取り出し、エリアーナへ渡す。
「これを」
「ありがと」
頬を拭いて、エリアーナはまたしゃがんだ。
「もう一回」
今度は先ほどより上手く転がれた。
けれど――。
「……また泥がついた」
「地面に転がっていますからね」
「そっか」
そして、もう一回。また一回。
失敗するたびに泥が増える。
膝。肘。背中。
気がつけば、朝には綺麗だった訓練着が見る影もなくなっていた。
「今のどうだった?」
「先ほどよりいいです」
「ほんと?」
「はい。肩に力が入りすぎていますが」
「じゃあ、もう一回!」
転ぶ。起きる。また転ぶ。今度は少し上手くいく。
できなかったことが、ほんの少しできるようになる。
それが嬉しいのだろう。
泥だらけになっていることなど、もう気にもしていない。
ノクスは黙って、その様子を見ていた。
昨日、精霊の力を前にしたときとは、まるで別人だった。
あれほど途方もない力を持っているのに。
走ればすぐに疲れる。
片足立ちだけはなぜか得意。
転び方ひとつ知らない。
ひどく、ちぐはぐだった。
だが――。
「もう一回!」
できないことを、嫌がらない。
失敗しても、恥ずかしがらない。
ただ、もう一度やろうとする。
その姿だけは、少し意外だった。
「今日はここまでです」
ノクスが告げると。
「えっ?」
エリアーナは目を丸くした。
「もう?」
「もう、です」
「まだできるよ?」
「できるかどうかではありません」
「でも――」
「初日にやりすぎて、明日動けなくなったら意味がないでしょう」
ぴたり。エリアーナが黙る。
「……明日もやるの?」
「身体の状態を見て決めます」
「元気だったら?」
「やります」
ぱっと顔が明るくなった。
「じゃあ、やる!」
「明日の話です」
「明日も元気だから大丈夫!」
「今決めることではありません」
ノクスは小さく息を吐く。
どうやら、精霊使いについて学ぶより先に、覚えなければならないことがひとつ増えたらしい。
この少女は、止めなければ自分からやりすぎる。
「それにしても」
不意に、エリアーナが自分の姿を見下ろした。
「……すごいね」
訓練着は泥だらけ。
膝も。肘も。髪の先にまで、少し泥がついている。
第一皇女と聞いて想像する姿からは、ずいぶん遠い。
「お風呂入らなきゃ」
「そうしてください」
「侍女たちに怒られるかなあ」
「俺も一緒に謝ります」
「ノクスも?」
「俺がやらせましたから」
エリアーナは一瞬きょとんとして、それから楽しそうに笑った。
「じゃあ、一緒に怒られようね」
「怒られることを前提にしないでください」
朝の訓練場に、少女の笑い声が響いた。
まだ剣さえ握っていない。
戦い方など、何ひとつ知らない。
今日覚えたのは走ることと、自分の身体が思ったより動かないことと、怪我をしないように転ぶこと。
ほんの、それだけ。
それでも、泥まみれになった十二歳の姫君にとっては、確かな最初の一歩だった。




